EP 4
「手を離した日」
「十歳の、ガキだった」
彼は、そう言った。
「革鎧がぶかぶかでな。肩から落ちてた」
「剣が、引きずるくらい長ぇんだ。持ち上がってねぇ」
「立ってるのが、やっとって感じだった」
「そいつが、砂場の向こうに出てきた」
「客席は、いつも通り沸いてた」
「俺は、それを見て」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「五年前の、自分だと思った」
わたしは、何も言えなかった。
「同じだった。何もかも」
「顔も、体の細さも、剣の持ち方も」
「あいつも、たぶん、誰かのために飯が要ったんだ」
「向こうが、走ってきた」
「目ぇつぶって、悲鳴上げながらな」
「剣を、めちゃくちゃに振った」
「俺は」
彼は、右手を開いて、見た。
「刃を、素手で掴んだ」
「怪我、しますよ」
「した」
「……」
「けど、そうしねぇと、そいつが転ぶからな」
わたしの視界が、少し歪んだ。
「掴んだまま、言った。もういいから、そのへんで倒れとけって」
「そしたら、そいつが泣き始めた」
「妹がいるんだと」
「俺と同じだ。守るもんがある奴の、目だった」
「審判が、叫んだ」
彼は、続けた。
「どちらかが倒れない限り、試合は終わらない」
「客席が、沸いた」
「殺せ、殺せって」
「——なあ、ミレイユ」
彼が、初めて、こちらに問いかけた。
「あの時、俺の頭にあったのは、全部、計算だ」
「え」
「そいつを殺せば、俺は生きる。ユウに白いパンが届く」
「たった一人、増えるだけだ」
「五年で、何人潰したかも覚えてねぇんだ。今さら一人増えたって、何も変わらねぇ」
「合理的だろ」
わたしは、頷けなかった。
「でもな」
彼は、開いた手を、ゆっくりと握った。
「あれを、捨てちまったらな」
「俺はもう、ユウの兄ちゃんじゃ、なくなる」
行灯の火が、揺れた。
彼は、静かに言った。
「だから」
「手を、離した」
わたしは、息ができなかった。
「そのあとは、覚えてねぇ」
彼は、あっさりと続けた。
「斬られたのはわかった。首の横だ。血が、やけにあったかかった」
「砂が、口に入った」
「客席が、まだ沸いてた」
「最後に思ったのは、ユウのことだ」
「明日から、あいつの飯、どうなるんだろうな、って」
「……死んで、ないですよね」
わたしは、やっと声を出した。
「死んでねぇな」
彼は、少しだけ口の端を上げた。
「丈夫にできてたらしい」
「目が覚めたら、ゴミ捨て場にいた」
「使い物にならなくなった奴隷は、そこに捨てるんだ」
「腐った匂いがした。蠅がたかってた。……自分が、そのゴミの一部になってんのが、よくわかった」
「動けなかったんですか」
「動かなかった」
彼は、湯呑みを見ていた。
「もう、いいかと思った」
「そしたらな」
彼の声が、変わった。
「上から、麻布の包みが落ちてきた」
「ゴミと一緒に、放るみてぇにな」
「……それ、は」
彼は、答えなかった。
しばらく、何も言わなかった。
そして。
「ユウだった」
わたしは、両手で口を押さえた。
「同じ日だったんだと」
彼の声は、平坦だった。
「俺が砂の上で斬られてる頃に、あいつは屋敷の地下で息を引き取ったらしい」
「胸の病だ」
「五年、日の当たらねぇ地下にいたからな。……そういうことだと」
「病気なら、薬が」
「あったよ」
「え」
「あの商人、金に糸目つけなかったらしい」
彼は、乾いた声で言った。
「名医も呼んだ。霊薬も取り寄せた。全部やった」
「俺が怖かったからな」
「ユウを死なせたら、四番が何をするか、わかってたんだ」
「……そんな」
「だから、誰も悪くねぇ」
彼は、湯呑みを置いた。
「商人も、医者も、誰も手ぇ抜いてねぇ」
「それでも、死んだ」
「後から、聞いた話がある」
しばらくして、彼は言った。
「あいつの枕元に、パンがあったんだと」
「俺が勝った日に、届いてたやつだ」
「半分、残ってた」
「……」
「食えなかったんだろうな。もう」
「それか」
彼は、そこで初めて。
言葉に、詰まった。
「……取っといたのかもな」
「兄ちゃんと、食おうと思って」
わたしは、その瞬間、全部わかった。
奥の席。
誰も座らない、壁際の一つ。
小さな茶碗と、小さな椀と、小さな箸。
十年間、毎日。
帰ってくる側の席に、ごはんを置き続けた理由を。
この人は、看取っていない。
腕の中で、冷たくなっていくのを見ていない。
ゴミ捨て場で、麻布の包みを開けただけだ。
だから。
終わっていないのだ。
十年経っても、この人の中で、あの弟はまだ。
ごはんを、半分残したままなのだ。
「泣かなかったんですか」
わたしは、聞いた。
彼は、少し考えた。
そして、言った。
「そのときは、泣いた」
「え」
「八年ぶりだった」
「母さんの時も出なかったのにな。おかしいだろ」
「ゴミ捨て場で、蠅たかったまま、わんわん泣いたよ」
「結局、一人も守れねぇじゃねえか、って」
わたしは、立ち上がった。
「おい」
返事をしなかった。
竈に、火を入れた。
米を研いだ。
手が震えて、水を三回こぼした。
背後で、彼が言った。
「ミレイユ」
「はい」
「……まだ、話の途中だ」
「聞きます」
「話が済んでからでいい」
「いやです」
「そのあと、どうしたんですか」
米を炊きながら、わたしは背中越しに聞いた。
彼は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「闘技場を、焼いた」
「……」
「客席にいた奴、全員だ」
「何人ですか」
「数えてねぇ」
わたしは、火を弱めた。
蒸らした。
蓋を取ると、湯気が上がった。
上手くは、炊けていなかった。
芯が少し残っていた。水加減も、いつもの半分も合っていなかった。
それでも、茶碗によそった。
彼の前に、置いた。
「……なんだ、これは」
わたしは、彼の前に座った。
そして、言った。
「冷めないうちに、食べてください」
彼は、動かなかった。
長い間、その茶碗を見ていた。
そして、箸を取った。
一口。
「……」
「まずいですか」
彼は、答えなかった。
ただ、俯いたまま、全部食べた。
一粒も、残さずに。




