EP 3
「見ていただけの神様」
次に目を開けたとき、ユイは、雲の上にいた。
体があった。
手があった。足があった。声が、出た。
「——おかえりなさい、雷帝神ユイ」
神々が並んでいた。
世界を救った巫女。その魂は、神格へ昇華した。三百年に一度の慶事だと、誰かが言った。
祝福の言葉が降り注ぐ中で、ユイは一つだけ聞いた。
「下界に、降りられますか」
答えは、簡潔だった。
「神は、下界の因果に直接干渉してはならない」
「破れば、神格を剥奪する」
「……見るのは?」
「それは、自由だ」
ユイが最初に探したのは、墓だった。
死んだと聞いた少年の、墓。
見つからなかった。
そのかわりに。
地下の闘技場で、砂まみれになって立っている、十歳の少年を見つけた。
「……た、つまろ?」
雲の上で、神が膝をついた。
「生きて、」
「生きてる」
「生きてるじゃないか」
歓喜は、三秒で終わった。
左肩の焼き印が、見えた。
四番、と読めた。
そして、ユイは理解した。
あの朝、大神官は嘘をついた。
自分は、嘘のために、炎に入った。
自分が炎に入ったその日に、この子は売られていた。
「……ふ」
「あはは」
雲の上で、神が笑った。
笑いながら、雷を落とした。
その日、神殿がひとつ、地図から消えた。
それから、五年。
ユイは、見ていた。
檻の中で膝を抱える背中を。
砂の上で、誰かを潰す姿を。
勝った日に配られるパンを、自分では食わずに、見張りに押しつける姿を。
月に一度、廊下から中庭を見る三十秒を。
手を振らない理由を、ユイは知っていた。
一度だけ、干渉しようとした。
闘技場の屋根に、雷を落とそうとした。
指先が、天蓋に触れる直前で。
上位神に、腕を掴まれた。
「やめておけ」
「離して」
「お前が神格を失えば、あの子はどうなる」
「見る者すら、いなくなるぞ」
ユイは、腕を下ろした。
それから五年間、一度も、指を上げなかった。
十五の年の冬。
十歳の少年兵が、砂場に出てきた。
ユイは、雲の上から叫んだ。
「殺せ」
初めてだった。
そんなことを口にしたのは。
「殺していいんだよ、たつまろ」
「五年、そうしてきたじゃないか」
「あと一人だよ。あと一人、殺せば、明日も生きられるんだよ」
彼は、刃から手を離した。
雲の上で、ユイは声にならない音を出した。
ゴミ捨て場に、彼は捨てられた。
ユイは、その隣にいた。
触れない。声も届かない。
それでも、一晩中そこにいた。
夜明け前に、上から麻布の包みが落ちてきた。
そして。
八年ぶりの泣き声を、ユイは聞いた。
「結局、一人も守れねぇじゃねえか」
「……ちがう」
ユイは、届かないとわかっていて、言った。
「ちがうよ、たつまろ」
「僕は、守られてたよ」
「あの日、輿の上で。……きみだけが、来てくれた」
三日後、闘技場が燃えた。
観客席にいた四千人が、一晩で消えた。
神々が騒いだ。あれは何だ、あれは災害か、あれは呪いかと。
ユイだけが、違うものを見ていた。
炎の中心で、赤黒い陽炎を纏って笑う男の。
その目が、ずっと、何かを探していたことを。
それから、十年。
大陸を、彼は歩いた。
奴隷商を潰した。領主の私兵を消した。悪党の砦を更地にした。
そして、そこから奪った金を、全部、孤児院に送った。
差出人は、いつも空欄だった。
やがて、ある冬。
雪の中を歩いて、国境の小さな村で倒れた。
死ぬかと思った、とユイは言った。
でも、死ななかった。
春に、その村で、暖簾が上がった。
鬼龍、と書いてあった。
「僕、嬉しかったんだ」
ユイは、そう言った。
「だって、あいつ、飯を作り始めたんだよ」
「人を殺す手で、大根切ってるんだよ」
「おかしいだろ。……でも、それがあいつなんだ」
「それでね」
ユイは、麦畑の畦道で、足をぶらぶらさせた。
「三年前の、雨の日」
「僕、見てたよ」
わたしは、顔を上げた。
「四ヶ月前だろ。……きみが、暖簾くぐった日」
「ずぶ濡れでさ。靴の底、抜けてた」
「たつまろが、飯出しただろ。大根と、汁と、白い飯」
「きみ、泣いてたよね」
わたしは、頷いた。
「はい」
ユイは、空を見た。
そして、笑った。
「僕、あのとき、二つ思ったんだ」
「……なんですか」
「ひとつは」
「やっと、誰か来た、って」
「もうひとつは」
「なんで、僕じゃないんだろう、って」
わたしは、何も言えなかった。
「僕はね、ミレイユ」
ユイは、こちらを見なかった。
「十年、見てただけなんだ」
「神様になったのにさ」
「雷で神殿一個消せるのにさ」
「一回も」
「あいつに、ごはんを食べさせてあげられなかった」
かしゃん、と音がした。
わたしの手から、包みが落ちていた。
布が、ほどけていた。
金継ぎの茶碗が、畦道の土の上に転がっていた。
金の線が、月明かりで、細く光っていた。




