EP 9
「ダニー・ボーイ」
出発の、三日前だった。
夜中に目が覚めた。
窓の外から、あの音がしていた。
ハーモニカだった。
夕方、子供たちに吹く『帰る曲』ではない。
もっと静かで、もっと遠くて、途中で何度も途切れる、あの曲。
わたしは、階段を降りた。
三ヶ月前、降りなかった階段を。
裏庭に、彼は座っていた。
古い切り株の上で、背中を丸めて。
わたしは、黙って隣に座った。
彼は、何も言わなかった。
吹きやめもしなかった。
曲が、終わった。
「……眠れねぇのか」
「はい」
「そうか」
夜風が、通った。
「その曲」
わたしは、聞いた。
「名前、あるんですか」
彼は、ハーモニカを袖で拭いた。
「ダニー・ボーイ、って言うらしい」
「らしい?」
「俺も、人に聞いただけだ」
彼は、それを膝に置いた。
「母さんがな、時々口ずさんでた。何の曲かも知らずに」
「元は、遠い国の歌だ」
「どんな歌なんですか」
彼は、少し黙った。
「送り出す歌だ」
「え」
「行っちまう奴を、見送る歌」
「……」
「けどな」
彼は、夜空を見た。
「帰ってこい、って歌でもある」
わたしの喉が、詰まった。
十年間。
誰もいない夜に、この人はこの曲を吹いてきた。
帰ってこない相手に。
「……マスター」
「ああ」
「ひとつ、聞いていいですか」
「あ?」
わたしは、膝の上で手を握った。
「前に、聞いて、はぐらかされたやつです」
「……」
「なんで、角砂糖なんですか」
風が、鳴った。
彼は、長い間、黙っていた。
そして。
「……縁側で、菓子食った日の話、したろ」
「はい」
「ユイが持ってきた、蜂蜜のやつだ」
「はい」
「あの日が、最後なんだ」
「え」
「ユウが笑ってて、ユイが笑ってて、鶏が走り回ってて」
「俺が、一番いい飯を作れてた頃だ」
「十日後に、全部燃えた」
彼は、掌を開いて、見た。
「甘いもんは、嫌いだった」
「今も、たぶん嫌いだ」
「けどな」
「甘ぇもん食うと、あの縁側を思い出すんだよ」
「だから、齧ってる」
「毎日、ひとつずつ」
「……それ」
わたしの声が、震えた。
「お墓、じゃないですか」
彼は、答えなかった。
否定も、しなかった。
わたしは、両手で顔を覆った。
——四ヶ月前。
潜入の前の夜。
わたしが「甘いものが食べたい」と言ったとき。
この人は、瓶からひとつ摘まんで。
わたしの掌に、置いた。
「減らねぇよ」
そう言って。
十年、毎日ひとつずつ齧ってきた墓標を。
この人は、わたしに分けたのだ。
意味も言わずに。
恩に着せもせずに。
「……ぐす」
「泣くな」
「泣いてません」
「泣いてんだろ」
「泣いてません!」
しばらく、二人とも黙っていた。
虫が鳴いていた。
「なあ」
やがて、彼が言った。
「ミレイユ」
「はい」
「怖ぇんだよ」
わたしは、顔を上げた。
「地獄が、ですか」
「違ぇ」
彼は、首を振った。
「あいつを、取り戻したらな」
「……はい」
「俺は、腹減らせてる誰かを、探さなくてよくなる」
わたしは、息を呑んだ。
「十年だ」
彼は、淡々と言った。
「悪党を潰して、金を孤児院に送って、村で飯を作って」
「何やってても、頭のどっかで、あいつの腹が減ってた」
「それが、俺を立たせてた」
「取り戻したら、それが消える」
「そうなったら」
彼は、初めて言い淀んだ。
「俺は、何なんだ」
夜が、とても静かだった。
わたしは、答えを探した。
うまい言葉を、探そうとした。
でも、何も見つからなかった。
だから、いちばん単純なことを言った。
「残ります」
「あ?」
「わたしが、お腹空かせて、待ってます」
彼が、こちらを見た。
「毎日です」
わたしは、続けた。
「朝も、昼も、夜も。四ヶ月ずっとそうでした。これからもそうです」
「あなたが帰ってきたら、わたしはお腹を空かせてます」
「十年後も、二十年後も」
「だから」
「なくなりませんよ」
彼は、長い間、動かなかった。
そして。
手を、伸ばしてきた。
わたしは、目を閉じなかった。
大きな手が、わたしの手を包んだ。
固くて、傷だらけで、ごつごつしていて。
今度は、あたたかかった。
「……痛かったか」
「え」
「この前。振り払っただろ」
「……少しだけ」
「そうか」
彼は、その手を、少しだけ強く握った。
「悪かった」
「謝らないでください」
「なんでだ」
「あなたに謝られるの、わたしも嫌いです」
彼が、少しだけ笑った。
「……ミレイユ」
「はい」
彼は、前を向いたまま言った。
耳が、少しだけ赤かった。
「帰ってきたら、話がある」
わたしの心臓が、跳ねた。
「……なんの、話ですか」
「帰ってからだ」
「今、聞きたいです」
「帰ってからだ」
「マスター」
「帰ってからだ」
三回、同じことを言われた。
わたしは、握られた手を、握り返した。
「じゃあ」
「絶対、帰ってきてくださいね」
彼は、しばらく黙って。
そして、立ち上がった。
「……行くか」
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