EP 6
「家路」
あの日から、村の空気が変わった。
道を歩けば声をかけられる。畑の隅で採れすぎた野菜を押しつけられる。ルナキンの店員さんに「あ、詐欺見破りの人だ」と言われる。
「嬢ちゃん、うちの井戸水も見てくれよ」
「うちの旦那の弁当も頼む」
「浮気してないか味でわかるか?」
「わかりません」
たぶん、わかるけれど。
「なあ、聞いたぞ」
昼の客が引けたあと、常連のおじさんが芋酒を舐めながら言った。
「あんた、あの薬に鉛が入ってるって、一口でわかったんだって?」
「はい」
「怖くなかったのか。鉛だぞ」
わたしは、布巾を絞る手を止めた。
「怖かったですよ」
「だろうな」
「でも」
言葉を探した。
「わたし、あれくらいなら、飲めるので」
おじさんは、何も言わなかった。
ただ、静かに芋酒を飲み干して、ぽん、とカウンターに硬貨を置いて帰っていった。
洗い場のほうから、水を止める音がした。
彼が、こちらを見ていた。
「……なんですか」
「いや」
そして彼は、また皿を洗い始めた。
その夜、賄いに出てきたのは、砂糖をたっぷり使った芋の甘煮だった。
夕方。
昼の営業が終わって、夜のBARにはまだ早い。
「鬼龍」には、そういう空白の時間がある。
その時間になると、店の前に子供たちが集まってくることを、わたしは五日目に知った。
「マスターー!」
「来たよー!」
七、八人。上は十歳くらいから、下はまだ三つか四つ。
彼は、店の前の縁台に腰を下ろしていた。
「早ぇな」
「今日は算術が休みだったの!」
「ネギオ先生が、ガーリッ君を追いかけてったから!」
「そうか」
彼は、盆を子供たちの前に置いた。
芋の甘煮が、小さく切って並べてある。昼の残りだ。
「食え」
「わーい!」
わたしは、洗い物をしながら、その光景を見ていた。
驚いたのは、姿勢だった。
彼が、片膝をつくのだ。
百九十センチの巨体が、地面に膝をついて、子供と目線を合わせる。
「腹減ってねぇか」
「へってなーい!」
「そうか」
そして、頭に手を置く。
人ひとりを片手で持ち上げられそうな手を、まるで羽根みたいに、そっと。
胸のあたりが、あたたかくなった。
——ああ、この人は。
「マスター、あれやってー!」
「あれ?」
「ハーモニカー!」
彼は、少し面倒くさそうな顔をして、それでも懐から小さな銀色のものを取り出した。
古い、使い込まれたハーモニカだった。
金属の表面が、手のひらの形に曇っている。
彼が、それを口に当てた。
——旋律が、流れた。
夕暮れの、少し傾いた光の中に。
わたしは、その曲を知らなかった。
でも、なぜだろう。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれた。
やさしくて、ゆっくりで、どこか遠い。
そして、帰る曲だと思った。
理由はわからない。ただ、そう感じた。仕事を終えた人が、日暮れの道を歩いて、灯りのついた家に帰っていく。そういう音だった。
子供たちが、歌い出した。
言葉のない歌だった。ただ、旋律をなぞって、あーあー、と。
「なんて曲なんですか」
演奏が終わったあと、わたしは聞いた。
彼は、ハーモニカを袖で拭きながら言った。
「知らねぇ」
「……知らない?」
「教わっただけだ」
誰に、とは聞けなかった。
二曲目は、もっと軽い曲だった。
浮かんで、飛んで、そして消えていくような。
子供たちが、手を叩いて跳ねた。
わたしは、洗い場で笑った。
——楽しい。
三年ぶりだった。
そんなふうに、何も考えずに笑うのは。
そのときだった。
「あっ」
いちばん小さい子が、走って、石につまずいた。
ぱたん、と転んだ。
一瞬の間があって。
「うわあああああん!」
火のついたような、泣き声。
彼の顔から、血の気が引いた。
わたしは、彼のすぐ横にいた。
だから、見えた。
見えて、しまった。
ハーモニカが、手から落ちた。
かちん、と縁台に当たって、地面に転がった。
呼吸が、浅く、速くなっていく。
瞳孔が、開いていく。
右手が、震えている。
そして——この人は、今、ここにいない。
体はある。目の前にある。呼吸もしている。
でも、この人が見ているのは、この村ではない。この夕暮れでもない。子供でもない。
もっと遠い、もっと暗い、どこか別の場所だ。
「……マスター」
反応がない。
子供たちは、まだ気づいていない。転んだ子を囲んで、なぐさめている。
「マスターっ」
震える右手が、無意識に、腰のあたりを探った。
——そこに何かがあるはずだ、という手つきだった。
今は、何もないのに。
「マスター!!」
わたしは、その腕に、両手で触れた。
石みたいに硬かった。
そして、ひどく冷たかった。
彼が、ゆっくりと、こちらを向いた。
赤黒い瞳が、わたしを認識するまでに。
一、二、三——
数秒、かかった。
「……ああ」
長い息を吐いた。
「悪ぃ」
低く、掠れた声だった。
「なんでもねぇ」
その日、店は早く閉まった。
「今日は休みだ」
彼はそう言って、暖簾を仕舞った。
夜の客が来て、閉まっているのを見て、何も言わずに帰っていった。
誰も、理由を聞かなかった。
誰も、聞かなかった。
この村の人たちは、知っているのだと思った。
わたしだけが、知らない。
夜。
二階の窓を、少しだけ開けた。
裏庭から、ハーモニカの音が聞こえていた。
夕方の曲じゃなかった。
もっと静かで、もっと短くて、途中で何度も途切れる曲。
上手じゃなかった。
指が——いや、息が、続いていないのだ。
わたしは、階段を降りなかった。
降りては、いけない気がした。
膝を抱えて、その音を聞いていた。
思い出したことがある。
住み込んで三日目の、賄いの汁物。
あの日だけ、味が違った。
いつもは「冷めないうちに食え」だけの、あの人の料理。
あの日だけ、もうひとつ入っていた。
言葉にすれば、たぶん。
——お前は、生きてろ。
そういう味だった。
誰に向けたものなのか、わたしにはわからなかった。
わたしに、ではないと思う。
音が止んだ。
しばらくして、裏口の戸が閉まる音。
わたしは、水を飲みに階段を降りた。
——降りなければ、よかったのに。
暗い店内は、行灯がひとつだけ灯っていた。
カウンターの、いちばん奥。
普段は誰も座らない、壁際の席。
そこに。
膳が、置かれていた。
小さな茶碗。小さな椀。小さな箸。
湯気は、もう立っていない。
でも、間違いなく、今日炊いた飯だった。
——子供用の、器だ。
わたしは、その場に立ち尽くした。
三日目に掃除された二階の部屋。
誰も座らない、奥の席。
毎日、確実に減っていく米の量。
わたしは、この人の作った飯を、何度も食べた。
その飯が誰のために作られていたのか、一度も、考えたことがなかった。
読んでいただきありがとうございます。
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