EP 2
「巫女様をぶん殴った日」
茶が、冷めていた。
わたしは立ち上がって、淹れ直した。
自分で淹れた茶を、彼の前に置いたのは、四ヶ月で初めてだった。
彼は、それを一口飲んで、何も言わなかった。
「まずいですか」
「いや」
「嘘です」
「まずい」
「二回言わないでください」
彼は、鼻から息を吐いた。
そして、全部飲んだ。
「その日は、朝から売りに出てた」
彼は、また話し始めた。
「街の通りが、妙に騒がしくてな」
人の壁ができていたこと。膝をついて拝んでいる者までいたこと。
そして、輿の上に、白い衣装の子供が座っていたこと。
「同じくらいの歳に見えた。雪みてぇな、白い髪でな」
「きれいな子ですか」
聞いてから、しまった、と思った。
「あ?」
「……いえ」
「顔が、なかった」
彼は、言った。
「え?」
「笑ってねぇ。怒ってもねぇ。退屈そうですらねぇ。……上等な人形を、輿に載せたみてぇだった」
「巫女、様?」
「そう呼ばれてた。世界を救う巫女様だとよ」
彼は、湯呑みを回した。
「俺は、興味なかった。偉い奴の行列なんざ、商売の邪魔だ」
「そんときにな」
彼の指が、止まった。
「三つくらいのガキが、飛び出したんだ」
「花を握って、輿に向かって走って、……つまずいた」
「泥が、跳ねた」
「巫女の服に、染みがついた」
「それだけだ」
「それだけで、家来が剣を抜いた」
わたしは、湯呑みを持つ手を止めた。
「三つのガキに、白刃を向けたんだ」
「そんで」
彼の声が、初めて、わずかに硬くなった。
「群衆が、沸いた」
「え」
「さっきまで拝んでた連中だぞ。有り難や有り難やって、手ぇ合わせてた口だ」
「その同じ口が、殺せ、殺せって唱和し始めた」
「……」
「祭りの掛け声みてぇに。楽しそうに、な」
わたしは、そのとき気づいた。
この人が五年後、闘技場の砂の上で聞くことになる声と。
同じ声だ。
「気づいたら、足が動いてた」
彼は、あっさりと言った。
「籠を落として、家来に体当たりして、鎧ごと吹っ飛ばした」
「十歳、ですよね」
「ああ」
「相手、大人ですよね」
「ああ」
「……」
「そんで、輿に上がって」
彼は、右手を軽く上げた。
「引っぱたいた」
「巫女様を、ですか!?」
「巫女様をな」
「首が飛びますよ!」
「飛ばなかった」
「なんて言ったんですか」
わたしは、身を乗り出していた。
彼は、少し考えて、それから言った。
「小さい子を、いじめるな」
わたしは、動けなかった。
掟の、五つ目だ。
悪に子供がいたら、手を引く。
村の誰も理由を知らない、あの五つ目。
その原型が、たった今、目の前で生まれた。
「……それで?」
「巫女が、頷いた。『うん』って」
「頷いたんですか」
「ああ。だから、良い子だって言って、降りた」
彼は、当たり前のことのように続けた。
「大根拾って、泣いてるガキを母親に押しつけて、帰った」
「……」
「そしたら、後ろから叫ばれた。名前は何だって」
「答えたんですか」
「答えた。たつまろだ、って」
「その子、追いかけてきたんですか」
「三日後に、家に来た」
「え」
「菓子持って、フード被って、畑の前できょろきょろしてた」
わたしの中で、何かが、ちくりとした。
「蜂蜜と木の実の焼き菓子だ。神殿の飯に毎日つくやつらしい」
「食べたんですか」
「一口な」
彼は、少しだけ口の端を上げた。
「甘すぎた」
「え」
「残り全部、ユウにやった」
「……甘いもの、苦手だったんですか」
わたしは、思わず聞いていた。
角砂糖の瓶が、すぐそこにある。
四ヶ月間、毎朝わたしが補充してきた瓶が。
彼は、答えなかった。
「マスター」
「昔の話だ」
「いつから、好きになったんですか」
「……」
湯呑みを置く音が、いつもより硬かった。
「その話は、いい」
わたしは、それ以上聞かなかった。
「上がれって言ったら、上がった」
彼は、話を戻した。
「ユウが『あそぼー』って引っ張ってな。庭で鶏を追いかけ回してた」
「鶏を」
「ユウが鶏より遅くてな。あいつが転んで泣いて、抱き起こしたら笑ってた」
彼の声が、また少し柔らかくなった。
「縁側で菓子食って、ユウがほっぺた蜂蜜だらけにして。……そんで」
「そんで?」
「あいつが、笑ったんだ」
「あいつ?」
「巫女がな」
「声出して笑ったの、生まれて初めてだって言ってた」
——ちくり、が。
もう少し、大きくなった。
「ユウが、『おねーちゃん』って呼んでな」
彼は、言った。
「そしたら、そいつ、泣きそうな顔しやがった」
「兄弟どころか、親もいねぇんだと」
「親も?」
「生まれた時から巫女で、親の顔を知る必要がねぇって言われて育ったらしい」
「それで」
彼は、湯呑みを見たまま続けた。
「膝でユウを寝かしつけながら、笑ってこう言った」
「僕はね、もう少しで死ぬんだ」
「え」
「世界を救うために、巫女は命を捧げるんだと」
「そんな……」
「強がりじゃねぇんだ」
彼は、静かに言った。
「疑ったこともねぇって顔だった。物心ついた時からそう教わって、毎日祈って、毎日感謝されて」
「それが当たり前で、それしか知らねぇ奴の、本物の笑顔だった」
「なんて、答えたんですか」
彼は、少し黙った。
そして、言った。
「死にたくねぇなら、死ななくていいだろって」
「……」
「世界がどうだか知らねぇが」
「ユイを犠牲にして、生きようと思わねー」
わたしは、湯呑みを見ていた。
見ていたけれど、何も見えていなかった。
——ああ。
この人は、そういう人だ。
初めて会った雨の日、金もない女に「座れ、腹減ってんだろ」と言った人だ。
だから、そう言うに決まっている。
十歳でも、二十五歳でも、この人は同じことを言う。
なのに。
胸の奥が、ざらざらした。
「そんで、ついでにな」
彼は、続けた。
「ユウは俺が守るって言って、それから」
「ついでに、ユイもな、って言った」
わたしは、笑おうとした。
失敗した。
「……マスター」
「あ?」
「その子のこと」
言いかけて、口を閉じた。
何を聞こうとしたのか、自分でわかってしまったからだ。
——好きだったんですか。
最低だ。
この人は今、十五年抱えてきたものを吐き出している。
死んだ子の話を、している。
そのど真ん中で、わたしは何を聞こうとしたのか。
「なんだ」
「……いえ」
「言えよ」
「なんでもないです」
彼は、少し首を傾げて、それ以上は聞かなかった。
わたしは、膝の上で拳を握っていた。
爪が、掌に食い込んでいた。
「その子、どうなったんですか」
しばらくして、わたしは聞いた。
今度は、ちゃんと聞けた。
彼は、湯呑みの底を見ていた。
「死んだ」
「……」
「祭壇で、消えたらしい。世界を救ったってな」
「後から、地下で聞いた。……俺が売られた日と、同じ日だった」
「あなたの、せいじゃ」
「俺のせいだ」
言葉が、遮られた。
彼は、初めて顔を上げて、こちらを見た。
「守るって言ったんだ、俺は」
「言っといて、二度と会いに行かなかった」
「それだけだよ」
わたしは、何も言えなかった。
言えないまま、思った。
——その子は、たぶん。
理由も、事情も、何ひとつ知らないわたしにも。
これだけは、わかってしまった。
その子も、あなたのために死んだんですよ。
「……なあ」
彼が、言った。
「ここからは、あんまり良くねぇ話だ」
「聞きます」
「今夜じゃなくていい」
「今夜がいいです」
彼は、しばらくわたしを見ていた。
それから、湯呑みを置いて、短く言った。
「その十日後に、家が燃えた」




