第11話:森の隠れ処と、氷の視線
遂に星華祭が始まり、クラスの仕事をこなす雫と結衣。しかしそこに九重咲耶が現れてーーー。
星華祭の初日は、抜けるような秋晴れに恵まれた。
学園中が華やかな装飾と楽しげな喧騒に包まれる中、私たちのクラスのコンセプトカフェ『森のお茶会』も、オープン直後から大盛況となっていた。
「いらっしゃいませ。森のお茶会へようこそ」
フリルがあしらわれた白いエプロン姿の結衣が、入口でふわりと微笑む。その春の陽だまりのような笑顔に惹きつけられるように、他クラスの生徒や来場者が次々と教室へと吸い込まれていく。
薄暗く落とされた照明の中、オレンジ色の魔力石がアイビーのツタを幻想的に照らし出している。各テーブルでは、クラスメイトたちが指先から微細な熱を放ち、ティーポットの温度を完璧に保ち続けていた。
「雫ちゃん、三番テーブルにクッキーの盛り合わせ、お願いできる?」
「うん、わかった」
私はトレイを受け取り、フロアを歩き出した。
甘い焼き菓子の匂いと、爽やかなカモミールの香りが教室を満たしている。誰もが笑顔で、ささやかな生活魔法の光が蛍のように明滅するこの空間は、本当に平和そのものだった。
――だというのに、私の背筋には、朝からずっと冷たい汗が張り付いて離れなかった。
(……来ている)
九重咲耶。あの氷のように冷たく、圧倒的な威厳を放つ次期当主が、今この学園のどこかを歩いている。
私の肌は、遥か遠くの廊下からじわじわと這い寄ってくる『極低温の魔力』の気配を、痛いほど鮮明に感じ取っていた。それはまるで、色鮮やかな熱帯魚が泳ぐ水槽の中に、一匹だけ巨大で冷酷なサメが放たれたような、決定的な異物感だった。
ふと、教室の外の廊下が、不自然なほど静まり返った。
楽しげなざわめきが、波が引くようにスッと消える。
「……嘘。九重様が、こっちの棟に来てるらしいよ」
入口付近にいたクラスメイトの一人が、ひそひそ声で伝達してきた。
教室内の空気が、一瞬にしてピンと張り詰める。一般の生徒にとって、五家の当主クラスとは文字通り住む世界が違う存在だ。憧れと畏怖が入り交じった緊張感が、伝染するように広がっていく。
(落ち着け。……絶対に、見つかるわけにはいかない)
私はフロアの隅にある配膳台の陰に身を潜め、小さく深呼吸をした。
現在、私の規格外の魔力は、胸の奥底の極小の一点に圧縮され、完全に沈黙している。魔力的な波長は「無」だ。
しかし、それがかえって危険だった。
周囲の生徒たちが皆、生活魔法の微かな波長を放っているこの空間で、私一人だけが完全に「無」であることは、咲耶のような探知能力の極まった者からすれば、暗闇の中で一人だけ息を止めているような不自然さがある。
空白を隠すためには、他者の魔力という「ノイズ」で私の輪郭を塗りつぶすしかない。
「雫ちゃん?」
配膳台の裏で硬直している私を見つけて、結衣が小走りで駆け寄ってきた。
「どうしたの? 顔、真っ青だよ。もしかして、具合悪い……?」
「……結衣」
私は震える手を伸ばし、エプロン姿の結衣の右手を、両手でぎゅっと握りしめた。
「あっ……ええと、雫ちゃん?」
結衣が少し驚いて目を丸くする。
「ごめん、少しだけ……少しだけ、こうさせて。人が多くて、ちょっと酔っちゃったみたいで」
苦しい言い訳だったが、結衣は「そっか」と優しく微笑み、何も言わずに私の手を握り返してくれた。
トクン、と。
結衣の温かい体温と共に、彼女の持つペパーミントのような澄んだ魔力の波長が、私の手からじんわりと流れ込んでくる。私はその波長を毛布のように引き寄せ、自分の中にある「空白」の上からすっぽりと被せた。
これで、外側から見れば、私は『結衣と同じ生活魔法の気配を持った、ただの女子高生』に偽装できるはずだ。
その直後だった。
コツン、と。静まり返った廊下から、硬い靴音が一つ、響いた。
教室の入り口の木枠をくぐり、その少女が姿を現した。
仕立ての良い黒いスーツ。艶やかな黒髪。そして、周囲の温かい空気を一瞬にして凍らせてしまうような、冷たく澄んだ切れ長の瞳。
九重咲耶が、側近を数名引き連れて『森のお茶会』の入り口に立っていた。
「……ほほう。生活魔法を応用したコンセプトカフェですか。なかなか趣向が凝らされていますね」
咲耶の声は、鈴を転がすように美しく、それでいて刃物のように冷たかった。
クラスメイトたちは息を呑み、誰も動くことができない。
咲耶は教室内をゆっくりと見渡した。その氷の瞳が、テーブルの上のランタン、壁のアイビー、そして……配膳台の陰にいる私と結衣の姿を、順番に舐めるように通り過ぎていく。
心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
結衣の背中に隠れるように顔を伏せながら、私は結衣の手にさらに強く縋り付いた。
(気づかないで。お願いだから、通り過ぎて……!)
咲耶の魔力探知が、目に見えないレーダーのように教室内を走るのを感じた。
彼女の冷たい波長が、私と結衣の身体を通り抜ける。
探知の波は、私の表面を覆っていた結衣の穏やかな魔力を『ただの生徒のもの』として処理し、スッと滑り抜けていった。
しかし、咲耶は立ち去ろうとはしなかった。
彼女はふと、視線を配膳台の奥へ――結衣へと向け、そしてわずかに眉をひそめた。
「そこのあなた」
凛とした声が響き、私の肩がビクッと跳ねた。
咲耶の視線は私ではなく、私を庇うように立っていた『結衣』に向けられていた。
「この壁のアイビー……あなたが魔法で定着させたものですか?」
咲耶が、壁を這う緑のツタを指さして尋ねた。
結衣は私の手を握ったまま、少しだけ緊張した面持ちで、しかし真っ直ぐに咲耶を見つめ返した。
「……はい、そうです。みんなで育てたツタの形を、私が魔法で整えました」
「見事ですね。植物の生命力を一切損なうことなく、これほど広範囲に渡って魔力の均一性を保ち続けるなど……ただの生活魔法の枠を超えた、極めて繊細な制御です。藤ケ丘にこれほど優秀な生徒がいるとは」
それは、五家の次期当主からの、最大級の賛辞だった。
しかし、結衣は誇るでもなく、ただ静かに微笑んで頭を下げた。
「ありがとうございます。でも、これは私一人の力じゃありません。隣で支えてくれる友達がいたから、できたことです」
そう言って、結衣は私の手を、きゅっと優しく握り返してくれた。
その瞬間、咲耶の切れ長の瞳がスッと細められ、結衣の背後に隠れる私の頭頂部を鋭く射抜いた。
彼女の目が、微かな疑念に揺れる。
――この見事な制御力を持つ生徒の魔力波長の奥に、一瞬だけ、不自然なほどの『完全な静寂』が覗いたような気がしたからだ。
数秒の、永遠にも似た沈黙。
咲耶は私の正体を暴こうと、さらに深く探知の網を広げようとした。
しかし、結衣の純粋で淀みのない魔力が壁となり、それ以上の干渉を無意識に弾き返していた。これ以上踏み込めば、五家の当主が一般の生徒に対して理由もなく威圧的な魔法を行使したことになってしまう。
「……そうですか。良き友人に恵まれましたね」
咲耶はふっと視線を外し、靴音を響かせて踵を返した。
「行きましょう。ここは『ただの平和な教室』です。……今のところは、ですが」
側近たちを引き連れ、黒いスーツの背中が教室から遠ざかっていく。
足音が完全に聞こえなくなるまで、教室内の時間は止まったままだった。
「……はぁっ」
咲耶の気配が完全に消え去った瞬間、私は膝から崩れ落ちそうになり、配膳台に手をついて荒い息を吐いた。
全身が汗びっしょりだった。間一髪。だが、咲耶は確実に『何か』を感じ取っていた。次会えば、もう誤魔化しは効かないだろう。
「雫ちゃん、大丈夫!? ほら、やっぱり具合悪いんじゃ……」
結衣が慌てて私を覗き込む。
「……ううん、大丈夫。結衣が、手を握っててくれたから」
私は震える息を吐き出しながら、なんとか笑顔を作った。
しかし、私の胸の奥は、ドス黒い罪悪感で塗り潰されていた。
結衣は「友達がいたから」と言ってくれた。だが、私が結衣の傍にいればいるほど、彼女を五家の目に晒し、この巨大な陰謀の渦に巻き込んでしまうことになる。
先ほどの咲耶の視線を思い出し、私は強く奥歯を噛み締めた。
(これ以上、結衣を巻き込めない)
タイムリミットは、もう引き伸ばせない。
星華祭が終わる日の夜。すべてを打ち明け、あの星空を見せて、私は彼女の前から消えなければならない。
結衣の温かい手のひらの感触を噛み締めながら、私は静かに、決定的な『別れ』への覚悟を固めていた。
第一章最終第12話へ続く




