EP 7
「カチカチ、という音」
翌朝、彼はいつも通りだった。
竈に火を入れ、大根を炊き、包丁を研ぎ、角砂糖を齧っていた。
昨日のことなど、何もなかったみたいに。
奥の席の膳は、片付けられていた。
わたしは、何も聞かなかった。
聞けなかった、というほうが正しい。
「鬼龍」の夜は、昼とは別の店になる。
日が沈むと、彼は棚にかかった布を外す。
現れるのは、琥珀色や深緑の瓶がずらりと並んだ棚だった。ラベルの文字は、わたしの知らない言語のものが多い。
行灯を落とし、灯りを一段暗くする。
そして、蓄音機のようなものに針を落とす。低く、ゆっくりとした弦の音が流れ出す。
同じカウンター、同じ木目。
なのに、空気がまるきり入れ替わる。
夜の客は、静かだった。
昼のように「マスター、大根!」と叫ぶ人はいない。皆、ひとりで来て、ひとつ頼んで、黙って飲んで帰る。
「BARってのはな、嬢ちゃん」
常連の鍛冶屋のおじいさんが、一度だけ教えてくれた。
「喋りに来る場所じゃねぇ。黙りに来る場所だ」
その夜も、静かだった。
客は三人。鍛冶屋のおじいさんと、非番の自警団の人。それから、隅の席で本を読んでいる若い女性。
わたしはグラスを磨いていた。
まだ手つきは覚束ないけれど、拭き方は教わった。布は二枚。持ち方と、力の入れ方。
彼は、カウンターの内側で氷を削っていた。
ざり。ざり。
丸い氷が、少しずつ球になっていく。
その音だけが、店に落ちていた。
戸が、乱暴に開いた。
「——おい、やってるか」
三人。
わたしは、手を止めた。
見覚えがあった。
メルカド商会の男たちだった。
あの日、逃げ散った二十人のうちの三人。
酒が入っている。それも、かなり。頬が赤く、目が据わっていた。
「……いらっしゃい」
彼は、氷を削る手を止めなかった。
三人はカウンターに並んで座り、一番強い酒を注文した。
飲んだ。
すぐにもう一杯を頼んだ。
そして、わたしを見た。
「なあ」
真ん中の男が言った。
「お前だよな」
胃の奥が、冷たくなった。
「あの日、余計なこと言った女」
「……」
「あれから大変だったんだぜ。認可は取り消し、商会は解散、俺たちゃ賞金首だ。全部お前のせいでな」
「その薬には鉛が入っていました」
言った。声が震えていた。それでも言った。
「飲めば、村の人が死にます」
「知るかよ」
男が笑った。
「死ぬのは村の奴だろ。俺たちは死なねぇ。関係ねぇじゃねぇか」
——ああ。
そのとき、わかってしまった。
この人たちには、本当に、通じない。
ゼロスと同じだ。
三年間、わたしが毒を飲むたび、「よかった、俺じゃなくて」と笑った、あの顔と。
同じ、種類の人間だ。
「なあ、詫び入れろよ」
男が身を乗り出した。
酒の匂いが届く。
「土下座しろとは言わねぇ。ちょっと付き合え。外でな」
「お断りします」
「あ?」
「お断り、します」
手首を、掴まれた。
「っ——!」
「うるせぇんだよ」
強い。振りほどけない。骨が軋んだ。
「たかが飯屋の下働きがよぉ、俺の人生めちゃくちゃにしといて、なあ——」
わたしは、彼のほうを見た。
助けを求めたわけじゃない。
ただ、勝手に、目が動いた。
彼は、動かなかった。
氷を削る手も、止めなかった。
ざり。ざり。
こちらを見てもいない。
わたしは、その横顔を見ていた。
そして、思った。
——この人は、たぶん。
もう、決めている。
彼が、ゆっくりと、氷を置いた。
布巾で手を拭いた。
丁寧に、指の一本一本を。
そして、シャツの胸ポケットに、手を入れた。
出てきたのは、小さな金属の塊だった。
真鍮の、オイルライター。
角が丸くなるほど使い込まれている。表面の刻印は、擦れてもう読めない。
彼は、それを親指で開けた。
カチ。
——空気が、変わった。
いや、違う。
空気が、無くなった。
そう錯覚するほど、店から音が消えた。
蓄音機は鳴っている。でも、聞こえない。
彼は、火をつけなかった。
煙草も咥えていない。
ただ、蓋を閉じた。
カチ。
そして、また開けた。
カチ。
隅の席の女性が、本を閉じて立ち上がった。
一言も発さずに、硬貨をテーブルに置いて、店を出ていった。
自警団の人が続いた。
鍛冶屋のおじいさんが、最後に立ち上がった。
去り際、彼は男たちのほうを一度も見なかった。
代わりに、わたしの顔を見た。
そして、口の形だけで言った。
「にげろ」
カチ。
カチ。
わたしの手首を掴んでいた男が、震え始めた。
「……お、おい」
隣の男の声が、裏返っていた。
「おい、やべぇ、やべぇって」
「なんだよ、たかが飯屋の——」
「俺、こいつ知ってる」
一番端の男だった。
顔が、真っ白だった。
「俺、傭兵やってた。北の戦線で。……三年前に、一個中隊が消えた話、知ってるか」
「なに言って」
「生き残った奴が、みんな同じこと言ってたんだ」
男の歯が、鳴っていた。
「音がしただけだったって」
カチ。
わたしの手首が、解放された。
男は、自分の手を見ていた。
なぜ離したのか、自分でもわかっていない顔だった。
「ひっ」
床に、水音がした。
椅子が倒れた。
三人は、悲鳴とも言えない音を喉から出しながら、転がるように店を出ていった。
戸が、開いたままだった。
夜風が、入ってきた。
蓄音機の音が、戻ってきた。
彼は、ライターを閉じて、胸ポケットに戻した。
カチ。
最後の一回だけ、なぜか、ひどく静かな音だった。
そして、戸を閉めに行った。
床を拭いた。倒れた椅子を直した。
グラスを片付けて、カウンターに戻ってきた。
「……」
彼は、水を一杯注いだ。
そして、わたしの前に置いた。
置いて、一歩、下がった。
わたしは、それに気づいてしまった。
近づいてこない。
わざと、距離を取ったのだ。
「……っ」
そのとき、自分の体が震えていることに、初めて気づいた。
さっきの男たちにではない。
——この人が、怖い。
震える手で、水を飲んだ。
飲めなかった。歯が、ガラスに当たって鳴った。
彼は、それを見ていた。
そして、静かに聞いた。
「怖いか」
嘘をつくべきだと思った。
「怖くないです」と言うべきだと。
助けてもらったのだ。二度も。この人はわたしのために動いた。
でも、わたしの口は。
三年間、何も言えなかったこの口は。
なぜかこのときだけ、動いた。
「……はい」
沈黙が、落ちた。
彼は、頷いた。
責めなかった。傷ついた顔も、しなかった。
「そうか」
ただ、そう言った。
そして、カウンターの下から、小さな革袋を取り出した。
置いた音で、中身がわかった。
硬貨だ。それも、この村の日当にしては、多すぎる量。
「賃金だ。前借り分も入ってる」
「……え」
「あと、旅費も足しといた」
彼は、布巾を畳みながら言った。
いつもの、なんでもない口調で。
「怖ぇと思ったやつは、逃げていい」
「マス、ター」
「明日でも、今夜でもいい」
彼は、こちらを見なかった。
「行くとき、戸締まりだけしてけ」
その夜、わたしは眠れなかった。
天井を見ていた。
階下では、いつもより長く、水を使う音がしていた。
彼が、何度も何度も、手を洗っている音だった。
革袋は。
カウンターの上に、置いたままだった。
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