EP 3
「線の外側」
翌朝、村の集会所に、人が集まった。
百人は入る広間が、立ち見が出るほど埋まっていた。
「静粛に」
キャルル村長が、壇上で手を叩いた。
「昨日の要求について、話し合います。……包み隠さず言います。選択肢は三つです」
「一つ。契約を飲む」
「月光薬の権利を渡して、ミレイユさんを引き渡す」
「二つ。断る」
「明日、帝国調査団が来ます。村は捜索されます」
「三つ」
村長の耳が、ぺたんと倒れた。
「マスターを、引き渡す」
広間が、静まり返った。
「……冗談じゃねぇ」
最初に立ったのは、常連の農家のおじさんだった。
「あの人が何したってんだ! 三年、この村で飯作ってただけだろうが!」
「そうだ!」
「奴隷商から子供助けてもらったのはどこの誰だ!」
「賛成の奴は手ぇ挙げてみろ! 誰が言えるってんだ、そんなこと!」
一人、手が挙がった。
広間が、凍った。
若い男だった。
三十くらいの、見覚えのある顔。
村の東で麦を作っている人だ。奥さんと、小さい娘がいる。
「……すまん」
彼は、震えていた。
「すまん。俺だって、そんなこと言いたくねぇ」
「けどな」
「うちの子、まだ三つなんだ」
誰も、何も言えなかった。
「調査団が来たら、家探しされる。抵抗したら撃たれる。……去年、隣の谷の村がそうなったろ」
「俺はな、あの人に恩がある。娘が熱出した夜、粥作ってもらった」
彼は、両手で顔を覆った。
「けど、俺は父親なんだ」
——責められない。
わたしは、壁際に立ったまま、拳を握っていた。
この人は、正しくない。
でも、間違ってもいない。
三つ目に、二人目の手が挙がった。
三人目が、挙がった。
村が、割れた。
「もうええ」
戸口から、声がした。
彼が、そこに立っていた。
村人が、いっせいに振り返った。
農家のおじさんが、顔を歪めた。
手を挙げた男が、椅子から転げるように立ち上がって、頭を下げた。
「マ、マスター、俺は、その」
「気にすんな」
彼は、それだけ言って、広間の真ん中まで歩いた。
そして、キャルル村長に向き直った。
「世話になった」
「————」
「今日で、店を閉める」
「だめっ!」
キャルル村長が叫んだ。
「だめよ! そんなの、村長として認めない!」
「村長」
「わたしが決めるの! ここはわたしの村よ! あなただって村の——」
「掟の二つ目だ」
彼は、静かに言った。
「世話になった土地は、守る」
「俺がいると、この村が危ねぇ」
「だから、出てく」
「待ってください」
気づいたら、わたしが立っていた。
百人の視線が集まった。
膝が笑った。それでも、口が動いた。
「二つ目の掟は、土地を守るでしょう」
「なら、いてください。いて、守ってください」
「あなたがいなくなったら、誰がこの村を——」
「ミレイユ」
彼が、こちらを見た。
「掟ってのはな」
「俺が、我慢するためのもんだ」
「え」
「誰かの願いを叶えるためのもんじゃねぇ」
「俺が、線から出ねぇように。それだけのために引いた線だ」
彼は、ゆっくりと続けた。
「だから、お前を守るためのもんでもねぇ」
わたしは、何も言い返せなかった。
その日、鬼龍は普通に営業した。
昼は満席だった。
夜は、村中の人が来た。
誰も、閉店の話をしなかった。
みんな、いつも通りに注文して、いつも通りに食べて、いつも通りに帰っていった。
手を挙げたあの男も、来た。
娘を連れて。
彼は何も言わず、芋の甘煮を頼んで、娘に食べさせて、深く頭を下げて帰っていった。
彼は、代金を三倍置いていった。
閉店後。
彼は、いつものように洗い物をしていた。
わたしは、カウンターを拭いていた。
「ミレイユ」
「はい」
「竈の火は、朝いちばんに入れろ。灰は三日に一度掻け」
「……はい」
「大根は、東の畑の婆さんとこが一番いい。値切るな。向こうが勝手に負ける」
「はい」
「砥石は、水を切らすな」
わたしは、布巾を握りしめていた。
「……マスター」
「あ?」
「帰ってきますよね」
彼は、答えなかった。
「約束してください」
答えなかった。
「……なんで、何も言ってくれないんですか」
彼は、手を止めた。
そして、短く言った。
「嘘は、つかねぇ」
その夜、わたしは眠れなかった。
階下で、水を使う音がずっとしていた。
朝。
竈に、火は入っていなかった。
カウンターの上に、二つ、置かれていた。
一つは、店の権利書。
譲渡先の欄に、わたしの名前が書いてあった。
あの、綺麗すぎる字で。
もう一つは。
角砂糖の瓶だった。
満杯だった。
一つも、減っていなかった。
あの人は、自分の好物を、一粒も持っていかなかった。
わたしの金で買ったものだから。
そして、権利書の上に。
角砂糖が、ひとつだけ、置かれていた。
わたしは、奥の席を見た。
小さな茶碗と、小さな椀と、小さな箸が、無くなっていた。
わたしは、泣かなかった。
角砂糖を、指で摘まみ上げた。
そして、誰もいない店に向かって、言った。
「……ふざけないでください」
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