EP 3
「マスターとしか呼ばれていない人」
二階の部屋は、六畳ほどの板張りだった。
窓がひとつ。布団が一組。あとは空の棚と、埃を被った行灯。
物置ではなかった。掃除がしてある。ということは、この部屋はずっと空けてあったのだ。誰のために、とは考えないことにした。
その夜、わたしは十四時間眠った。
翌朝、目を覚ましたのは、音のせいだった。
しゃっ。しゃっ。しゃっ。
規則正しい、水の混じった摩擦音。
階段を降りると、店の裏口が開いていた。朝の光が土間に差し込んでいる。
その中で、男が座っていた。
低い木の台に砥石を置いて、包丁を研いでいる。
砥石が、三つ並んでいた。
粗いの、中くらいの、それから——指で触れたら吸いつきそうなほど、きめの細かいもの。
しゃっ。しゃっ。しゃっ。
刃が滑るたび、白く濁った水が台を伝って落ちる。
角度が、まったく変わらない。何十往復しても、一度も。
——おかしい。
わたしは、料理を作れない。でも三年、他人が食事を作る場所に立ち会ってきた。宮廷の厨房も、野営の焚き火も、それなりに見てきた。
あんな研ぎ方をする料理人は、見たことがない。
料理の刃物は「よく切れれば」いい。多少ぶれても、味には出ない。
でもあの手つきは、ぶれることを許していない。
一ミリの誤差を、命に関わる何かだと思っている手つきだ。
「起きたか」
こちらを見ずに、彼が言った。
「は、はい」
「飯は炊いてある。食え」
「あの、わたし、働きに——」
「食ってからやれ」
有無を言わせない言い方だった。
かり、と音がした。
彼が、瓶から角砂糖を摘まんで口に入れたのだ。
研ぎながら、ぽりぽりと齧っている。
百九十センチはある巨体が、朝から角砂糖を齧っている。
「……甘いもの、お好きなんですか」
「ああ」
それきり、返事はなかった。
会話は成立していない。でも不思議と、居心地は悪くなかった。
「鬼龍」は、変わった店だった。
昼は、小料理屋。
夜は、BARになる。
同じ場所、同じカウンター。それだけで、空気がまるきり入れ替わる。
昼は、村の人がふらりと来て、おでんや煮物をつまんで帰る。
夜になると、彼は棚の布を外す。琥珀色の瓶が並び、行灯が落とされ、どこか遠い国の弦楽器の音がかかる。
わたしの仕事は、皿洗いと掃除と、簡単な仕込みの手伝いだった。
初日、わたしは大根を切らせてもらえなかった。
「危ねぇ」
「切れます」
「切れる奴の手じゃねぇ」
たしかに、そうだった。三年間、わたしの手は毒を運ぶだけの手だった。
村の名前は、ポポロ村というらしい。
人口千人ほど。畑と、牧場と、山がひとつ。
驚いたのは、この村がどこの国のものでもない、ということだった。
人間のルナミス帝国、獣人のレオンハート王国、魔族のアバロン魔皇国。
その三つが睨み合う、ちょうど真ん中。
「緩衝地帯ってやつだな。どこの国も、ここに手を出すと残り二つが黙ってねぇ」
常連の農家のおじさんが、芋酒を舐めながら教えてくれた。
「だから平和なもんよ。のんびりしたもんだ」
その直後、店の前を、ケンタウロスの女性が通り過ぎた。
背中に、見たこともない鉄の塊を背負っていた。太い杭のようなものが、先端から覗いている。
「……あの、あれは」
「自警団のマンミアだ。いい子だぞ。真面目でな」
「あの背中のものは」
「ああ、パイルバンカーだ」
「のんびりしてます?」
「のんびりしてる」
この村のことは、まだよくわからない。
三日目には、店の顔ぶれを覚え始めていた。
そして、四日目に気づいた。
昼の客が、女性ばかりなのだ。
正午を回ると、村中の女性がやってくる。若い娘も、子連れの奥さんも、腰の曲がったおばあさんも。皆きれいに髪を整えて、少しよそ行きの服で。
そして、注文をしたあと、ずっとカウンターの奥を見ている。
理由を考えるまでもなかった。
あの背丈と、あの腕と、あの寡黙さで、しかも料理がおそろしく上手いのだ。
「マスター、今日も満席ですね」
「ああ。大根が余ってたからな」
大根の話は、誰もしていない。
「そうじゃなくて、その、皆さん、マスターを——」
「あ?」
「……いえ、なんでも」
なぜだろう。
胸のあたりが、ざらりとした。
わたしは黙って、皿を洗った。
その感情の名前には、当分触れないでおくことにした。
夜。
閉店後の店に、常連のおじさんがひとり残っていた。
「嬢ちゃん、ちょっといいか」
「はい」
彼は、空のグラスを回しながら、声を落とした。
「あの人にな、余計なことは聞くなよ」
「……余計なこと、ですか」
「昔のこととかな。どこから来たとか、そういうのだ」
わたしは、布巾を持つ手を止めた。
「あの人は、悪い人じゃねぇ」
おじさんは、そう言った。
そして、少しの間があった。
「悪い人じゃ、ねぇんだけどな」
その言い方が、喉に引っかかった小骨のように残った。
おじさんが帰ったあと、わたしはふと思った。
そういえば。
村の人たちは、彼をなんと呼んでいただろう。
「マスター」
農家のおじさんも。奥さんたちも。子供たちも。
自警団のマンミアさんも、すれ違いざまに「マスター」と会釈していた。
村長のキャルルさんは「鬼龍のマスター」と呼んでいた。
——誰ひとり。
名前で呼んでいない。
背中に、冷たいものが走った。
千人の村で、四日間。
わたしは一度も、この人の名前を聞いていない。
洗い場の向こうで、彼が包丁を鞘に納める音がした。
かちり、と、乾いた音だった。
読んでいただきありがとうございます。
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