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毒見役だった私を拾ったのは、村で一番怖い小料理屋の店主でした ~捨てた勇者は、そのあと村に来ないでください~  作者: 月神世一


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3/12

EP 3

「マスターとしか呼ばれていない人」

二階の部屋は、六畳ほどの板張りだった。

窓がひとつ。布団が一組。あとは空の棚と、埃を被った行灯。

物置ではなかった。掃除がしてある。ということは、この部屋はずっと空けてあったのだ。誰のために、とは考えないことにした。

その夜、わたしは十四時間眠った。

翌朝、目を覚ましたのは、音のせいだった。

しゃっ。しゃっ。しゃっ。

規則正しい、水の混じった摩擦音。

階段を降りると、店の裏口が開いていた。朝の光が土間に差し込んでいる。

その中で、男が座っていた。

低い木の台に砥石を置いて、包丁を研いでいる。

砥石が、三つ並んでいた。

粗いの、中くらいの、それから——指で触れたら吸いつきそうなほど、きめの細かいもの。

しゃっ。しゃっ。しゃっ。

刃が滑るたび、白く濁った水が台を伝って落ちる。

角度が、まったく変わらない。何十往復しても、一度も。

——おかしい。

わたしは、料理を作れない。でも三年、他人が食事を作る場所に立ち会ってきた。宮廷の厨房も、野営の焚き火も、それなりに見てきた。

あんな研ぎ方をする料理人は、見たことがない。

料理の刃物は「よく切れれば」いい。多少ぶれても、味には出ない。

でもあの手つきは、ぶれることを許していない。

一ミリの誤差を、命に関わる何かだと思っている手つきだ。

「起きたか」

こちらを見ずに、彼が言った。

「は、はい」

「飯は炊いてある。食え」

「あの、わたし、働きに——」

「食ってからやれ」

有無を言わせない言い方だった。

かり、と音がした。

彼が、瓶から角砂糖を摘まんで口に入れたのだ。

研ぎながら、ぽりぽりと齧っている。

百九十センチはある巨体が、朝から角砂糖を齧っている。

「……甘いもの、お好きなんですか」

「ああ」

それきり、返事はなかった。

会話は成立していない。でも不思議と、居心地は悪くなかった。

「鬼龍」は、変わった店だった。

昼は、小料理屋。

夜は、BARになる。

同じ場所、同じカウンター。それだけで、空気がまるきり入れ替わる。

昼は、村の人がふらりと来て、おでんや煮物をつまんで帰る。

夜になると、彼は棚の布を外す。琥珀色の瓶が並び、行灯が落とされ、どこか遠い国の弦楽器の音がかかる。

わたしの仕事は、皿洗いと掃除と、簡単な仕込みの手伝いだった。

初日、わたしは大根を切らせてもらえなかった。

「危ねぇ」

「切れます」

「切れる奴の手じゃねぇ」

たしかに、そうだった。三年間、わたしの手は毒を運ぶだけの手だった。

村の名前は、ポポロ村というらしい。

人口千人ほど。畑と、牧場と、山がひとつ。

驚いたのは、この村がどこの国のものでもない、ということだった。

人間のルナミス帝国、獣人のレオンハート王国、魔族のアバロン魔皇国。

その三つが睨み合う、ちょうど真ん中。

「緩衝地帯ってやつだな。どこの国も、ここに手を出すと残り二つが黙ってねぇ」

常連の農家のおじさんが、芋酒を舐めながら教えてくれた。

「だから平和なもんよ。のんびりしたもんだ」

その直後、店の前を、ケンタウロスの女性が通り過ぎた。

背中に、見たこともない鉄の塊を背負っていた。太い杭のようなものが、先端から覗いている。

「……あの、あれは」

「自警団のマンミアだ。いい子だぞ。真面目でな」

「あの背中のものは」

「ああ、パイルバンカーだ」

「のんびりしてます?」

「のんびりしてる」

この村のことは、まだよくわからない。

三日目には、店の顔ぶれを覚え始めていた。

そして、四日目に気づいた。

昼の客が、女性ばかりなのだ。

正午を回ると、村中の女性がやってくる。若い娘も、子連れの奥さんも、腰の曲がったおばあさんも。皆きれいに髪を整えて、少しよそ行きの服で。

そして、注文をしたあと、ずっとカウンターの奥を見ている。

理由を考えるまでもなかった。

あの背丈と、あの腕と、あの寡黙さで、しかも料理がおそろしく上手いのだ。

「マスター、今日も満席ですね」

「ああ。大根が余ってたからな」

大根の話は、誰もしていない。

「そうじゃなくて、その、皆さん、マスターを——」

「あ?」

「……いえ、なんでも」

なぜだろう。

胸のあたりが、ざらりとした。

わたしは黙って、皿を洗った。

その感情の名前には、当分触れないでおくことにした。

夜。

閉店後の店に、常連のおじさんがひとり残っていた。

「嬢ちゃん、ちょっといいか」

「はい」

彼は、空のグラスを回しながら、声を落とした。

「あの人にな、余計なことは聞くなよ」

「……余計なこと、ですか」

「昔のこととかな。どこから来たとか、そういうのだ」

わたしは、布巾を持つ手を止めた。

「あの人は、悪い人じゃねぇ」

おじさんは、そう言った。

そして、少しの間があった。

「悪い人じゃ、ねぇんだけどな」

その言い方が、喉に引っかかった小骨のように残った。

おじさんが帰ったあと、わたしはふと思った。

そういえば。

村の人たちは、彼をなんと呼んでいただろう。

「マスター」

農家のおじさんも。奥さんたちも。子供たちも。

自警団のマンミアさんも、すれ違いざまに「マスター」と会釈していた。

村長のキャルルさんは「鬼龍のマスター」と呼んでいた。

——誰ひとり。

名前で呼んでいない。

背中に、冷たいものが走った。

千人の村で、四日間。

わたしは一度も、この人の名前を聞いていない。

洗い場の向こうで、彼が包丁を鞘に納める音がした。

かちり、と、乾いた音だった。

読んでいただきありがとうございます。

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