【06】 4回のフライング男
千鶴「それに、初めてのフライングなんでしょう?」
爽香「はい」
千鶴「私なんかもう10本以上フライングしているわ」
爽香「でも、やっている年数が違いますから」
千鶴「私よりすごい人で、フライングを94回した選手も居たわ」
爽香「94回も!」
千鶴は、誰かを慰めるときに、必ずもっと上の例を挙げるようにしている。それが何より病んだ者の心を平常にもどす早道であり、ひとつの技法であることを千鶴は知っていた。
爽香「94回もじゃ、相当怒られたでしょうね」
千鶴「それが、その選手全然平気なのよ。怒られるたびに落ち込んでいたら、次のレースなんか出来ないわよ」
爽香「すごい!」
千鶴「フライングをしたら、その内容によっては、愛知県の碧南訓練所に行くのよ」
爽香「あたしも?」
千鶴「あなたは大丈夫よ。例えば05以上のフライングをしたとか、続けてスタート事故を起こしたとかよ」
爽香「今後気を付けます」
千鶴「その94回もフライングをした選手は、碧南訓練所が自分の別荘だと思っていたんじゃない?」
爽香「ははははは」
千鶴「だから二泊三日の研修もさぞ楽しかったんじゃないかしら?」
爽香「すごい人ですね」
千鶴「そう、すごい人よ。偶然にも私たちが今日走った蒲郡がその選手のデビュー戦だったんだけれど、デビューした節で初勝利(1着)を収めているのよ!」
爽香「うわぁーっ!」
千鶴「ねっ! すごいでしょう」
爽香「並外れた選手だったんですね」
千鶴「『並外れた選手』と言うより、『並外れた心臓』の持ち主だったわ」
爽香「ははははは」
爽香「その選手は今も走っているんですか?」
千鶴「残念ながらみんなに惜しまれつつ亡くなられましたけれど、その精神と操縦テクニックは複数のお弟子さんたちに受け継がれているわ」
爽香「お弟子さんたちも素晴らしい方々なんでしょうね」
千鶴「もちろん! そうよ」
爽香「なんだか少し平常心を取り戻してきました」
千鶴「そうよ。落ち込んでいちゃダメよ」
爽香「先輩のお陰です。ありがとうございます」
爽香が千鶴に向かって深々と頭を下げた。
そんな姿を運転している息子拓也がルームミラーを通してチラッと見た。
拓也(意外と素直で可愛いじゃん!)
千鶴「そんないいのよ。だって同じ仲間じゃない。助け合わないとね」
爽香「あたしが先輩を助けることなんて、ひとつも無いと思いますが?」
千鶴「なに言ってるのよ。その内私が年老いて、力仕事とか色々助けてもらうことになるわよ。手に職がついたら頼りにするわ。それに、あなたはこれから上り調子、私は下り調子。いつかは、あなたに絶対抜かれるんだから。これは絶対に間違いないことよ」
爽香「そうでしょうか?」
千鶴「そうよ。私が保証するわ」




