四年生 特別編 全8話 第一話「アヒルの歩行とコンクリートの塀」
バイトに行こうと思ったが、季節外れの陽気が、あの神経を磨り潰すような賭場へ足を運ばせるのを躊躇わせた。
この懐かしい匂いが、どうも俺の気持ちを柄にもなく優しくさせる。
なんと形容して良いものか、この陽気を肌に感じるたびに考えるのだが、いまいち言葉が出てこない。
「勝太郎、勉強もいいが、俺と一緒に喫茶店でも行くか」
「行く!」
この懐かしい空気を感じるため、自転車は使わず歩くことにした。小1時間かかるが、いい運動になる。
鼻歌を歌いながら気分良く歩いていると、勝太郎が楽しそうに尋ねてきた。
「お父さんは、どうしてアヒルみたいに歩くの?」
「アヒル?」
「こうやってさ」
勝太郎は極端な蟹股になり、俺の前をひょこひょこと歩いて見せた。
「骨盤のせいかな。真っ直ぐに歩こうとすると、大腿骨の付け根が痛むような気がするんだ」
「格好悪いから普通に歩いた方がいいよ。お婆ちゃんに教わらなかったの?」
お袋は孫に歩き方まで仕込んでいたのか。確かに食事、排泄、歩行、睡眠などは一生付き纏うものだが、俺自身は教わった記憶など微塵もない。
「教わったことはないなあ」
「お父さん、それじゃ直進できる蟹と同じだよ。こうやって歩くんだよ」
今更歩き方を変えられるわけもないし、何を急に言い出すんだ。
俺は無言で歩き続けたが、妙にハイになっている倅はしつこく「アヒルじゃ駄目だよ」と繰り返す。あまりの小面憎さに、俺はついに歩を返した。
「もういい。お前一人で行け。俺は帰る」
「怒ったの? ねえ、怒らないでよ」
「怒ってはいないが、不愉快だ」
「謝るから一緒に行こうよ。我儘言わないでさ、いい大人なんだから」
「我儘」の一言が、俺の怒りに火をつけた。
「てめえ、俺のことを友達だとでも思っているのか!」
思わず歩道沿いのひび割れた塀に横蹴りを入れると、乾いた音を立てて穴が開いた。
崩れ落ちたコンクリートの破片が、足元でカラカラと音を立てて転がる。
「さっさと帰れ!」
怒鳴り散らしたあと、俺は塀の持ち主に謝罪するためチャイムを押した。
「よろけた拍子に穴を開けてしまいまして」という俺の苦しい言い訳を信じてくれたのか、特に修理代などは請求されなかった。元々古くなっている塀で、建て直そうと思っている矢先だったとのことで、却ってこちらの怪我を心配してくれた。
だが、それでは気が済まない。
俺は近所で煎餅を買い求め、改めて頭を下げに行った。
不愉快極まる心情で家に戻ると、勝太郎が勉強をしていた。
「いらぬ銭を使ったわ!」と怒鳴りつけると、あいつは視線すら向けずに「僕のせいじゃない」と言い放った。そのふてぶてしさに、俺はちゃぶ台を蹴り飛ばした。
「よく言った。さすがは俺の倅だ。養子の手続きをしてやるから、兄貴のところへ行け!」
本気で腹が立ち、俺は兄貴に電話をかけた。
「ご無沙汰してます、光次郎です。実は、折り入ってお話が……」
切り出したところで、「ねえ、やめてよ、大人気ないよ!」と、勝太郎が背中にしがみついて揺さぶってきた。
その勢いで、受話器を畳に落としてしまった。
「邪魔するんじゃねえ!」
振り払おうとしたが、本気でやれば怪我をさせてしまう。
加減して退かせようとすると、「悪かったから。謝るからさあ」と勝太郎が泣き出した。
「悪かったで済めば検察はいらんわ!」と怒鳴り返した瞬間、勢いよくドアが開いた。
「あんた、うるさいよ! 何をでかい声張り上げてるんだい!」
大家の坂口の婆様が、買い物袋を提げて立っていた。
「坂口さん!」
婆様に取りすがって泣く勝太郎を見て、婆様の義侠心に火がついたらしい。
そのまま部屋に上がり込んできた婆様は、「ちょっとあんた、そこに座んなさい」と俺を指差した。
「あ、お茶を淹れますから」
「お茶なんていらないから、座りな!」
「……親に向かって口答えしやがるから、養子に出そうと思いまして」
脂汗をかきながら説明する俺に、婆様は無茶苦茶な宣告を下した。
「あんた、勝ちゃんと一緒だからここに住まわせてるんだよ。あんた一人だったら、とっくに出て行ってもらってるよ」
冗談じゃない。
俺一人だったら、こんなボロアパートに住んで、蟹工船さながらの職場で働くわけがない。
「親一人、子一人、身を寄せ合って生きてきたのに……」
勝太郎が泣きながらこぼした台詞に、どこでそんな芝居がかった言葉を覚えたんだと、俺は思わず吹き出してしまった。
それが、頷きながら聞いていた婆様の逆鱗に触れた。そこからは怒濤の説教だ。
「私だってあんたの歩き方は、前からアヒルみたいだと思っていたんだよ!」
とまでカミングアウトされる始末。
勝太郎の啜り泣きと婆様の怒声のミックスは、俺を底なしの陰鬱な気分に沈めた。
黙って耐えていたが、話は次第に言いがかりに近い領域へ踏み込んでいく。
日本共産党が単独政権を取れないのは俺のせいではないし、憲法改正や自衛隊解体論にいたっては、俺個人とは何の関係もないはずだ。
3時間以上、相槌マシーンと化して耐え抜いたが、これ以上カストロ議長並みの演説を甘受できる自信がなかったので、勝太郎が部屋にいない隙を見計らって両手をついて謝った。
それで気が済んだのか、話は一転して父子家庭への援助不足や、自民党政権への誹謗中傷へと流れていった。
辟易の極限まで達した頃、ようやく戻ってきた勝太郎が差し出した缶茶を、婆様は一気に飲み干した。
「じゃあ、勝ちゃんに当たるんじゃないよ」と念を押して、ようやく戦場を去っていった。
どうにもバツが悪く、腕を組んで目を瞑っていると、勝太郎が「お父さん、ごめんなさい」と頭を下げた。
「……うむ。俺も短気に過ぎるところがあったかもしれん」
ようやく、和解の手を差し伸べることができた。
そのとき、電話が鳴った。兄貴からだ。
「留守電を聞いたが、何の用だ」
もう養子の話などどうでもいい。
俺は咄嗟に、全く関係のない話題を振った。
「読売巨人軍はなぜ、若手を育てることができないのでしょうか?」
「知るか! 下らんことで電話をかけるな!」
倅には泣かれ、兄貴には怒鳴られ、銭は消え、婆様の演説を延々と拝聴する。
おまけに足も痛けりゃ、靴も壊れた。
三月の陽気なんて吹っ飛んだ実に嫌な休日だった。




