EP 14
「あなたのごはんが、食べたいんです」
彼が、一歩を踏み出した。
「————っ」
わたしの体は、動かなかった。
膝が地面についていた。呼吸が、うまくできなかった。
わたしは、怖い。
七話の夜から、ずっと怖い。
ライターの音を聞いてから、この人が本当は何なのか、わたしはずっと怖かった。
でも。
石畳の上で、あの子が泣いている。
わたしは、胸に抱えていた瓶を見た。
第七七四ロット。七月九日製造。
三千本の詐欺を崩す、たった一本の証拠。
隣町の子供の命。処刑される男の命。
わたしが、自分から毒を飲んで手に入れたもの。
「リベラさん」
「……何じゃ」
わたしは、それを差し出した。
「これ、お願いします」
「ミレイユさん」
「四十八時間、守ってください」
「あんた、何をする気じゃ」
「わかりません」
「わからんのに行く気か!」
「はい」
わたしは、瓶を彼女の手に押しつけた。
そして、両手を、空にした。
「やめろ!」
「嬢ちゃん、死ぬぞ!」
「誰か止めて!」
村人の声が、遠かった。
わたしは、立ち上がった。
そして、歩き出した。
十歩で、耳が鳴り始めた。
十五歩で、鼻から血が出た。
二十歩で、皮膚が痛み出した。
赤黒い陽炎が、渦を巻いていた。
熱くはない。冷たくもない。
ただ、空気が、重い。
水の底を歩いているみたいだった。一歩ごとに、体が押し戻される。
——わたしには、何もない。
歩きながら、そう思った。
戦えない。魔法も使えない。剣も持てない。
三年間、地味だと言われた。光らないと言われた。カメラの前で何ができる、と言われた。
四日前、百人の前で笑われた。ハズレスキルだと。
その通りだ。
わたしは、何も持っていない。
でも。
わたしは、この人の作った飯を、食べた。
震える手で、三年ぶりに。
毒も、嘘も、打算も、侮蔑も、何ひとつ入っていない飯を。
この人が作ったものを、この世界でいちばんたくさん食べたのは、わたしだ。
だったら。
わたしにしか、できないことがある。
三十歩。
赤黒い瞳が、わたしを見下ろした。
そこには、誰もいなかった。
「マスター」
声が、出なかった。
風に、掻き消された。
わたしは、袂に手を入れた。
指先に、硬いものが当たった。
潜入の朝、瓶からひとつだけ、袂に入れたのだ。
お守りのつもりだった。
十二年ぶりに、自分で「欲しい」と言って貰ったもの。
無くしたくなくて、食べずに持っていた。
白い、角砂糖。
わたしは、それを両手で包んで、差し出した。
震えていた。
情けないくらい、震えていた。
「あの」
喉から、掠れた音が出た。
「お腹、空きました」
赤黒い風が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「わたし、朝から何も食べてないんです」
言葉が、勝手に出てきた。
「昨日も、あんまり食べられなくて。緊張してて」
「今日、あの人たちに嘘をつくの、すごく怖かった」
「頭を下げて、わたしには何もありませんって言うの、すごく、嫌でした」
涙が、出ていた。
風に飛ばされて、頬の上で乾いた。
「だから」
わたしは、もう一歩、前に出た。
「わたし、あなたのごはんが食べたいです」
「毒も、嘘も、なんにも入ってない」
「『冷めないうちに食え』しか入ってない、あなたのごはんが」
「食べたいんです」
赤黒い瞳が、揺れた。
「……あなたが、言ったんですよ」
わたしは、掌の角砂糖を、もっと高く掲げた。
「減らねぇよって」
「わたし、十二年間、何も欲しがりませんでした」
「欲しがったら、誰かが減ると思ってたから」
「でも、あなたが、減らないって言ったんです」
「だから、わたし、欲しがります」
「あなたのごはんが、欲しい」
「明日も、明後日も、その次も」
「だから」
「————帰りましょう」
風が、止んだ。
沈黙が、広場に落ちた。
赤黒い瞳が、わたしを見ていた。
一秒。
二秒。
三秒。
大きな手が、伸びてきた。
わたしは、目を閉じなかった。
その手は。
わたしの掌から、角砂糖を、一粒だけ摘まみ上げた。
口に、入れた。
かり、と。
小さな音が、した。
「……ああ」
低い声だった。
いつもの、あの声だった。
「悪ぃ」
赤黒い陽炎が、ほどけていった。
空気が、色を取り戻した。
そして、彼の膝が、折れた。
「マスター!」
わたしは、受け止めようとした。
無理だった。百九十センチある。わたしの倍以上の重さがある。
一緒に、石畳に倒れ込んだ。
肩を貸したまま、わたしは、彼の顔を見た。
蒼白だった。
でも、目に、ちゃんと色があった。
「……ミレイユ」
「はい」
「怪我は」
「してません」
「そうか」
彼は、目を閉じた。
そして、それだけ言った。
「冷める前に、帰るか」
わたしは、頷いた。
頷いて、それから。
「うっ、……ぐ、うぁぁ」
その場に座り込んで、わんわん泣いた。
みっともなく、鼻水を垂らして、しゃくり上げて。
三ヶ月前、彼の作った飯を食べたときと、まったく同じ泣き方で。
村人が、駆け寄ってきた。
母親が、泣いている子を抱き上げた。
マンミアさんが、パイルバンカーを下ろした。
キャルル村長が、わたしの背中をさすってくれた。
リベラさんが、瓶を抱えたまま、こちらへ歩いてきた。
そして、彼女は。
わたしの頭に、そっと手を置いた。
「……あんた」
金の煙管を、噛んだまま。
「三年かかっても誰にも出来んかったことを、三ヶ月でやりよったな」
読んでいただきありがとうございます。
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