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「え? で、でも千尋さまと楽さん……」
「私達は大丈夫です。さあ行ってください。それから鈴さん、弥七に鴉の手配をするよう伝えておいてもらえますか?」
「鴉ですか? 分かりました。それじゃあ千尋さま、楽さん、気をつけてくださいね」
鈴は久子のヒステリックさをよく知っているからだろうか。心配そうに千尋と楽を見て泣きそうな顔で雅に引きずられるように部屋を出て行った。
「まさかこんな時間に戻ってくるとは……」
鈴が居なくなったのを確認した勇はそう言って項垂れた。そんな勇を見て千尋は肩を竦める。
「まぁいいではありませんか。丁度良いと言えば丁度良いですから」
相変わらず笑顔で居る千尋を見て勇は何か言いたげに口を開きかけたその時、玄関から今度は久子と菫の声が聞こえてきた。
「菫ちゃん、誰か来てるの? 男物と女物の靴が置いてあるけど」
「まぁね。でもお母様たちには関係の無い方たちよ」
「どういう意味かしら? あなたのお友達でも来ているの? だとしたら感心しないわね。嫁入り前の娘が男を家に連れ込むなんて、誰かに知られたらどうするつもりなの? そこをどきなさい。あの人は一体何をしているの!?」
早口で捲し立てるように話す久子に、隣で楽が怯えたように千尋を見上げてくる。
「あんなのはまだまだ可愛いほうですよ、楽。都の討論などこの比ではないぐらい荒れますから」
「そ、そうなのですか?」
「ええ。最悪変身して襲いかかってきます」
「ひえ……」
楽が素直に青ざめるのを楽しんでいたところへ、とうとう菫が戻ってきた。それに続いて久子と蘭もズカズカと部屋に入ってくる。
「お前たち、客の前だぞ」
あまりにも不躾に入ってきた久子と蘭に勇が声を荒らげるが、そんな事に構いもせずに久子は勇に怒鳴り返す。
「客ですって!? 私達の居ない間にやってくる客なんて――まぁ……」
「か、神森さま!?」
「蘭さん、これはこれはお久しぶりですね」
「お、お久しぶりです。今日は一体どうして……あ、もしかして私達の帰りを待っていてくださったのですか? 菫ちゃん、すぐにお茶の準備を!」
「もう出してるでしょ? ちゃんと見なさいよ」
面倒そうにそんな事を言う菫に思わず千尋は笑いそうになったが、そんな菫を久子と蘭が物凄い顔で睨みつけた。
「冷めてるでしょう? あなた、お茶もまともに淹れられないの?」
「まぁ、そうなの? 菫」
久子と蘭は二人して菫に向かって哀れそうな顔をするが、菫はそんな二人を見てもどこ吹く風だ。
「だったら蘭がご自慢のお茶の腕を披露すれば?」
「それもそうね。あなたに任せたら茶葉がお茶に入っていそうだもの」
「失礼ね! お茶ぐらい私も淹れられるわ!」
そんなやりとりを諌めたのは勇だ。
「お前たち客人の前だぞ! いい加減にしなさい! 菫、お茶を入れ直してきてくれるか」
「仕方ないわね。ちょっと待っていてちょうだい」
「ええ、ありがとうございます、菫さん」
そう言ってにこやかに菫を送り出した千尋を見て蘭と久子が急いで頭を下げる。
「も、申し訳ありません! あの子ったら神森様になんて口の利き方!」
「出来の悪い子で本当に恥ずかしいです! 申し訳ありません」
そんな二人を見下ろして千尋はにこやかに手を振った。
「いえいえ、ご心配には及びません。何せうちの雅と菫さんは文通相手なので」
「え?」
この一言に楽も含めた四人が固まった。
「おや? 菫さんに聞いていませんか? 菫さんはうちの執事の雅と仲が良いのですよ。ねぇ? ご当主?」
「え、あ、はい! そうなんだ。この間も雅さんと出掛けたみたいだぞ」
「そんなの聞いてないわ! どういう事なの!? 父様!」
「どういうと言われても、俺が菫の交友関係を制限する訳にはいかないし、何よりも神森様の家の執事だ。制限するはずもないだろう?」
「そういう訳なので、菫さんも私に気安くしてくれるのですよ。雅が私にあんな感じなので」
そう言って軽く笑った千尋を見て久子と蘭は顔を真っ赤にしている。隣では千尋の意図がわかったのか、楽が大きく頷いていた。
「と、ところで今日は一体どういうご要件で来られたのですか?」
気を取り直したのか、久子はそう言って千尋の正面に座ってシナを作る。その隣に蘭もいそいそと座り込んで、何故か頬を染めた。
「ああ、挨拶に伺ったのですよ」
「挨拶?」
「ええ。結婚の申し込みのご挨拶です」
千尋が言うと、久子の顔色が変わった。
「で、ですがその件はまだ……」
「あなたの言いたいことは分かります。ですが、私は彼女の保護者に手紙を出したのです。あなたではありません」
ピシャリと言い切った千尋の言葉に久子はとうとう黙り込んだが、何故かそんな久子の隣で蘭が目を輝かせている。
「では、今日はもしかしてそのお返事に!?」
「いえ、今日は結納のご挨拶に伺ったのです。式を早くあげたいので」
「そんな! それなら私の居る時にしてくだされば良いのに!」
「?」
何故か喜んでいる蘭を見て千尋は内心首を傾げた。どうして蘭が千尋と鈴の結婚を喜ぶのだ? 不思議に思ってふと久子に視線を移すと、何故か久子は青ざめている。
流石に蘭の態度を不思議に思ったのか、勇が思わずと言わんばかりに口を挟む。
「蘭、お前何か勘違いしていないか?」
「勘違いだなんて! お父様も人が悪いわ! こんな事をして私をビックリさせようとしたの?」
「いや、今日の結納は――」
「鈴さんですよ? 私が結婚を申し込んだのは鈴さんです。もう結納は済ませてちゃんと受書ももらいましたよ」
千尋は勇の言葉を遮って笑顔でそう告げた。その途端、久子は勇を睨みつけ、蘭はあっけにとられたようにポカンと口を開く。
「え……? 鈴が千尋さまと……?」
唖然としている蘭を押しのけて久子が勇を怒鳴りつける。
「あなた! 何故そんな勝手な事を! あんな娘にこんな良縁、正気ですか!? あなたは黙って私の言う事を聞いていればいいっていつも言ってるでしょう!? 蘭を神森家に嫁がせればうちは一生安泰なのに、どこの馬の骨とも知れないあんな娘!」
この一言に千尋が上がろうとしたその時、耐えきれなくなったのか勇が千尋よりも先に立ち上がって拳を震わせて久子に怒鳴った。
「どこの馬の骨だと!? 鈴は俺の妹と恩師の娘だ! れっきとした的場家の縁者だぞ! 大体正気かも何も、最初に神森家に鈴を嫁がせようと言い出したのはお前だろう!? うちの娘をこんな気味の悪い家に嫁がせるなど以ての外だと言ったのはどこの誰だ!」
「なんですって!? 今まで佐伯家がどれほどあなたに恩恵を与えたと思っているの!? そんな口をこの私に利いて良いと思ってるの!?」
「恩恵だと!? きな臭い手を使って貰った恩恵なんか、一体何の役に立つんだ! お前がしてきた事の尻拭いを今までずっとしてきたのは俺だ! お前に貰った物など、ただの一つも無い!」
「そうかしら? 菫を認知してあげた。今まで私の本当の娘のようにしてあげたじゃない。それだけで十分よ!」
久子の言葉に勇が引きつったが、それを聞いて千尋はチラリと視線を襖の向こうにやった。それと同時に菫が襖を開けて堂々と入ってくる。
「お母様は私とお父様を傷つけようとして言ったのでしょうけど、残念ね。私、大分前から知ってるわよ」
淡々と言う菫の顔には本当に何の感情も浮かんでいない。いつもの菫だ。
「そうなのですか?」
千尋が問いかけると、菫はコクリと頷いた。
「ええ。鈴も知ってる。この間話したから。本当の私の母がずっと鈴のお薬の手配をしてくれてたの」
「そうなのですか! それはそれは、ありがとうございます。そちらにもご挨拶に行かなければいけませんね」
「止めてよ。あんたみたいな人見たら母さま腰抜かしちゃうわ。お母様は生まれたばかりの私を利用しようとして父さまに連れて来るよう言ったんでしょうけど、残念ながらそれは切り札にはならないの」
「ど……して? どうして!」
混乱したように叫ぶ久子を見て勇が静かに言った。
「菫、蘭、部屋に戻りなさい」
勇の言葉に菫はすぐに従ったけれど、蘭は何故戻らなければならないのか分からないとでも言いたげだ。
「嫌です。蘭は最後まで聞きます」
「戻りなさい! 子どもは聞かなくていい!」
意地でもその場に居座ろうとする蘭を勇が怒鳴りつけた。こんな勇を見たことが無かったのか、蘭は目を見開いて久子に視線を移すと、そのまま部屋を出ていく。
二人が部屋から出た事を確認した勇は静かに話し出した。
「俺が言わないと思ってたか? 大人しくお前の言いなりになると? 自分の母親の事だ。全て話すに決まっている。俺とお前の繋がりなんて、ただの紙切れ上の事に過ぎない。佐伯家が汚い手を使ってうちを脅したから仕方なく俺が離縁してお前の要望通り菫を連れてここに婿入りしたんだ。だが、今はもう的場の家は再興した。鈴も嫁ぐ。俺がここに居る理由はもう何も無い! お前とは離縁だ!」
勇の怒鳴り声に久子は一瞬呆気にとられた顔をしたが、次の瞬間高笑いを始めた。
「何を言い出すのかと思えば! あなた、そんなに上手くいくと思っているの? あまり佐伯を舐めないでほしいわね! どんな手を使ってもあんたと離縁なんてしない! 私の復讐は一生続くのよ!」
「おや、それはどういう意味です? あなたご当主に何か恨みでもあるのですか?」
激高して目を血走らせた久子に千尋が淡々と問いかけると、久子は突然千尋にしなだれかかってきて泣きだした。
「神森様! あなたはこの男とあの娘に騙されているのです!」
「騙されている? 私が?」
「ええ! この男は私の婚約者だった人と自分の妹を無理やり添い遂げさせようとしたのです! そうして生まれたのが鈴。あの子は愛されて生まれてきた訳じゃない! 少なくともフレックスはあんな女を愛してなんていなかった! だって、あの人が愛していたのは私なんだから!」
「嘘をつくな! お前は先生の下宿先の娘と友人関係だっただけだろうが!」
「また新しい話が出てきましたがご当主、どういう事なのですか?」
もう何が何だかよく分からないし興味もない千尋だが、この問題を解決しない限り鈴と円満に結婚する事は難しそうだと判断した千尋は姿勢を正した。
そんな千尋を見て勇はゴクリと息を呑む。
「大丈夫ですよ、ご当主。私は何を聞いてもこの話を白紙に戻すつもりなどありませんから」
その言葉を聞いて、勇はあからさまにホッと胸を撫で下ろすと、ゆっくりと話し出した。
「そうですか……フレックス先生が下宿していたのは、久子の友人の家だったんです。先生には夢がありました。ところが、当時先生から菊子はある相談をされていたようなのです」
「ある相談?」
「はい。内容は、もしかしたら自分の夢は潰えるかもしれない、という相談だったと手紙に書いてありました」
「どういう事ですか? フレックスさんは夢を追って日本で教師の仕事をしていたのですか?」
「ええ。ですが、どうも先生はある家から自分の娘と婚姻を結べば、夢を叶えてやると持ちかけられていたようなのです。先生は優しい方でしたが、自分にはとても厳しい方だった。そんな先生を甘言で釣ろうとしたのが、この佐伯家だったんですよ。そうだな? 久子」
「そうよ? 当然でしょう? だって、私と彼は結婚の約束をしていたのだから。それをまるで鳶のように横から割って入ってきて邪魔をしたアバズレはあなたの妹よ! だから私はお父様にお願いしたの。あの人と結婚をしたいってね!」
「なるほど。つまり佐伯家はフレックスさんを金で買おうとしたということですね?」
「金で買おうだなんて! 力のある家の援助があれば、フレックスの夢が叶うと思ったのです! だって、そうでもしなければ一生かかってもあの人の夢は叶わないのですもの」
それはもちろん、佐伯家が邪魔をするからなのだろう。
千尋は腕を組んで頷いた。ようやく久子が鈴をあそこまで憎む理由が分かってきた。要は愛した男とそれを奪った女の間に出来た子供だから憎いと、そういう事なのだろうが、何て身勝手な話なのだろう。
かなり気の長い千尋だが、流石にこれは行き過ぎだ。
「お前が先生と結婚の約束をしていたなんて事実は無かったと思うがな。そもそもお前には先生に会う前から婚約者がいた。そう、蘭の父親だ」
そう言って勇は久子を見て鼻で笑う。
「おや、蘭さんがいるのにその方とは結婚をしなかったのですか?」
婚前に婚約者と子どもまで作っておいてフレックスにも手を出そうとしたのかと思うと呆れるが、千尋は辛抱強く話を聞くことにした。
そんな千尋の態度に久子がどんな勘違いをしたのかは分からないが、あからさまに悲しそうな顔をして視線を伏せる。
「死んだのです。そう、事故でした。とても悲しい事故……。でもあの人が悪いのです。だって婿養子に入って佐伯家を乗っ取ろうとしたんですもの。お父様を怒らせてしまったのです」
「え、それって……」
わざとらしく視線を伏せた久子を見て楽が口を開こうとしたので千尋は楽を肘で小突いた。
恐らく、蘭の父親は佐伯家に事故に見せかけて殺されたのだろう。
「あなたがフレックスさんと本当に結婚の約束をしていたかどうかは、調べればすぐに分かることです。ですが、はっきり言って私は鈴さんとの結婚をご当主に許していただきたいだけでそんな事に興味もありません。何よりもこれ以上調べられて困るのはどう考えても佐伯家です。ここはもう手を引いた方が良いのではないですか? 佐伯家を本当に守りたいのであれば」
そう言って千尋は微笑んだ。そんな千尋を見て久子はシナを作る。
「佐伯家は強大ですわ、神森様。この人の家、的場は落ちぶれた武士の家系に過ぎません。話に聞いた所によると、あなたは名家にしかお声をかけられないご様子。的場と佐伯、どちらがより名家かは少し調べれば分かります。私は神森家の事を思って申し上げているのです。佐伯の血を継ぐ蘭との婚姻の方が、神森家にとって有益だと」
気味の悪い笑顔を浮かべながらしなだれかかって来ようとする久子に、千尋は厳しい視線を向けた。




