第四話「不惜身命(ふしゃくしんみょう)のエックス 」
俺が『服従の美学』を執筆しようとすると、勝太郎が茶を淹れるため席を立った。何の気なしに振り返り、机の上のノートを見て──手が止まった。
(x+1)² = x² + 2x + 1
こりゃ、方程式じゃないかと心底驚いた。
今の小学生はこんなものをやるのか。
一次方程式というやつだろうか。
さっぱり分からん。
「分からんときは俺に聞け」と何度も言ってきたが、聞かれなくて心底よかった。
もし聞かれたら、「不惜身命でその大疑団に取り組め」とでも言うしかあるまい。
勝太郎が首をかしげながら茶を運んできた。
「何見てるの?」
「お前はこの問題がわかるのか?」
「え、あ、うん……まあ、一応」
そうか……。
俺は筆を置き、ちゃぶ台の前に座り直した。
「一つ、俺にその方程式を教えてくれ」
「えっ?」
数学を学ぶということは、この世界の成り立ちを学ぶことに等しい。
論理的思考は数学によってのみ身につく。
考えてみれば、俺はこの数学というものを一切やってこなかった。
汗顔の至りである。
だが、この歳になって学び直すのも気恥ずかしいが、倅に教わるというのなら話は別だ。
「おう、早くせんか」
「あ、うん……じゃあ、足を崩していいよ」
「馬鹿を言うな」
俺は即座に切り返した。
「たとえ息子といえども、教わるときは師だ。師の前で足を崩すなど俺にはできん」
勝太郎は少し面倒くさそうにしながら、自分も正座に座り直した。
「じゃあ、簡単なものからいくね。 (6x + 5 = 29\) 。これ分かる?」
簡単そうに見えるが、気になることがある。
「勝太郎よ、この x なんだが、これは『いろは』の『イ』に変えられるのか?」
「……できるよ」
「なら、日本人の俺たちは『6イ+5=29』としたほうがいいんじゃないのか。なぜわざわざアルファベットを使う?」
「方程式は外国から来たからじゃないかな」
曖昧な説明だ。
外来のものは咀嚼して初めて自分のものになるはずだ。
俺のロジックに少し困った顔をしていたが、
「じゃあ、お父さんは『イ』を使えばいいんじゃない?」
「ロクイ・プラス・ゴ・イコール・ニジュウキュウか……」
──やはり、(x+1)^2 の方が締まるな。
「いや、やっぱり x にする。むやみに国粋主義に走るのは自信がない証拠だ。守るべきは守り、変えるべきは変える。それでいい」
「お父さん、僕、早く課題に取り掛かりたいんだけど」
俺は少し気分を害したが、勝太郎は親の微妙な心理に斟酌することなく、さらりと式を書いた。
6x + 5 = 29
6x = 24
x = 4
「なんでプラスが向こうに行くとマイナスになるんだ?」
勝太郎は少し考えてから言った。
「お父さん、少し自分で考えてみて。そのほうがわかると思うよ」
こいつは教育者には向かんな。
──だが。
俺は黙って、式を見つめた。
6x + 5 = 29
しばらく眺めていると、妙な気がしてくる。まるで、この「5」をどかさないと、本質に触れられないような。だが、どうやってどかす。
俺は腕を組み、考え込んだ。
『服従の美学』の執筆が遅れることになるが、やむを得ないだろう。




