EP 9
「悪人専門の弁護士」
「久しぶりね。龍魔呂」
その名前が、店の空気にゆっくりと沈んでいった。
わたしは、グラスを持ったまま動けなかった。
龍魔呂。
三ヶ月、同じ屋根の下にいて。毎日ごはんを作ってもらって。
わたしは、この人の名前を、知らなかった。
「……」
彼は、何も言わなかった。
ただ、棚から茶葉の缶を下ろした。
BARの棚に、紅茶の缶がある。それがずっと不思議だったのだけれど、今、理由がわかった。
この人が来ることが、わかっていたのだ。
「あら。覚えていてくれたの」
「置いといただけだ」
「三年もね」
女性は、優雅にカウンター席に腰を下ろした。
黒いスーツ。結い上げた金髪。書類鞄。
そして足元には、頭が三つある黒い犬。
その犬が、わたしのほうを向いた。
真ん中の頭が、口を開いた。
「新入りか」
「ひぇっ」
グラスを落としかけた。
「喋った」
「喋る」
「喋りました!?」
「アモンよ」
女性が笑った。
「わたしの相棒。鼻がいいの。……嘘をつくと、動くわ」
三つの鼻が、ふんふんと動いた。
「桜田リベラ。この村で法律事務所をやっているの。あなたは?」
「ミレイユ、です。ここで働いてます」
「知ってるわ」
彼女は、紅茶のカップを受け取りながら言った。
「詐欺を一口で見破ったお嬢さんでしょう。……あなたに会いに来たの」
「先に用件を言え」
龍魔呂さん——まだ、その名前で呼ぶのは慣れない——が、低く言った。
「積もる話は?」
「ねぇよ」
「つれないわね」
リベラさんは、紅茶をひと口飲んだ。
そして、目を細めた。
「……相変わらず、腹が立つくらい美味しいわね」
彼女は、鞄から書類を出した。
「隣町のリコーヌで、十七人が倒れたわ。三日前から」
「え」
「うち四人が子供。二人は、もう助からない」
わたしの手が、止まった。
「鉛中毒よ」
——ああ。
胃の底が、冷たくなった。
「メルカド商会の、偽の月光薬ですね」
「そう」
リベラさんは頷いた。
「うちの村では止められた。あなたのおかげでね。でも」
彼女は、書類をカウンターに滑らせた。
「あの荷馬車三台は、売れ残りだったの」
「……」
「ポポロ村に来る前に、すでに隣町を回っていた。三千本以上が、市場に出ている」
「昨日、実行犯が捕まったわ」
リベラさんは、写真を一枚置いた。
わたしは、それを見た。
見た瞬間、喉が詰まった。
——あの夜、わたしの手首を掴んだ男だった。
「グレアム・ボット。三十四歳。メルカド商会の下っ端」
「この人が、作ったんですか」
「帝国はそう主張しているわ。単独犯、と」
彼女は、紅茶のカップを置いた。
「三日後に、公開処刑」
「え」
「早すぎるでしょう?」
「わたしはね」
リベラさんは、静かに言った。
「彼の弁護人を引き受けたの」
わたしは、彼女の顔を見た。
「……どうして」
「あら、怒っていいのよ。あなたを襲った男ですもの」
「そうじゃなくて」
言葉が、うまく出てこなかった。
「その人、鉛入りの薬を売ったんですよね。子供が死ぬかもしれないのに」
「ええ」
「なのに、なぜ」
リベラさんは、しばらく黙っていた。
それから、カップの縁を指でなぞりながら言った。
「彼、字が読めないの」
「え」
「契約書も、成分表も、読めないの。読めない人間が、鉛の配合を決められると思う?」
「……あ」
「彼は運んだだけ。作ったのは、別にいるわ」
彼女の声が、少しだけ硬くなった。
「三日後に彼を殺せば、事件は終わる。帝国は面子を保てる。本当に作った人間は、来年また同じことをする」
「わたしはね、ミレイユさん」
彼女は、まっすぐにわたしを見た。
「悪人専門の弁護士と呼ばれているわ。悪人を無罪にする女だと」
「……」
「でも違うの」
赤い唇が、はっきりと動いた。
「最初から悪人だった人間なんて、ひとりもいないの」
わたしは、何も言えなかった。
「罪は憎むわ。憎み抜く。でも、人を憎んでも、次の子供は死ぬだけよ」
「捜査は、してるんですか」
「してるわ。でも、行き詰まってる」
リベラさんは、鞄からもう一つ、小瓶を取り出した。
「押収した現物よ。錬金術師三人に鑑定させたけれど、答えは同じ」
「なんて?」
「『陽薬草と、水と、白粉です』」
彼女は、疲れたように息を吐いた。
「それはこっちも知ってるのよ。知りたいのは、どこで作られたかなの」
わたしは、その小瓶を見ていた。
乳白色の、淡く光る液体。
心臓が、鳴っていた。
「あの」
「ええ」
「それ、飲ませてもらえますか」
店が、静まり返った。
「ミレイユさん。これ、鉛入りよ」
「知ってます」
「一口でも——」
「飲んだことがあります」
言ってしまってから、しまった、と思った。
リベラさんの目が、すっと細くなった。
足元のアモンが、鼻を動かした。三つとも。
嘘は、ついていない。
「……」
「ミレイユ」
低い声がした。
振り向くと、龍魔呂さんが、こちらを見ていた。
「やめとけ」
「でも」
「金は他から出る。人手も出る。お前が飲む理由はねぇ」
わたしは。
三年間、誰かの代わりに毒を飲んできた。
それは、わたしの意思じゃなかった。
でも。
「あります」
わたしは言った。
「隣町の子供が、二人死ぬんです」
「……」
「一口で、場所がわかるかもしれないんです」
膝が、笑っていた。
それでも、声は震えなかった。
「わたしが選んで飲むのは、初めてです」
長い沈黙があった。
龍魔呂さんは、しばらくわたしを見ていた。
それから、カウンターの下から何かを取り出した。
木の椀と、水差し。それから、白い塊がひとつ。
「一口だけだ」
「はい」
「口ゆすげ。全部吐け。飲み込むな」
「はい」
彼は、椀を置いた。
そして、その隣に。
角砂糖を、ひとつ。
「終わったら、食え」
栓を、抜いた。
匂いを吸った。
そして、ほんの少しだけ、舌に乗せた。
——流れ込んでくる。
陽薬草、レオンハート南部、乾燥不足。
井戸水。濾していない。鉄分過多。
鉛白。粒度が粗い。手作業で挽いたもの。
そして——
「……あ」
それ以外に、何かがある。
ごく微量。ほとんど痕跡と言っていい。
でも、わたしの舌は、それを拾った。
「これ」
わたしは、椀に吐き出した。水で口をゆすいだ。何度も。
そして、顔を上げた。
「これ、混ぜてあります」
「混ぜて?」
「偽物に、本物が、ほんの少し」
リベラさんの表情が、変わった。
「……本物?」
「はい。ほんのわずかですけど、間違いなく」
わたしは、はっきりと言った。
「月兎族の力が、入っています」
「そんなはずないわ」
リベラさんが、初めて動揺した声を出した。
「月光薬は、キャルル村長にしか作れない。本人が言っていたはずよ」
「作れません。でも」
わたしは、自分の言葉が意味することに、遅れて気づいた。
背筋が、冷たくなった。
「盗めば、あります」
店の中が、しん、とした。
「本物の月光薬を、水で何十倍にも薄めて、陽薬草と白粉で嵩を増している。だから、飲んだ人の何割かは、実際に少しだけ治るんです」
「……だから、噂が広まった」
「はい。効く薬だと」
わたしは、握った手が震えているのに気づいた。
「本物が無ければ、この詐欺は成立していません。誰かが、本物の月光薬を、大量に持ち出しています」
リベラさんが、ゆっくりと立ち上がった。
紅茶が、まだ半分残っていた。
「ミレイユさん」
「はい」
「この村の月光薬の備蓄は、誰が管理していたか、知ってる?」
わたしは、首を振った。
答えたのは、龍魔呂さんだった。
「前の村長だ」
「ゲートボール大会で魔族の貴婦人と駆け落ちして、村の資金を持ち逃げした」
彼は、布巾でカウンターを拭きながら、淡々と言った。
「金だけだと思ってたがな」
かちゃ、と。
リベラさんが、鞄から金色の煙管を取り出した。
火は点けない。ただ、口に咥えた。
そして、初めて。
その声が、丁寧なものから、ずっと低く、ずっと荒いものに変わった。
「……ロップのジジイ、やってくれとるのう」
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




