EP 4
「わたしは、待たない」
朝、わたしは暖簾を出した。
竈に火は入れられなかった。
大根も炊けない。出汁も引けない。
わたしにできることは、湯を沸かすことと、茶を淹れることだけだった。
それでも、村人は来た。
「……嬢ちゃん」
農家のおじさんが、戸口で立ち止まった。
「店、開けたのか」
「はい」
わたしは、頭を下げた。
「ごはんは出せません。お茶だけです」
「そうか」
彼は、いつもの席に座った。
そして、茶を一口飲んで、言った。
「……不味いな」
「すみません」
「いや」
彼は、湯呑みを両手で包んだ。
「開いてて、良かった」
その日、店は満席だった。
誰もごはんを頼まなかった。
みんな、茶だけ飲んで、少し座って、帰っていった。
「三日、取り付けたわ」
昼過ぎ、キャルル村長が来た。
「勇者様に、返事は三日待ってほしいって。……渋ってたけど、村の総意を取るって言ったら折れたわ」
「三日」
「ごめんなさい。それが限界だった」
彼女は、耳を垂らした。
「ミレイユさん。……あの人、探す?」
わたしは、首を振った。
「探しません」
「え?」
「探したら、もっと遠くに行きます」
そういう人だ。
三年前、雪の中を歩いてきて、力尽きるまで止まらなかった人だ。
追いかければ、線の外へ、もっと外へ、行ってしまう。
「じゃあ、どうするの」
わたしは、暖簾を見た。
「帰る場所のほうを、守ります」
桜田リベラ法律事務所は、村の外れにあった。
古い一軒家を改装した、小さな事務所だ。
「入っとくれ」
戸を開けると、書類の山と、煙草の匂いと。
「おきゃくさま?」
小さな声がした。
見下ろすと、五歳くらいの男の子が、わたしのスカートを掴んでいた。
黒い髪。大きな目。手に、木彫りの犬。
「あ」
「こんにちは!」
「……こんにちは」
「憂よ」
リベラさんが、奥から出てきた。
「うちの子。五歳」
「ユウ、くん」
「憂鬱の、憂」
彼女は、そう言った。
「変な名前でしょう」
「……いえ」
「この子が生まれた日、わたしはひどい裁判に負けてね」
彼女は、息子の頭を撫でた。
「守れなかった子がいたの。だから、忘れないように付けた」
「……重くないですか」
「重いわよ」
彼女は、笑った。
「でも、名前って、そういうものでしょう」
アモンが、のっそりと寄ってきた。
三つの頭が、順番にわたしを嗅いだ。
「新入り。泣いたな」
「泣いてません」
「泣きそうだった、の匂い」
「……鼻、良すぎませんか」
「アモン! おすわり!」
憂くんが叫ぶと、三つ首の魔獣は、素直に座った。
「よーしよし!」
「ぐ、ぬ」
「本題に入るわ」
リベラさんが、卓に書類を広げた。
「ゼロス・ディバインを潰す。方法を考えましょう」
わたしは、顔を上げた。
「手伝ってくれるんですか」
「ええ」
「……どうして」
彼女は、少し黙った。
そして、憂くんのほうを見た。
「三年前ね」
「あの男が、うちに初めて来た日」
「わたしが息子を紹介したの。この子、憂っていうのって」
彼女は、金の煙管を口に咥えた。
「あの男、三十秒、動かなかったわ」
「え」
「顔色ひとつ変えないのよ、あの男。何百人殺した話をしても、拷問の話をしても」
「なのに、五歳の子供の名前を聞いただけで、息が止まった」
わたしの喉が、鳴った。
「その名前は」
「聞いてないわ。三年、聞いてない」
彼女は、煙管を噛んだ。
「でも、わたしは弁護士なの」
「人が隠してるものを暴くのが仕事よ。……それでも、あの男のは、暴きたくなかった」
「話を戻すわ」
彼女は、書類を叩いた。
「ゼロス・ディバイン。二十四歳。ルナミス帝国公認勇者」
「経歴、全部嘘」
「魔獣の襲撃は自作自演。少なくとも七件。顔は三回いじってる。声も訓練。身長は——」
「厚底です」
「そう」
「三年間、誰も暴けなかった」
「なんで、ですか」
「記録を握ってるのが、あいつのスポンサーだからよ」
彼女は、指を三本立てた。
「教会。帝国広報局。それから、ゴルド商会の一部」
「ゴルド……リベラさんの?」
「実家よ。だから余計に厄介じゃ」
彼女は、疲れたように息を吐いた。
「証言は潰される。書類は差し替えられる。目撃者は買われる」
「紙で殴っても、紙で殴り返される」
「あの」
わたしは、手を挙げた。
「わたし、三年間、あの人の食卓に座っていました」
「ええ」
「毎日、全部、先に飲みました」
「……何が言いたいん」
「わたしの舌は、三年分の帳簿です」
事務所が、静かになった。
「誰が、いつ、何を入れたか。全部覚えてます」
「魔獣を放った日、あの人の水筒に何が入っていたかも」
「前の聖女が消えた日の、スープの味も」
リベラさんの目が、細くなった。
「……ミレイユさん。それ、証拠にならんぞ」
「はい」
「あんたの記憶じゃ、法廷は動かん」
「わかってます」
わたしは、拳を握った。
「だから、紙が要ります」
「わたしの記憶と、噛み合う紙が」
その夜。
わたしは、村長宅から借りてきた書類を、卓に広げていた。
ゼロスが置いていった、契約書の写しだ。
独占販売契約。八対二。三年契約。
行灯の下で、何度も読んだ。
読んで、読んで、読んで。
そして。
指先で、紙を撫でた。
——あれ?
わたしは、その指を、舐めた。
「……」
もう一度、別の場所を撫でて、舐めた。
「リベラさん」
わたしは、顔を上げた。
心臓が、鳴っていた。
「この紙」
「インクの味が、二種類あります」
読んでいただきありがとうございます。
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