EP 5
「触らない理由」
翌朝、彼はいつも通りだった。
竈に火を入れ、大根を炊き、包丁を研ぎ、角砂糖を齧っていた。
「おはようございます」
「ああ」
いつも通りだった。
いつも通りすぎた。
最初に気づいたのは、二日目の昼だった。
洗い場に立とうとしたとき、彼が一歩、横にずれた。
すれ違うだけの距離を、わざわざ空けたのだ。
三日目、荷物を運ぼうとして手を出したら、彼は籠をカウンターに置いた。
手渡しを、しなかった。
「マスター、この皿——」
「そこ置いとけ」
「渡しますけど」
「置いとけ」
四日目。
賄いの膳が、一人分だった。
「あの、マスターのは」
「済ませた」
「いつ」
「さっきだ」
嘘だった。
竈の灰が、冷たかった。
五日目の夜。
わたしは、カウンターを拭きながら待っていた。
閉店後。行灯がひとつ。彼が手を拭いて、布巾を畳む。
いつもなら、ここで言う。
「今日、何が食いたい」
四ヶ月間、一日も欠かさず。雨の日も、事件の日も、彼が村を出る前夜も。
彼は、何も言わずに、裏口へ歩いていった。
「嬢ちゃん、喧嘩したのか?」
翌日、常連のおじさんが小声で聞いてきた。
「してません」
「ありゃ喧嘩の顔だぞ」
「してませんってば」
「ミレイユさん!」
昼過ぎ、マンミアさんが血相を変えて飛び込んできた。
「わ、わたし、余計なことを言ったでしょうか!」
「なんの話ですか」
「先日、マスターに『お二人はいつご結婚を』と……」
「マンミアさん」
「申し訳ありません!! わたし、二十五年、恋愛を経験しておらず、距離感というものが——」
「マンミアさん」
「二十五歳です」
「落ち着いてください」
その日、彼女は三回謝って帰っていった。
村長が仲裁に来て、なぜか話がこじれて、ネギオ先生がハリセンで全員を黙らせた。
わたしは、笑えなかった。
六日目の夜。
わたしは、裏口の前に立った。
彼が出ようとしたところを、塞いだ。
「どけ」
「いやです」
「ミレイユ」
「なんで避けるんですか」
彼は、答えなかった。
「わたし、なにかしましたか」
「してねぇ」
「じゃあ、なんでですか」
「……」
「ごはんも、一人分にして」
「あの問いも、言わなくなって」
「手も、渡してくれなくなって」
わたしの声が、震えた。
「わたしが、あの話を聞いたからですか」
「違う」
即答だった。
「じゃあ、なんですか」
「違うって言ってんだろ」
「なら、言ってください」
彼は、しばらく黙っていた。
行灯の火が、じじ、と鳴った。
そして。
「……守るもんを持つとな」
低い声だった。
「必ず、失くすんだよ」
「え」
「母さんも。ユイも。ユウも」
「全部、俺の手の届く距離にいた奴だ」
「そんなの、たまたまじゃ」
「三回だ」
彼は、こちらを見なかった。
「三回とも、同じだ。俺が、そばにいた」
「でも」
わたしは、一歩、前に出た。
「わたし、四ヶ月、生きてますけど」
「……」
「毎日ここにいて、毎日あなたのごはん食べて、四ヶ月、生きてます」
「死んでません」
彼の顎が、わずかに動いた。
「今んとこは、な」
「マスター」
わたしは、もう一歩、踏み出した。
そして、両手で。
彼の手を、取った。
固かった。
大きくて、ごつごつしていて、刃物の傷だらけで。
そして、冷たかった。
「……っ」
彼の体が、跳ねた。
「離せ」
「いやです」
「離せ」
「確かめましょう」
わたしは、その手を握ったまま言った。
「触っても、わたし、死にません」
「今、触ってます」
「ほら、生きてます」
振り払われた。
乱暴に。
四ヶ月で、初めてだった。
手の甲が、カウンターの角にぶつかった。
鈍い音がした。
「……あ」
彼の顔が、初めて、変わった。
手を伸ばしかけて。
止まった。
そして、握りしめた。
「……悪ぃ」
「痛くないです」
「見せろ」
「いやです」
「ミレイユ」
「見せません」
わたしは、赤くなった手を、背中に隠した。
「触ったら、死ぬんじゃなかったんですか」
「……」
「じゃあ、見ないでください」
長い、沈黙があった。
そして、彼は言った。
とても、低い声で。
「お前が死ぬのが怖ぇんじゃねぇ」
「え」
彼は、こちらを見なかった。
「お前が死んだ日にな」
「俺が、何をするかが、怖ぇんだよ」
わたしの背中を、冷たいものが走った。
闘技場の、四千人。
数えていない、と言った。
「この村、千人だ」
彼は、淡々と言った。
「隣町も入れて、三千。街道沿いまで入れりゃ、もっとだ」
「俺は、一回やってんだよ」
「二回目をやらねぇ保証は、どこにもねぇ」
「だから、近づくな」
彼は、そう言った。
そして、最後に。
一番、ひどいことを言った。
「たかが四ヶ月だろ」
「お前は、ここで飯食っただけだ」
裏口の戸が、閉まった。
わたしは、その場に立っていた。
振り払われた手が、まだ熱かった。
痛いからじゃない。
この四ヶ月で、一番長く触れていたからだ。
「……四ヶ月です」
誰もいない店に、わたしは言った。
「たかが、じゃ、ないです」
そして、奥の席を見た。
膳が、無かった。
わたしが置かなかったからではない。
今日は、あの人も、置いていなかった。




