第一章 私だけの料理屋さん
「毒見役の聖女は、いりません」
「地味なんだよ、お前」
勇者ゼロス・ディバインは、白すぎる歯を見せてそう言った。
大聖堂の裏庭。魔導カメラの回っていない場所。
表の広場では、今も彼を称える歓声が続いている。魔獣の群れから村を救った英雄。慈悲深き聖剣の担い手。
——あの魔獣を放したのが誰なのか、わたしは知っていたけれど。
「聖女って肩書きは悪くなかったよ。使い勝手も良かったし。でもさ、そろそろ限界なんだ」
彼は肩をすくめた。
「お前、光らないだろ。回復もできない、攻撃もできない。カメラの前で何ができる? 立ってるだけじゃん」
厚底のブーツが、石畳をこつん、と鳴らす。
わたしより頭ひとつ高く見える背丈は、その靴のおかげだ。素顔もその歯も鼻筋も、全部あとから金で作ったものだ。
三年、隣にいたわたしは知っている。
「まあ、三年間ご苦労さん。感謝はしてるよ、一応」
一応。
その二文字に、わたしの三年間が全部収まっていた。
わたしのユニークスキルは【完全味覚】という。
口にしたものの成分がわかる。産地も、収穫からの日数も、火の入れ方も。
そして——作った人間が、そこに何を込めたのかも。
毒物判別、百パーセント。
それ以外は、何もできない。
授かった日、教会は困った顔をした。攻撃も、防御も、治癒もできない。分類は「生活支援系」。冒険には使えない。
でも、ゼロスが手を挙げた。
「聖女として、パーティに入れてやるよ」
父は泣いて喜んだ。ラングレー男爵家の三女が聖女に。家の格が上がると。
実際にわたしがやっていたのは、彼の食卓に並ぶすべてのものを、先に口へ運ぶことだった。
スープも、肉も、酒も、水も。
喉が焼けたことが四回。三日寝込んだことが二回。
一度だけ、心臓が止まりかけた。
そのたびに彼は笑った。
「よかった、俺じゃなくて」
「外套、置いてけよ。教会からの支給品だから」
背中から剥ぎ取られた。ローブも。靴も、支給品だったけれど、さすがにそれは見逃してくれた。
残ったのは、下に着ていた麻の服が一枚。
「実家帰れば? 男爵家だっけ。三女なら、まだ嫁ぎ先くらいあるだろ」
——帰れない。
聖女に選ばれた日、父はわたしを抱きしめた。三年ぶりに名前を呼んでくれた。
役立たずになって帰れば、その手が何をするのか。
わたしには、想像がついてしまった。
「じゃ、そういうことで」
ゼロスは背を向けた。従者たちが魔導カメラを担いで、彼のあとに続く。誰もこちらを見なかった。
わたしは何も言わなかった。
三年間、何も言わずに飲み込んできた。
今さら、言葉の出し方がわからなかった。
門を出るとき、雨が降り始めた。
どこをどう歩いたのか、あまり覚えていない。
街道を外れ、名前も知らない村をいくつか越えた。
四日目に金が尽きた。六日目に靴の底が抜けた。
雨は降っては止み、また降った。わたしの体は、水を吸った布のように重くなっていった。
道端の草を口に入れてみたことがある。
——渋味。灰汁。土壌に鉄分。三日前の雨。それから、この草を踏んでいった獣の匂い。
情報だけが、正確に、いくらでも流れ込んでくる。
役に立たない。
わたしのスキルは、食べられるものを作り出せない。
ただ、そこに何があるかを教えるだけ。
七日目の夕方。
視界の端に、灯りが見えた。
小さな村だった。
石造りの家々。畑。柵の向こうで、牛のような何かが草を食んでいる。
村の中心には、なぜか異様に明るい二十四時間営業らしき食堂があって、看板に「ルナキン」と書いてある。
なんだろう、あれは。
いや、どうでもいい。もう、どうでもよかった。
わたしは歩いた。膝が笑っていた。次に座ったら、たぶん二度と立てない。それだけは、なぜかはっきりわかっていた。
食堂の喧騒から離れて、路地を曲がる。
その奥に、その店はあった。
黒い暖簾。白い文字で、二つ。
鬼龍
そして、匂いが。
「——あ」
出汁だ。
昆布。それと、たぶん小魚。丁寧に、沸騰させずに引いてある。豆味噌の熟成は二年以上。大根を炊いている。米は釜。
スキルが、勝手に読み取る。
そして。
そこに、悪意が、ひとつも入っていない。
「……」
膝が、崩れかけた。
だめだ。ここで倒れたら終わる。それはわかっている。でも体が言うことを聞かない。
わたしは、手を伸ばした。
暖簾を、くぐった。
顔を上げて、息が止まった。
カウンターの奥に、男が立っていた。
背が高い。異様に高い。天井に触れそうなほどで、しかも肩幅がある。
黒いシャツの腕がまくられていて、その下の腕が、人間の腕の太さをしていない。
そして、目。
深い赤黒の瞳が、まっすぐにこちらを向いていた。
——逃げろ。
体の奥で、何かが叫んだ。
理屈じゃない。獣が捕食者と目を合わせたときの、あの警報。
わたしは三年間、毒を口に運び続けてきた。何度も死にかけた。
それでも、この人ほど「死」の匂いがするものに、触れたことがない。
この人は、危ない。
この人は、たぶん、人を——
「……あ、の」
声が、出ない。
心臓が、痛いほど鳴っていた。逃げなきゃ。今すぐ、ここから。
でも、足が動かなかった。
もう、動かなかったのだ。
男が、口を開いた。
低い声だった。
「金は無いのか」
「……はい」
「そうか」
それだけ言って、男は顎で、カウンターの一番端の席を示した。
「座れ。腹減ってんだろ」
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