第二十七話「地球の七割の憂鬱と小さなハーブ」
金さんの家に呼ばれて酒を呑んだ時、玄関に置かれた小さな水槽の中で金魚が優雅に泳いでいた。
ぼんやり眺めているうちに、荒涼とした職場の疲れが少し癒された気がした。
金魚でこれだけ癒されるのであれば、水族館ならもっと癒されるだろう。
俺は数日考えた後、
「……勝太郎、週末、魚を見に行くか」
作詞コンテストに出す『Octopus Dance the First』を書き上げた解放感から、そう倅に声をかけた。
勝太郎は次の日、図書館だか学校の図書室だか知らんが、海洋生物図鑑を借りてきて、熱心にページを捲って準備を整えていた。
俺もそれを覗いてみたが、あまり癒されなかった。
もし癒されるのであれば、水族館なんぞ行かなくてもいいと思ったが、やはり本物を見なければいかん。
その日、揺れる電車の中で、俺は窓の外を見つめながら言った。
「勝太郎、この地球という惑星のおよそ七割は海だ。そして、すべての生命は海で生まれた。海は我々人類の、いや、生命そのものの大いなる故郷なのだ」
「うん、そうだね」
わかっているのかいないのか、倅は楽しそうに答えた。
念願の水族館に到着すると、目の前を泳ぐ色とりどりの魚たちに、勝太郎は「わあ」と声を上げ、水槽に手を当てて眺めた。
俺も来てよかったと思った。
だが、水族館には魚しかいない。
二十分後、俺は相当飽きていた。
「よし勝太郎、帰るぞ」
「えっ、お父さん、まだ全然見てないよ。もっと見たい」
勝太郎が俺の服の裾を引っ張って抵抗する。
甘やかして育てたのがこういうところで出てくる。
「馬鹿野郎。魚屋じゃねえんだ。何をいつまでもこだわってんだ」
「だって、まだ深海魚のコーナーも見てないし。あっちに行こうよ」
勝太郎は諦めず、力一杯裾を引っ張った。
俺が公共の場所では静かにしていると思って調子に乗りやがる。
しかも最近目が悪くなって、暗いところでは相当目を慣らさないとほとんど見えないから、深海魚なんぞ見なくても、深海魚の気持ちはよくわかる。
俺は倅に引きずられるようにして、薄暗い深海ゾーンへと足を踏み入れた。
怪しく照らされた青いガラスの向こうに、海の底の住人たちが姿を現す。
リュウグウノツカイやらチョウチンアンコウやらを指さして、倅が俺に説明する。
海の底でのんびり暮らしていたのに、こんなところへ連れてこられて子供に指さされるのか。
気の毒といえば気の毒な魚生だ。
俺は同情の気持ちもあり、腕を組みながら水槽を眺めた。
だが、深海魚はどうも顔が悪いのが多い。
俺に言われるのもなんだろうが、人間と同じで苦労して生きてくるとどうしても顔に出てくる。
こんな顔の人間がいたら、絶対に近づかないよう後でよくよく勝太郎に言っておこう。
そう思っていたら、若い頃、左袒して助けてやった武井さんみたいな顔をしている魚を見つけた。
もしかすると魚に生まれ変わって、こんなところで余生を送っているのかもしれん。
俺も魚に生まれ変わったら、ポール・ニューマンみたいな顔をした魚になるのであろうか。
一通り見終わり、出口の売店に並ぶ海の生き物のキーホルダーやアクセサリーを見つけて、勝太郎が足を止めた。
「お父さん、今日の記念にあの魚のキーホルダーが欲しいな」
「駄目だ」
当然、却下した。
俺は北千住の洋食屋でカレーを大盛で頼ませ、
「それを食ってろ」
と声をかけて郵便局へ向かった。
用事を済ませて戻ると、案の定勝太郎がカレーを残していたので、それを片づけた。
まだ時間が早かったので、
「植物園にでも行くか」
と声をかけると、
「行く」
と即答した。
冬の花を見て森林浴を楽しむと実に癒される。
「マンサクが咲いているな」
「父さん、あれは蝋梅だよ」
躊躇なく否定された俺はやや不愉快になり、説明書きを読んだら蝋梅だった。
お袋は植物が好きだったから、勝太郎にも教えたのだろう。
三十分も歩くと少々足が疲れてきた。
それに動きのない植物なんて、いつまでも見ているものじゃない。
「よし勝太郎、帰るぞ」
「えっ、父さん、向こうで何か売ってるよ」
水族館で味をしめたのか、俺の言うことを聞かず移動販売所の方へ駆けていく。
見ると、勝太郎が小さなハーブの苗を持っていた。
「父さん、これ欲しい」
値段を見ると百五十円だった。
「うむ。大事に育てろよ」
そう言って買ってやった。
坂口レボリューションの裏庭に、勝太郎はそのハーブを植えた。
ハーブが育って、この薄汚い廃墟みたいなアパートが少しでも良い環境になれば何よりだ。
今日は十分に癒された一日だった。




