第10話:透明な境界線と、叶えられないかもしれない約束
とうとう星華祭が間近に迫り、出し物の完成に近づく雫と結衣のクラス。九重咲耶が来る当日に備え、自身の魔力を制御出来なければならないが...
星華祭を二日後に控えた、十一月の初旬。
学園は、いよいよ抑えきれない祭りの熱気に包まれていた。中庭には見上げるほど大きな木組みのアーチが建てられ、各教室からは連日、遅くまで準備に勤しむ生徒たちの笑い声や、微弱な生活魔法の弾ける音が聞こえてくる。
私たちのクラスの『森のお茶会』も、ついに完成の時を迎えていた。
放課後の教室。天井からは結衣たちが丹念に育てた本物のアイビーが幾重にも垂れ下がり、窓際には淡く発光する魔力石を仕込んだアンティーク調のランタンが並んでいる。いつもの殺風景な教室は、魔力石のオレンジ色の光に照らされ、まるで絵本の中に迷い込んだような、薄暗くも温かい秘密の森へと見事に変貌していた。
「すごい……本当に、森の中みたい」
ランタンの柔らかな光を顔に受けながら、結衣がうっとりと感嘆の息を漏らす。
「みんなの魔法のおかげだね。結衣のツタも、すごく綺麗に壁を覆ってる」
「雫ちゃんも、黒板のメニュー表、すごく丁寧に書いてくれたじゃない。ありがとうね」
すっかり日が落ち、他の生徒たちが下校していく中、私たち二人は最後の見回りとして薄暗い教室に残っていた。
私の胸の奥には、数日前に結衣と手を繋いだ時に定着させた『五感共有の魔法』の結晶が、静かな熱を持って収まっている。いつでも発動できる。結衣の心に、あの星空を届ける準備は完了していた。
自らの巨大な魔力を一点に圧縮し、完全にコントロール下に置いたことで、今の私は魔法の波動を一切外へ漏らさない「完璧な隠蔽状態」にある。
しかし、それが意味するのは、この愛おしいモラトリアムの終わりだった。
魔法を見せ、自分の正体を明かせば、私はもう結衣の隣で笑い合うことはできない。九重咲耶の視察が迫る中、私はいずれこの学園を去るか、五家に投降しなければならない運命にあるのだから。
「……雫ちゃん?」
ふいに、結衣の静かな声が降ってきた。
窓辺のランタンを拭いていた私が振り返ると、結衣が少しだけ寂しそうな、けれど真っ直ぐな瞳で私を見つめていた。
「なんだか、雫ちゃん……すごく、遠くにいるみたい」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
結衣は私の制服の袖口をそっと摘み、不安げに目を伏せた。
「最近ね、雫ちゃんの魔法の感じが、全然しなくなったの。いつもは、不器用だけど一生懸命で、少しだけ熱い雫ちゃんの気配が傍にあったのに……今は、なんだか雫ちゃんが、透明になっちゃいそうな気がして。ふっと風が吹いたら、消えちゃいそうで、すごく怖い」
「……」
私は息を呑んだ。
魔力を完璧に圧縮し、五家の探知から身を隠すための『静寂』が、皮肉にも結衣には「雫がいなくなってしまう予兆」として伝わっていたのだ。
ただ優しいだけでなく、他者の痛みに聡い彼女だからこそ、私の不器用な隠し事や、心の奥底で下した「別れの覚悟」を、とうの昔に見透かしていたのだろう。
「図書室の時も。一緒に帰る時も」
結衣の指先が、私の袖をきゅっと強く握りしめる。
「雫ちゃんはいつも優しく笑ってくれるけど、本当は、一人で何かすごく重いものを背負ってるんじゃないかって……私には、何もしてあげられないのかなって、ずっと考えてた」
その震える声に、私はゆっくりと、袖を掴む彼女の手に自分の手を重ねた。
「結衣がいてくれたから、私は今日まで、この学園で笑っていられたんだよ。結衣の淹れてくれるお茶や、優しい魔法がなかったら、私はきっと、自分の重さに耐えきれずに潰れてた」
それは、紛れもない本心だった。
結衣の波長があったからこそ、私の魔法は完成した。彼女の存在が、私という怪物を「人間」に繋ぎ止めてくれていた。
「私ね、星華祭が終わったら……結衣に、ちゃんと全部話すよ。私が今まで隠していたこと、全部。……だから、それまでは」
――話せば、私は君の前から姿を消すことになる。
喉の奥まで出かかった残酷な真実を飲み込み、私は必死に微笑みを作った。
「うん」
結衣は私の言葉を遮るように、小さく、しかし力強く頷いた。
そして、重ねられた私の手を、両手でぎゅっと包み込む。
「待ってる。雫ちゃんが話してくれるまで、ずっと。……でもね、一つだけ約束して」
「約束……?」
「どんなに重いことでも、一人で勝手にいなくならないで。雫ちゃんが透明になりそうな時は、私がこうして、手でぎゅって掴んでてあげる。だから、どこにも行かないって約束して」
結衣の温かい手が、私の冷たい指先を力強く握りしめる。
その体温の確かな重みに、私は泣き出しそうになるのを必死で堪えた。
守れないかもしれない約束。彼女を巻き込まないためには、私は一人で消えなければならないのに。
それでも、私には彼女のこの手を振り払うことなど、絶対にできなかった。
「……うん。約束する」
震える声でそう嘘を吐くと、結衣は安堵したようにふわりと、いつもの春の陽だまりのような笑顔に戻った。
「よかった! じゃあ、明後日からの星華祭、思いっきり楽しもうね。二人でいっぱい回って、美味しいもの食べて、写真もたくさん撮ろ!」
「……うんっ」
私は何度も頷きながら、彼女の温かい手を握り返した。
絶対に、この手を離さない。この学園を去るその瞬間まで、結衣との時間を一秒でも長くこの目に焼き付ける。
そうして、夜が明け、また次の夜が過ぎて。
ついに、運命の星華祭の朝がやってきた。
抜けるような秋の青空の下、学園の正門には華やかなアーチが掲げられ、生徒たちの活気ある声が響き渡っている。
いつも通りの生活魔法が、今日は特別なお祭りのために惜しげもなく使われ、空には光の紙吹雪が舞い、甘いクレープや焼き菓子の匂いが風に乗って運ばれてくる。誰もが笑顔で、平和で、色鮮やかな世界。
私は森のカフェに改装された教室の窓から、賑わう正門を見下ろしていた。
その時だった。
歓声に包まれた門の向こう側から、黒塗りの重厚な高級車が数台、音もなく静かに滑り込んでくるのが見えた。周囲の生徒たちが何事かと道を空け、ざわめきが波のように広がっていく。
車から降り立ったのは、仕立ての良い黒いスーツに身を包んだ数人の大人たちと――その中心で、周囲の喧騒を一切寄せ付けない、氷のように冷たく美しい威厳を放つ少女だった。
九重咲耶。
彼女が学園の敷地に足を踏み入れた瞬間、私の肌を、目には見えない極低温の刃がピリッと撫でた。
管理者たちの目が、ついにこの場所に到達した。あの車列だけが、この温かい学園の中で完全に異質な『世界の裏側』の空気を纏っている。
「雫ちゃん! エプロン着替えたよ、似合うかな?」
背後から、結衣の明るい声がした。
私は深く息を吸い込み、強張った指先をギュッと握りしめてから、窓の外から視線を外して振り返った。
「うん、すごく可愛いよ、結衣」
ーーー祭りの幕が、上がる。
私の長く短いモラトリアムの、最後の二日間が始まった。
第1章完結記念として、次回は11、12話を一挙に公開致します!お楽しみに!!




