EP 8
「鬼の龍儀」
朝、階段を降りると、革袋はまだそこにあった。
昨夜置かれた場所から、一ミリも動いていない。
彼は、いつも通り竈の前にいた。
「おはようございます」
「ああ」
それだけだった。
袋のことには、触れなかった。
わたしが触れるまで、たぶんずっとそこに置いておくつもりなのだ。逃げ道は開けたまま、閉じもせず、催促もせず。
息が、詰まった。
「あの、買い出し、行ってきます」
「メモ、書いてねぇぞ」
「勝手に見てきます」
わたしは、逃げるように店を出た。
村は、いつも通りだった。
昨夜のことを知っている人がいるはずなのに、誰も何も言わない。
ガーリッ君がまた絡んできて、ネギオ先生に畑へ埋められていた。
わたしは、鍛冶場の前で足を止めた。
槌の音が、鳴っていた。
「来ると思ってたよ」
鍛冶屋のおじいさんは、赤熱した鉄を叩きながら言った。
「昨夜は悪かったな。逃げろって言っといて、自分は先に帰った」
「いえ」
「情けねぇ話だがな。あそこにいたら、俺も足が動かなくなる」
火箸で鉄をひっくり返す。火花が散った。
「聞きに来たんだろ。あの人のこと」
「……はい」
わたしは、頷いた。
「聞くなって、言われましたけど」
「昔のことは聞くなと言った。あの人の過去はな」
おじいさんは、槌を置いた。
「でも、掟の話なら、この村の全員が知ってる」
「掟?」
「ああ」
彼は、手拭いで顔を拭いた。
「あの人が守ってる、五つの決まりだ」
「あの人がこの村に流れてきたのは、三年前の冬だった」
おじいさんは、火床の前に腰を下ろした。
「半分死んでたな。雪の中を歩いてきて、村の外れで倒れてた。前の村長が拾って、空いてた店を貸した」
——三年前。
わたしが、聖女になった年だ。
「最初の半年は、誰も近寄らなかった。そりゃそうだ。あんなもんが村に来たんだ。皆、いつ出ていってくれるかって話してた」
「……」
「変わったのは、次の春だ」
「奴隷商が来た」
おじいさんの声が、低くなった。
「この辺は緩衝地帯だからな。国の目が届かねぇ。子供をさらって、三国の外へ売り飛ばす連中がいるんだ」
胃の奥が、冷たくなった。
「三十人ばかりの武装集団でな。うちの自警団じゃ、当時はまだ手に負えなかった。村の子が四人、連れていかれた」
「それで」
「あの人が、追った」
槌を叩く音が、遠くで鳴っている。
「一晩だ」
おじいさんは、それだけ言った。
「一晩で、子供四人を連れて帰ってきた。傷ひとつ負わせずにな。……奴隷商のほうは、誰も帰ってこなかった」
「その日から、あの人はこの村の人間になった」
「村長さんは、それを許したんですか」
「許すも何も」
おじいさんが、乾いた声で笑った。
「あの人はな、帰ってきたその足で、村長に頭を下げたんだ」
「頭を?」
「『勝手なことをした。出ていけと言うなら出ていく』ってな」
わたしは、言葉を失った。
「あんなもんが、だぜ。ひとりで三十人潰しといて、村の若造に頭下げてんだ」
「掟の話だったな」
おじいさんは、指を五本立てた。
「一つ。カタギには手を出さない」
「カタギ」
「悪事に関わってねぇ人間のことだ。どんなに気に食わなくても、絶対に手を出さねぇ。昨夜のあれも、向こうが賞金首だから成立してる」
指が、二本目。
「二つ。世話になった土地は守る」
「……この村ですね」
「そうだ。だから、あの人はここから出ていかねぇ」
三本目。
「三つ。悪から巻き上げた金は、孤児院へ」
「孤児院?」
「隣国の孤児院に、毎月金が届いてる。差出人不明でな。金額が、あの人が潰した悪党の数と、綺麗に一致してる」
わたしは、口を押さえた。
四本目。
「四つ。悪は根絶やしにする」
おじいさんの目が、少し暗くなった。
「これは、そのままの意味だ。あの人は、逃がさねぇ。反省も、更生も、示談もねぇ。……あの人にとっちゃ、悪ってのは殺すもんなんだ」
「……」
「怖いか」
「はい」
「そうだろうな」
「それでな、嬢ちゃん」
おじいさんは、五本目の指を立てた。
そして、少し言い淀んだ。
「五つ目が、変なんだ」
「変?」
「悪に子供がいたら、手を引く」
わたしは、顔を上げた。
「どんな外道でもな。そいつに子がいるとわかった瞬間、あの人は手を止める。殺さねぇ。……そのまま、帰ってくる」
「でも、それじゃ、悪が」
「そうだ。生き残る。四つ目の掟と、真正面からぶつかってる」
おじいさんは、火床の炭を掻いた。
「一度な、それで大怪我したことがある。手を止めた相手に、背中から刺された。血まみれで帰ってきて、それでも次の日には店を開けてやがった」
「……なぜ、そんな」
「わからん」
彼は、首を振った。
「村の誰も、知らねぇ。聞いた奴もいねぇ。……ただ」
「ただ?」
「あの人が唯一、自分に許してねぇことなんだろうよ」
「だからな、嬢ちゃん」
おじいさんは立ち上がって、槌を握り直した。
「怖いのは、正しい。怖がっていい」
「……はい」
「けどな。あの人は、線から出ねぇ」
火花が、散った。
「あの人が引いた線は、あの人自身を縛るための線だ。血だらけになってでも守ってる。……あんなもん、人間じゃなきゃできねぇよ」
わたしは、村を歩いた。
考えながら、歩いた。
——線を引いている。
自分が何であるかを知っていて、その上で、線を引いている。
昨夜、水を置いて一歩下がったのも。
金を渡して逃げ道を作ったのも。
全部、同じ線だ。
あの人は、わたしを怖がらせないための線を、自分に引いた。
わたしは、雑貨屋の前で足を止めた。
そして、店に入った。
「いらっしゃい。あら、鬼龍の——」
「あの」
わたしは、革袋を、そのままカウンターに置いた。
「角砂糖を、ください」
「え?」
「これで買えるだけ、全部」
抱えて帰るのに、二往復した。
彼は、洗い場にいた。
わたしが袋を三つ抱えて店に入ると、さすがに手を止めた。
「……なんだそりゃ」
「角砂糖です」
「見りゃわかる」
「昨日のお金で買いました」
彼が、ゆっくりと振り向いた。
「あれは旅費だ」
「使い道は、わたしが決めます」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
三年間、一度も出せなかった声が。
「……」
「あの、それと」
膝が、また笑い始めた。
「わたし、まだ怖いです。正直に言うと」
「そうか」
「でも」
言葉を、探した。
たくさん考えて歩いてきたのに、いざとなると、何ひとつ出てこなかった。
だから、いちばん単純なことを言った。
「居させてください」
長い、沈黙があった。
彼は、わたしの抱えた袋を見ていた。
それから、洗い場のふきんで手を拭いて、瓶の蓋を開けた。
角砂糖を、ひとつ摘まむ。
かり、と齧った。
「……甘ぇな」
「砂糖ですから」
「そうだな」
彼は、それだけ言って、また皿を洗い始めた。
でも、わたしは見てしまった。
あの人の口の端が、ほんの少しだけ、上がっていたのを。
その夜。
BARの時間。
戸が、静かに開いた。
入ってきたのは、黒いスーツの女性だった。
金の髪をきつく結い上げ、片手に書類鞄を提げている。
そして、その足元に。
頭が三つある、黒い犬がいた。
「……ひっ」
わたしは、グラスを落としかけた。
女性は、店内をゆっくりと見回した。
そして、カウンターの奥に立つ男を見て、赤い唇で笑った。
「久しぶりね」
「龍魔呂」
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