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毒見役だった私を拾ったのは、村で一番怖い小料理屋の店主でした ~捨てた勇者は、そのあと村に来ないでください~  作者: 月神世一


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7/22

EP 7

「カチカチ、という音」

翌朝、彼はいつも通りだった。

竈に火を入れ、大根を炊き、包丁を研ぎ、角砂糖を齧っていた。

昨日のことなど、何もなかったみたいに。

奥の席の膳は、片付けられていた。

わたしは、何も聞かなかった。

聞けなかった、というほうが正しい。

「鬼龍」の夜は、昼とは別の店になる。

日が沈むと、彼は棚にかかった布を外す。

現れるのは、琥珀色や深緑の瓶がずらりと並んだ棚だった。ラベルの文字は、わたしの知らない言語のものが多い。

行灯を落とし、灯りを一段暗くする。

そして、蓄音機のようなものに針を落とす。低く、ゆっくりとした弦の音が流れ出す。

同じカウンター、同じ木目。

なのに、空気がまるきり入れ替わる。

夜の客は、静かだった。

昼のように「マスター、大根!」と叫ぶ人はいない。皆、ひとりで来て、ひとつ頼んで、黙って飲んで帰る。

「BARってのはな、嬢ちゃん」

常連の鍛冶屋のおじいさんが、一度だけ教えてくれた。

「喋りに来る場所じゃねぇ。黙りに来る場所だ」

その夜も、静かだった。

客は三人。鍛冶屋のおじいさんと、非番の自警団の人。それから、隅の席で本を読んでいる若い女性。

わたしはグラスを磨いていた。

まだ手つきは覚束ないけれど、拭き方は教わった。布は二枚。持ち方と、力の入れ方。

彼は、カウンターの内側で氷を削っていた。

ざり。ざり。

丸い氷が、少しずつ球になっていく。

その音だけが、店に落ちていた。

戸が、乱暴に開いた。

「——おい、やってるか」

三人。

わたしは、手を止めた。

見覚えがあった。

メルカド商会の男たちだった。

あの日、逃げ散った二十人のうちの三人。

酒が入っている。それも、かなり。頬が赤く、目が据わっていた。

「……いらっしゃい」

彼は、氷を削る手を止めなかった。

三人はカウンターに並んで座り、一番強い酒を注文した。

飲んだ。

すぐにもう一杯を頼んだ。

そして、わたしを見た。

「なあ」

真ん中の男が言った。

「お前だよな」

胃の奥が、冷たくなった。

「あの日、余計なこと言った女」

「……」

「あれから大変だったんだぜ。認可は取り消し、商会は解散、俺たちゃ賞金首だ。全部お前のせいでな」

「その薬には鉛が入っていました」

言った。声が震えていた。それでも言った。

「飲めば、村の人が死にます」

「知るかよ」

男が笑った。

「死ぬのは村の奴だろ。俺たちは死なねぇ。関係ねぇじゃねぇか」

——ああ。

そのとき、わかってしまった。

この人たちには、本当に、通じない。

ゼロスと同じだ。

三年間、わたしが毒を飲むたび、「よかった、俺じゃなくて」と笑った、あの顔と。

同じ、種類の人間だ。

「なあ、詫び入れろよ」

男が身を乗り出した。

酒の匂いが届く。

「土下座しろとは言わねぇ。ちょっと付き合え。外でな」

「お断りします」

「あ?」

「お断り、します」

手首を、掴まれた。

「っ——!」

「うるせぇんだよ」

強い。振りほどけない。骨が軋んだ。

「たかが飯屋の下働きがよぉ、俺の人生めちゃくちゃにしといて、なあ——」

わたしは、彼のほうを見た。

助けを求めたわけじゃない。

ただ、勝手に、目が動いた。

彼は、動かなかった。

氷を削る手も、止めなかった。

ざり。ざり。

こちらを見てもいない。

わたしは、その横顔を見ていた。

そして、思った。

——この人は、たぶん。

もう、決めている。

彼が、ゆっくりと、氷を置いた。

布巾で手を拭いた。

丁寧に、指の一本一本を。

そして、シャツの胸ポケットに、手を入れた。

出てきたのは、小さな金属の塊だった。

真鍮の、オイルライター。

角が丸くなるほど使い込まれている。表面の刻印は、擦れてもう読めない。

彼は、それを親指で開けた。

カチ。

——空気が、変わった。

いや、違う。

空気が、無くなった。

そう錯覚するほど、店から音が消えた。

蓄音機は鳴っている。でも、聞こえない。

彼は、火をつけなかった。

煙草も咥えていない。

ただ、蓋を閉じた。

カチ。

そして、また開けた。

カチ。

隅の席の女性が、本を閉じて立ち上がった。

一言も発さずに、硬貨をテーブルに置いて、店を出ていった。

自警団の人が続いた。

鍛冶屋のおじいさんが、最後に立ち上がった。

去り際、彼は男たちのほうを一度も見なかった。

代わりに、わたしの顔を見た。

そして、口の形だけで言った。

「にげろ」

カチ。

カチ。

わたしの手首を掴んでいた男が、震え始めた。

「……お、おい」

隣の男の声が、裏返っていた。

「おい、やべぇ、やべぇって」

「なんだよ、たかが飯屋の——」

「俺、こいつ知ってる」

一番端の男だった。

顔が、真っ白だった。

「俺、傭兵やってた。北の戦線で。……三年前に、一個中隊が消えた話、知ってるか」

「なに言って」

「生き残った奴が、みんな同じこと言ってたんだ」

男の歯が、鳴っていた。

「音がしただけだったって」

カチ。

わたしの手首が、解放された。

男は、自分の手を見ていた。

なぜ離したのか、自分でもわかっていない顔だった。

「ひっ」

床に、水音がした。

椅子が倒れた。

三人は、悲鳴とも言えない音を喉から出しながら、転がるように店を出ていった。

戸が、開いたままだった。

夜風が、入ってきた。

蓄音機の音が、戻ってきた。

彼は、ライターを閉じて、胸ポケットに戻した。

カチ。

最後の一回だけ、なぜか、ひどく静かな音だった。

そして、戸を閉めに行った。

床を拭いた。倒れた椅子を直した。

グラスを片付けて、カウンターに戻ってきた。

「……」

彼は、水を一杯注いだ。

そして、わたしの前に置いた。

置いて、一歩、下がった。

わたしは、それに気づいてしまった。

近づいてこない。

わざと、距離を取ったのだ。

「……っ」

そのとき、自分の体が震えていることに、初めて気づいた。

さっきの男たちにではない。

——この人が、怖い。

震える手で、水を飲んだ。

飲めなかった。歯が、ガラスに当たって鳴った。

彼は、それを見ていた。

そして、静かに聞いた。

「怖いか」

嘘をつくべきだと思った。

「怖くないです」と言うべきだと。

助けてもらったのだ。二度も。この人はわたしのために動いた。

でも、わたしの口は。

三年間、何も言えなかったこの口は。

なぜかこのときだけ、動いた。

「……はい」

沈黙が、落ちた。

彼は、頷いた。

責めなかった。傷ついた顔も、しなかった。

「そうか」

ただ、そう言った。

そして、カウンターの下から、小さな革袋を取り出した。

置いた音で、中身がわかった。

硬貨だ。それも、この村の日当にしては、多すぎる量。

「賃金だ。前借り分も入ってる」

「……え」

「あと、旅費も足しといた」

彼は、布巾を畳みながら言った。

いつもの、なんでもない口調で。

「怖ぇと思ったやつは、逃げていい」

「マス、ター」

「明日でも、今夜でもいい」

彼は、こちらを見なかった。

「行くとき、戸締まりだけしてけ」

その夜、わたしは眠れなかった。

天井を見ていた。

階下では、いつもより長く、水を使う音がしていた。

彼が、何度も何度も、手を洗っている音だった。

革袋は。

カウンターの上に、置いたままだった。

読んでいただきありがとうございます。

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