EP 2
「怖くないごはん」
言われるままに、わたしは座った。
正確には、座れてしまった。膝から力が抜けて、椅子に落ちたと言うほうが近い。
カウンターは、よく磨かれた一枚板だった。指先が触れると、しっとりと冷たい。木目に沿って、何年も布で拭かれ続けた艶がある。
男は、こちらを見ていなかった。
背を向けて、竈の前に立っている。
鍋の蓋を取る。湯気が上がる。何かを味見して、匙を置く。それだけの動作なのに、無駄が一つもない。
——静かだ。
それが、いちばん不思議だった。
この人の周りだけ、音がしない。あれだけの体格で、床がきしむこともない。獣が獲物に近づくときの、あの音のなさ。
ふと、まな板の脇に置かれた包丁が目に入った。
異様に長い。刃渡りは、たぶん三十センチを超えている。刃元から切っ先まで、鏡みたいに光っていた。
——研いだばかりだ。
そして、気づいてしまった。
あの研ぎ方は、料理人のそれじゃない。
料理の刃物は「切れればいい」。でもあの刃は、明らかにそれ以上を求めて研がれている。角度が、揃いすぎている。
絶対に、失敗しないための研ぎ方だ。
背筋が、冷えた。
「ん」
前に、器が置かれた。
四つ。
白い飯。汁物。大根の煮物。それと、香の物が少し。
湯気が、まっすぐに上がっている。
「……」
わたしは、それをじっと見ていた。
箸を、取れなかった。
食べ物が、怖い。
三年前からずっと、そうだった。
わたしのスキルは、口にしたものすべてを教えてくれる。
成分。産地。鮮度。火の入れ方。
そして、作った人間が、そこに何を込めたのか。
差し出される皿には、いつも何かが混ざっていた。
わかりやすい毒。飲めば喉が焼けるもの。
それより厄介だったのは、毒じゃないほうだ。
「早く済ませろ」という苛立ち。
「どうせこいつが飲むんだ」という侮蔑。
「死んでも代わりはいる」という無関心。
それが、味として全部届く。
砂糖菓子の甘さの奥に、それが混ざっている。上等な葡萄酒の芳醇さの底に、それが沈んでいる。
わたしは三年間、一度も、食べ物を美味しいと思ったことがない。
だから。
箸を持つ手が、震えた。
みっともなく、かたかたと。止めようとすればするほど、ひどくなる。
止まらない。
「……っ、すみま、せん」
謝った。何に対してかもわからないまま。
男は、何も言わなかった。
見てもいなかった。布巾で器を拭きながら、ただそこに立っている。
急かさない。呆れない。舌打ちもしない。
——それが、逆にこわい。
わたしは、汁の椀を、両手で持ち上げた。
こぼれた。少しだけ、指を伝った。
熱い。
息を吸って、口をつけた。
——え。
「……っ」
椀を、取り落としそうになった。
何も、無い。
毒が無い、という意味じゃない。それは当たり前だ。そうじゃなくて。
苛立ちが、無い。
侮蔑が、無い。
面倒くささが、無い。
無関心が、無い。
何ひとつ、入っていない。
情報だけが、静かに流れ込んでくる。
出汁は昆布と小魚。沸騰させず、six十度あたりで丁寧に引いてある。塩は岩塩。豆味噌は二年と少し寝かせたもの。
大根は今朝掘られたばかりで、皮は厚めに剥かれ、面取りまでしてある。米は釜炊き。水加減が、狂いなく合っている。
そして。
そこに込められていたのは、たったひとつだった。
——冷めないうちに、食え。
それだけ。
本当に、それだけ。
視界が、滲んだ。
何を泣いているんだろう、と自分でも思った。
ただの飯だ。国境の村の、小さな店の、何ということもない一膳の飯。
でも。
わたしは、震えていない手で、白い飯を口に運んだ。
噛んだ。
飲み込めた。
「う、」
喉が鳴った。
「……ぐ、うぅっ」
止まらなかった。
しゃくり上げながら食べた。鼻水を垂らして、涙を器に落として、みっともなく、それでも箸が止まらなかった。
大根を口に入れた。煮汁が染みていて、舌の上で崩れた。
甘い。
——甘い、と、思った。
三年ぶりだった。
味の情報ではなく、「美味しい」という言葉が、先に出てきたのが。
男は、何も聞かなかった。
どこから来たのか。名前は。なぜそんな格好なのか。なぜ泣いているのか。
ひとつも、聞かなかった。
ただ、わたしの飯茶碗が空になると、無言で受け取って、おかわりをよそって戻した。
それから、瓶の蓋を開けて、中から白い塊をひとつ摘まみ、口に放り込んだ。
かり、と音がした。
——角砂糖だ。
こんなに大きな人が、角砂糖を齧っている。
その光景が、あまりにもちぐはぐで。
わたしは泣きながら、少しだけ、笑ってしまった。
男は、茶を置いて、暖簾をくぐって外へ出た。
しばらくして。
かちん、と、金属の音が聞こえた。
蓋を開けて、閉じる音。それから、煙草の匂いが、雨の匂いに混ざって流れてくる。
わたしは、その音を聞きながら、全部食べた。
汁も、飯も、大根も、香の物も。
器の底に、ひとつぶも残さなかった。
戻ってきた男に、わたしは言った。
顔はぐしゃぐしゃで、声はひどい鼻声で、たぶん今のわたしは人生でいちばんひどい見た目をしていた。
「あの」
「あ?」
「わたし、ここで働かせてください」
男が、初めて、まともにこちらを見た。
「金は払えません。今は。でも、皿は洗えます。掃除もできます。あと」
言葉が、勝手に出てきた。
三年間、一度も出てこなかったものが。
「……毒見なら、世界で一番できます」
言ってから、思った。
なんて、ひどい売り込みだろう。
男は、しばらく黙っていた。
それから、カウンターの内側を、顎で示した。
「二階が空いてる。使え」
「……え」
「毒見はいらねぇ」
彼は、器を下げながら言った。
「皿だけ洗え」
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