【四年生・八月】 第十話「茶褐色の沼と炎天下のカレー弁当」
夏休みなんてものはこの世から無くなってしまえばいいと思っている保護者は、きっと俺だけではないだろう。
暇つぶしに勉強でもさせようかと考えたが、この糞暑い中で一日中机に向かって問題集を解くなんて苦行は、人生の瀬戸際にいる浪人生くらいで十分だ。
俺の不在中、手持ち無沙汰にしているであろう息子を思いやり、俺はふと思いついて声をかけた。
「勝太郎、お前、料理でも作ってみるか」
「うん、やる!」
勝太郎は目を輝かせて意気込んだ。
最低限の簡単な料理ならこれまでにも小出しに仕込んではいるが、朝昼晩の三食を切り盛りするとなると話は全く別だ。
俺は倅にメモを取らせた。
「料理ってのはな、生・煮る・焼く・揚げる・蒸す、この五つが基本だ。そして味付けは、甘・辛・酸・苦・塩。すべての料理はここから枝分かれしていく」
必死に鉛筆を走らせる勝太郎に、俺は一つだけ「油は絶対に使うな」と念を押した。
「例えばジャガイモを例にしてみろ。甘辛く煮れば肉じゃがになり、揚げればフライドポテトになる。蒸して潰せばポテトサラダだ。焼く、というかサッと軽く火を通すなら『トードウチャオ(土豆絲)』だな。……まあ、生で食うのは一般人には敷居が高すぎるから、今の段階では覚えなくていい」
子供の初めての挑戦というものは、たとえ失敗しても褒めるべきだとどこかの本で読んだ。
ならば、最初から失敗しようのない料理がいい。
「カレーなんていいんじゃないか。余った野菜はそのまま刻めばサラダにもなる」
「じゃあ、僕、今日の夜はカレーにする!」
俺は材料のメモと少々の現金を渡し、そのままいつものように仕事へと出掛けた。
夜遅く、仕事を終えてアパートに帰ると、勝太郎が台所で大鍋に向かっていた。
大家の坂口の婆さんからわざわざ借りてきたのだろうが、その鍋の大きさとカレーの量は明らかにおかしかった。
(おいおい、今は夏場だぞ。三日も保たんぞ……。親一人子一人で、一体どういう計算をしたらこの分量になるんだ)
だが、これはあいつにとって初めての料理だ。
鍋の底から「ポコッ、ポコッ」と鈍い音を立てて爆ぜる、不気味な茶褐色の沼。
俺はその光景に内心で戦慄しながらも、顔色一つ変えずに言葉を絞り出した。
「……勝太郎。ちょっと、多すぎるんじゃないか?」
「そうかな? あ、坂口さんにもちゃんとお裾分けしたよ」
「ほう。婆さんは何と言っていた」
「うん。『なんだか、青春を思い出す味だねぇ』って言ってた」
カレーを食って青春を思い出す。……深く考えるのは健康に悪いのでやめ、俺は大人しく食卓についた。
目の前に並んだのは、カレーライスにカレースープ、そして付け合わせのポテトサラダだ。
恐る恐るスプーンで茶褐色の沼をすくい、口に運ぶ。
「おお、なかなか美味いじゃないか。お前、将来はコックでも目指すか?」
「えへへ、お父さん、隠し味わかる?」
せっかく褒めているんだから黙って受け取ればいいものを、子供というのはどうしてこうも余計なことをいいたがるのか。
「いや、さっぱりわからん」
「インスタントコーヒーだよ!」
俺が黙々とスプーンを動かしていると、ふと勝太郎の前に皿がないことに気づいた。
「お前は食べんのか?」
「あ、僕はさっき、坂口さんと一緒に食べたから」
翌朝、食卓に並んだのが当然のように昨夜の残りのカレーだったのは、言うまでもない。
そして朝、俺が仕事に出かけようと靴を履いたとき、勝太郎が誇らしげな顔で一つの弁当箱を差し出してきた。
「はい、お父さん。これ、お弁当!」
「おいおい、俺の昼飯はいつも工場の食堂で出るんだぞ」
「たまにはいいじゃない、手作りのお弁当でも」
昼休憩。
さすがに工場の食堂でこれを広げる勇気は出ず、俺は一人、逃げるようにして建物の外へ出た。
蝉のけたたましい鳴き声が頭蓋骨の奥にまで響き渡るような、容赦のない炎天下。
じっとりと滲む手汗をズボンで拭い、日陰のコンクリートに腰を下ろして、俺は手渡された弁当箱の蓋をパカッと開けた。
――そこにあったのは、やはり、当然のようにカレーだった。




