EP 2
「人形の十年」
「僕の話、聞く?」
その夜、ユイはそう言った。
村の外れ。誰もいない麦畑の畦道で。
わたしは、頷いた。
——以下は、その夜、わたしが聞いた話だ。
わたしの知らない、十年の話だ。
祭壇の朝は、よく晴れていた。
白い石の階段を、十歳の巫女が上っていく。
沿道は人で埋まっていた。皆が泣いて、皆が手を合わせて、皆がその名を呼んでいた。
ユイは、階段の途中で足を止めた。
「あの」
振り返って、大神官を見上げる。
「約束、覚えてますか」
「約束、とは」
「たつまろです」
その名を口にするだけで、胸の奥があたたかくなった。
「僕が世界を救ったら、あの子の家族を守ってくれるって」
「畑があって、鶏がいて、弟がいて。……守ってくれるって、言いました」
大神官は、緩やかに微笑んだ。
そして、言った。
「あの少年は、死にました」
世界から、音が消えた。
「……え」
「二日前です。街道で、ならず者に襲われたとか」
「弟ごと、だそうです」
「哀れなことですが、貧民街ではよくあることです」
嘘だった。
たつまろは、その時、地下の檻の中にいた。
一千万で売られ、左肩に焼き印を押され、闘技場へ送られる前夜だった。
だが、十歳の巫女は、それを知らない。
ユイは、階段の上を見た。
炎が、揺れていた。
——じゃあ。
世界なんて、どうでもいいや。
「ユイ様。世界のために——」
「うん」
彼女は、微笑んだ。
十歳とは思えないほど、綺麗に。
「でも、僕は世界のためじゃないよ」
大神官が、眉をひそめた。
「なんと?」
「たつまろがいない世界なんて、いらないから」
「だから、僕は」
「あの子に会いに行くために、ここに入るんだ」
炎の中に、白い影が沈んだ。
最後に思ったのは、縁側の匂いだった。
蜂蜜と、鶏と、日向と。
ほっぺたを汚した小さい子と。
そして、「甘すぎる」と顔をしかめた男の子の顔。
次に目を開けたとき、世界は、狭かった。
暗い。
湿っている。
石の匂いがする。
手が、なかった。
足も、なかった。
声を出そうとして、口が無いことに気づいた。
雨に濡れた路地の隅で。
泥にまみれた、兎のぬいぐるみが一つ、落ちていた。
片目の釦が、取れていた。
(……なんで)
(なんで、僕は)
考える前に、足音がした。
小さな足音だった。
擦り切れた草履。細い足首。
七つの、たつまろだった。
(あ)
時が、戻っていた。
三年。
あの子と出会う、三年も前に。
たつまろは、しゃがみ込んだ。
泥だらけの兎を、つまみ上げた。
しばらく、それを見ていた。
そして。
「……ユウへの土産に、ちょうどいいな」
「あいつ、こういうの好きだからな」
兎は、袖で拭かれ、懐に入れられた。
あたたかかった。
心臓の音が、聞こえた。
その音を、ユイは十年、忘れなかった。
家に帰ると、二つの小さい子が飛びついてきた。
「にいちゃん!」
「ほら、土産だ」
「うさぎ!」
その日から、兎は家族になった。
ユウは、毎晩それを抱いて眠った。
寝相が悪くて、何度も床に落とした。
朝になると、必ず拾って、埃を払ってくれた。
「うさちゃん、おはよ」
(……うん)
(おはよう)
声は、出なかった。
三年が、過ぎた。
母が死んだ夜も、兎はそこにいた。
たつまろが、母の手をさすっているのを見ていた。
泣かなかったのを、見ていた。
代わりに二つの弟が泣いたのを、見ていた。
畑が広がるのを見ていた。
鶏が増えるのを見ていた。
たつまろが、盗んだ本を夜中に読んでいるのを見ていた。
そして、ある日。
縁側から、白い髪の女の子が見えた。
(……え)
僕だった。
十歳のユイが、そこにいた。
蜂蜜の菓子を持って、フードを被って、きょろきょろして。
そして、庭で鶏を追いかけて、転んで、笑っていた。
布団の上で、兎は動けなかった。
(僕だ)
(あれは、僕だ)
(……逃げて)
(その子は、十日後に焼かれるんだ)
(その男の子は、十日後に売られるんだ)
(逃げて)
声は、出なかった。
縁側で、十歳の自分が笑っているのを。
兎は、片目のまま、見ていた。
十日後の、夜だった。
煙の匂いで、家が起きた。
怒鳴り声。木が爆ぜる音。
戸が蹴破られる音。
「ユウ! ユウ!!」
布団が跳ね上げられた。
兎は、床に落ちた。
うつ伏せだった。
畳の目しか、見えなかった。
ユウの悲鳴が、遠ざかっていく。
外で、何かが倒れる音。
そして、殴る音。
何度も。
何度も。
声は、しなかった。
たつまろは、一度も、声を上げなかった。
(起きて)
(僕、起きて)
(動いて)
畳の目が、オレンジ色に染まった。
熱かった。
(なんで)
(僕が、人間だったら)
(巫女の力が、あったら)
(あの男たち、全部、雷で)
(なのに、なんで)
(なんで、僕は)
(こんな、ただの、人形なんだ)
炎が、畳を舐めた。
片目の釦が、熱で溶けた。
そして、視界が。
黒く、塗り潰された。




