EP 3
「四番」
「夜中だった」
彼は、そう切り出した。
「煙で目が覚めた。屋根が落ちる音がして、隣を見たらユウがいなかった」
「外に出たら、男が七人いてな」
湯呑みは、もう空だった。それでも彼は、それを両手で持っていた。
「一人が、ユウを抱えてた」
「首に、刃が当ててあった」
「……」
「五つのガキの首にだ。ちょうど、頸動脈のとこにな」
「だから、膝をついた」
彼は、あっさり言った。
「言われる前にな。土に額つけて、動かねぇでいた」
「そしたら、殴られた」
「殴られて、蹴られて、また殴られて。……途中から、数えるのやめた」
「声は」
わたしは、掠れた声で聞いた。
「出さなかった」
「なんで」
「出したら、ユウが泣くだろ」
わたしは、両手で口を押さえた。
「泣いたら、あいつら面倒がって刃を引く」
「だから、黙ってた」
彼は、そこで初めて、少しだけ眉を寄せた。
「……途中で、何か言ったらしい」
「言った?」
「覚えてねぇ。後で、聞かされた」
「なんて」
彼は、少し黙った。
「オ マ エ ヲ コ ロ ス、って」
「一言ずつ、区切って言ったんだと」
「そんで、そいつが震えて、俺を蹴るのをやめたらしい」
「……覚えてないんですか」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
彼は、湯呑みを置いた。
「あの時から、そうなんだ」
わたしの背中が、冷たくなった。
ライターの音のあとの、あの人が。
あそこで、生まれたのだ。
「家は、全部焼けた」
彼は、話を戻した。
「三年かけて広げた畑も、鶏も、母さんの櫛も、盗んだ本も」
「全部だ」
そして、彼は、なんでもないことのように付け足した。
「そういや」
「ユウが毎晩抱いて寝てた、兎のぬいぐるみがあってな」
「二つの頃に、畑の帰りに拾ったやつだ。ボロボロでな、片目が取れてた」
「あいつ、あれがねぇと寝ねぇんだ」
「……あれも、燃えた」
わたしは、頷いた。
「そう、ですか」
それだけ言った。
それ以上、何も思わなかった。
「翌朝、地下の市に連れてかれた」
彼は、続けた。
「檻に入れられて、番号を振られた」
「番号」
「ああ」
彼は、左肩の辺りを、シャツの上から軽く叩いた。
「ここに、焼き印を押された」
「四番、ってな」
わたしは、その手元を見ていた。
見ていたら、勝手に手が伸びていた。
指が触れる寸前で、彼の肩が、わずかに硬くなった。
「……あ」
わたしは、手を引いた。
「すみません」
「謝んな」
彼は、そう言っただけで、何も説明しなかった。
「値は、一千万だった」
彼は、話を続けた。
「その地下で、過去最高額だとよ」
「一千万」
「安いか高いかも、わからなかった」
「ユウは」
「同じ商人が買った。……ばら売りにしなかったのは、まあ、運が良かった」
「そこから、五年だ」
「闘技場か」
「闘技場だ」
「ルールが、二つあった」
彼は、指を二本立てた。
「勝てば、ユウに白いパンが出る」
「負ければ、豚の餌だ」
「……」
「わかりやすくていい」
彼は、鼻から息を吐いた。
「難しいことは、何も考えなくて済んだ」
「五年、どのくらい戦ったんですか」
「数えてねぇ」
「じゃあ、何回負けたんですか」
彼は、こちらを見た。
「一回も、ねぇよ」
わたしは、しばらく言葉が出なかった。
「……その、あなたのごはんは」
やっと、それだけ聞けた。
「あ?」
「ユウさんが白いパンなら、あなたは、何を食べてたんですか」
彼は、少し不思議そうな顔をした。
「勝った日は、俺にも出た」
「どんなものですか」
「覚えてねぇ」
「え」
「味なんか、どうでもよかった」
わたしの喉が、鳴った。
——味が、どうでもいい。
わたしは、三年間、味に殺されかけた人間だ。
味がわかることが、呪いだった。
この人は、五年間。
味を、捨てていた。
「月に一回な」
彼は、続けた。
「屋敷の中庭が見える廊下を、通されるんだ」
「そこで、ユウが走ってるのが見えた」
「元気そうだった。頬に肉がついてた。……白いパンが、ちゃんと届いてた」
「手は、振ったんですか」
「振らねぇ」
「なんで」
「振ったら、あいつが俺を探すだろ」
「見つけたら、こっちに来ようとする」
「そしたら、殺される」
「だから、見るだけだ」
彼は、そう言った。
「三十秒くらいだ。それで五年、保った」
「技は、誰も教えてくれなかったんですか」
わたしは、話を変えたかった。
「教えるわけねぇだろ。奴隷だぞ」
彼は、少しだけ口の端を上げた。
「だから、盗んだ」
「盗んだ」
「客席の連中が、腕自慢を語ってる。それを聞く」
「他の奴隷が死ぬ前にやった動きを、覚える」
「本を盗み読んだのと、同じだ」
「……」
「不思議とな」
彼は、湯呑みを見た。
「一回見りゃ、大体できた」
「それ、すごいことなんじゃ」
「すごくねぇよ」
彼の声が、初めて少し低くなった。
「それができちまったから、五年、続いたんだ」
「客席は、いつも満員だった」
しばらくして、彼は言った。
「毎回、四千人くらい入ってたな」
「みんな、笑ってた」
「俺が誰かを潰すたびに、沸くんだ」
「殺せ、殺せ、って」
わたしは、顔を上げた。
「それ」
「あ?」
「行列の日と、同じですね」
彼は、しばらく黙った。
そして、言った。
「気づいたか」
「はい」
「……そうだな」
彼は、湯呑みを回した。
「同じ声だった」
行灯の油が、また鳴った。
「マスター」
「ああ」
「ここまでで、まだ十五歳ですよね」
「そうだな」
わたしは、両手を握った。
「その先が、あるんですよね」
彼は、答えなかった。
代わりに、立ち上がって、竈の火を落とした。
戻ってきて、また座った。
そして、初めて。
息を、深く吸った。
「十五の年の、冬だ」
「十歳のガキと、当てられた」
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