EP 11
「甘いもの、が」
帰りの荷馬車で、彼は一言も喋らなかった。
わたしは荷台で、リベラさんの説明を聞いていた。
「明後日、サロンの入会面談があるわ。ハズレスキル持ち限定の枠」
「はい」
「面談を通れば、その日のうちに上位会員コースの勧誘を受ける。金貨三十枚のコース」
「三十枚!?」
「もちろん払わないわ。払えないフリをするの」
彼女は、書類をめくった。
「払えないと言えば、必ず言われる。『じゃあ、うちで働きませんか』って。……そこが入り口」
「働く」
「販売員。上位会員と同じ区画に入れるわ。保管庫にね」
「その保管庫で、製造日時のわかる一本を持ち出す」
「はい」
「持ち出した瞬間から四十八時間、それを守り抜く。開封も、破損も、すり替えもさせずに」
リベラさんは、指を二本立てた。
「四十八時間経てば、鮫島の偽装は切れる。法廷で、裁判官の目の前で、数字が『陽薬草水・E級』に戻るわ」
わたしは、頷いた。
御者台の背中は、動かなかった。
村に戻ると、話はあっという間に広がった。
村長宅に人が集まった。
「わたしが行くわ!」
キャルル村長が、真っ先に手を挙げた。
「月光薬の本家はわたしよ。わたしが行けば——」
「顔が割れとる」
リベラさんが即座に切った。
「あんたが動いた時点で、村ぐるみの陰謀って筋書きにされるじゃろ」
「うっ」
「わたしが行きます」
マンミアさんが進み出た。
「潜入なら訓練を受けて」
「ケンタウロスが地下の会場に紛れ込めるとでも?」
「……申し訳ありません」
「言っとくけど」
リベラさんは、金の煙管を弄びながら言った。
「わたしも行けん。弁護人が証拠を取ったら証拠能力が落ちる。第三者が要るんじゃ」
「じゃあ」
「そう」
彼女は、わたしを見た。
「ハズレスキル持ちで、金がなくて、追い詰められて見える、赤の他人」
村の全員が、わたしを見た。
キャルル村長が、唇を噛んだ。
「……ミレイユさん」
「はい」
「あなた、うちの村の人よ」
耳が、ぺたんと倒れていた。
「よそから来た人を、危ない目に遭わせるために置いてるんじゃないの。わたしは村長よ。守る側なの」
「知ってます」
わたしは、笑った。
自分でも驚くくらい、自然に笑えた。
「だから、行くんです」
夜。
「鬼龍」は、閉まっていた。
暖簾はしまわれ、行灯がひとつ。
彼は、カウンターの内側で夕飯を作っていた。
いつも通りに。
竈の火。鍋の音。包丁がまな板を叩く、規則正しい音。
わたしは、いつもの席に座っていた。
「反対、しないんですね」
言ってみた。
「……」
「止めてくれてもいいのに」
鍋の蓋が、かたかた鳴った。
「止めたら、行かねぇのか」
「行きます」
「じゃあ、意味がねぇ」
彼は、鍋の火を弱めた。
「止めて聞くやつは、そもそも自分から言い出さねぇ」
そう言われて、気づいた。
——ああ、この人は。
わたしが「行く」と言った時点で、もう決めていたのだ。
引き止めもしない。囲い込みもしない。
三ヶ月前、逃げるための金を置いたときと、同じだ。
この人は、わたしの意思を、わたしのものにしておいてくれる。
膳が、置かれた。
飯。汁。焼き物。香の物。
いつもの、四つ。
「……」
箸が、持てなかった。
手が、震えていた。
三ヶ月ぶりだった。
——怖い。
明後日、わたしは百人の前で笑われた男の懐に、自分から入っていく。
もし失敗したら。
もし、バレたら。
もし、四十八時間、守りきれなかったら。
隣町の子供が死ぬ。グレアムという男が処刑される。
そして、わたしは。
「ミレイユ」
顔を上げた。
彼は、洗い場の縁に手をついて、こちらを見ていた。
そして。
いつもの、問いを口にした。
「今日、何が食いたい」
その問いを、彼は毎日していた。
三ヶ月間、一日も欠かさず。
わたしは、一度も答えられなかった。
答えられない理由は、二つある。
ひとつは、ゼロスだ。
三年間、わたしは出されたものを黙って飲み込む機械だった。食べたいものを言う口を、持っていなかった。
でも、本当は。
もっと前から、そうだった。
ラングレー男爵家の三女。
領地は狭く、家計は苦しく、姉が二人いた。
わたしが「これが食べたい」と言えば、それは姉の皿から減るということだった。
七つのとき、一度だけ言った。
砂糖菓子が食べたい、と。
母は買ってくれた。ひとつだけ。
そして、その月、姉たちの新しい靴が買われなかった。
姉は何も言わなかった。母も何も言わなかった。
誰も、わたしを責めなかった。
だから、二度と言わなかった。
——欲しがると、誰かが減る。
十二年間、それがわたしの世界のかたちだった。
だから、聖女に選ばれたとき、少しほっとしたのだ。
わたしが飲めば、誰も減らない。
「……」
口が、動かなかった。
言えば、何かが減る。
この三ヶ月で、わたしはたくさん貰った。部屋も、飯も、名前も、居場所も。
これ以上、望んだら。
彼は、待っていた。
急かさなかった。
三ヶ月間、一度も急かさなかったように。
ただ、そこに立っていた。
火の音がしていた。
「……あの」
声が、掠れた。
「はい」
「わたし」
喉が、痛かった。
十二年間、閉じていた蝶番を、無理やり開けるみたいだった。
「……甘いもの、が」
言えた。
「食べたい、です」
沈黙があった。
彼は、こちらを見ていた。
それから、ゆっくりと、瓶に手を伸ばした。
蓋を開けて、中から白い塊をひとつ、摘まみ上げる。
そして。
わたしの手のひらに、置いた。
「……あ」
角砂糖だった。
彼が、毎朝齧っているもの。
三ヶ月間、わたしが毎日、瓶に補充していたもの。
この人が、いちばん好きなもの。
「え、あの、これ、マスターの」
「食え」
「でも」
「減らねぇよ」
わたしは、顔を上げた。
彼は、こちらを見ていなかった。
洗い場のほうを向いて、布巾を畳んでいた。
「……っ」
角砂糖を、口に入れた。
かり、と音がした。
甘い。
ただ、甘い。
毒も、打算も、侮蔑も、何ひとつ入っていない。
ただ、甘いだけの、砂糖の味だった。
「うっ、……ぐす」
涙が、落ちた。
「食えたか」
「……はい」
「そうか」
「おいしい、です」
「そうか」
彼は、それしか言わなかった。
その夜、わたしは全部食べた。
飯も、汁も、焼き物も、香の物も。
震えない手で。
戸締まりのあと、彼は棚から何かを取り出した。
砥石だった。三つ。
そして、柳刃を。
「……マスター?」
「明日の仕込みだ」
嘘だ。
明日は、店を開けない。
しゃっ。しゃっ。しゃっ。
規則正しい音が、店に落ちた。
わたしは、階段の途中で立ち止まって、その背中を見ていた。
「ミレイユ」
「……はい」
背を向けたまま、彼は言った。
「明後日、俺は店にいる」
「はい」
「あいつらは悪だ。カタギじゃねぇ」
しゃっ、と刃が滑った。
「だから」
一拍、置いた。
「行ってこい。後ろは、俺がいる」
わたしは、階段を上がった。
上がりながら、口の中に、まだ甘さが残っているのに気づいた。
十二年ぶりに、自分で望んだ甘さだった。
読んでいただきありがとうございます。
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