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「雅? こんな所で何をしているのですか?」
千尋は曲がり角で猫の姿のまま廊下を覗き込んでいる雅を見つけて問いかけた。この先は楽の部屋だ。今、正に千尋が向かおうとしていた場所である。
「千尋か。いや、楽と鈴が何やら話し込んでるんだよ」
「楽と鈴さんが? 一体何を――」
「あ! 話し終わった! 千尋、隠れろ!」
「え? 隠れるって、どうして――」
千尋が隠れる意味も分からないが、それでも雅は千尋の着物の裾を引っ張るので大人しくそれに従うと、鈴はこちらには気づきもせずにそのまま千尋達の居る廊下とは逆方向に歩いていく。
「ふぅ、焦った。全く! あんたはあたしと違って図体がデカいんだから、うろちょろするなよ!」
「そんな無茶苦茶な。私も楽に用事があったんですよ。それにしても、一体何を話していたのでしょう? 何か聞こえましたか? 険悪でしたか?」
思わず千尋が雅に尋ねると、雅は小さく首を振った。
「あたしもそれを心配してここで見守ってたんだけど、全然普通だったよ。会話の内容は聞こえなかったけど、楽が泣きそうになってたのは見えた」
「楽が泣きそうになっていた? 一体何故?」
「知るもんか。それじゃ、あたしは鈴を追うよ。そろそろ夕飯の支度だしな」
「あ、ちょ、雅!」
雅はそれだけ言って千尋が止めるのも聞かずにさっさと廊下を走り去ってしまう。雅にとって重要なのは、どうやら鈴だけのようだ。やっぱり猫は人につく。
千尋はため息を落として楽の部屋まで行くと扉をノックした。すると、すぐに扉が開く。
「何だよ、何か忘れもん――千尋さま!?」
楽は話しながら扉を開けて、立っていたのが千尋だと分かるなり驚きに目を見開いた。そんな楽を見て千尋はいつものように微笑む。
「ここに誰か来ていたのですか?」
楽がどう反応するのか見てみたくて千尋が言うと、楽は少し戸惑ったように頷いた。
「あいつ、じゃなくて鈴さんが……来てました」
「どうしてです?」
「俺の鱗をあげたので……ありがとう、と……」
「なるほど。もう仲直りはしたのですか?」
楽が鈴に何かを言って傷つけた事はもう分かっているし、今も初と繋がっている事も分かっているが、楽がそれを千尋に話すかどうかで今後の楽への対応も変わる。
「仲直り……というか、俺たちは同志なんだって気づきました。千尋さま、申し訳ありませんでした」
楽はそう言って千尋に頭を下げてきた。一体何に対しての謝罪なのかが分からなくて千尋が首を傾げると、楽は頭を上げてぽつりぽつりと話し出す。
「俺がここに来たのは、千尋さまを都に連れ戻す為だったんです」
「どういう事です? あなたは追放されたと聞きましたよ?」
「はい。それは表向きの理由で、本当は鈴さんの監視と、千尋さまが都に戻りたいと思うように仕向ける為に追放されたんです」
「それを初に頼まれたのですか?」
「!」
それを聞いて楽は目を見開き一瞬首を振ろうとしてすぐに止め、ゆっくりと曖昧に頷いた。
「黙ってて……申し訳ありません。初さまはあの時の事件をずっと調べていたそうで、最近になってやっと暗号を盗んだ犯人に目星がついたそうなんです。ですが、その犯人はかなりのやり手で全く尻尾を出さないから、油断させる為に俺が暗号を間接的に盗んだという事にして、俺に地上での千尋さまの動向を報告してほしいと頼まれたんです」
「それは無理があるでしょう? あの事件の時、あなたはまだうちに居なかったのですから」
「はい。なので初さまが俺の年齢と出自を詐称してくれました。ほとんどの人は俺の事なんて知りもしませんから」
「そんな事までして何故初に手を貸してしまったのですか。詐称は大罪ですよ?」
「あの時は……それが千尋さまの為になるんだって思ってたんです。千尋さまが居ない間、初さまはたまに屋敷にやってきて色んな千尋さまの話を聞かせてくれました。俺はほとんど千尋さまと面識が無い状態で初さまや屋敷に居た人たちの言葉だけを聞いてあなたの存在を感じていたんです。初さまは話の中で何度も千尋さまはここに戻りたがっていると仰っていました。だから……俺は……」
「それを信じたのですか。いえ、確かに今まではそう思っていましたよ、私も。ですが今はあなたも知っての通りそんな風には思っていません。それは分かりますよね?」
「……はい」
楽は頷いて泣きそうな顔をしている。そんな楽を見て千尋はため息をついた。
「初はあなたを利用しようとした。それにも気づいていますか?」
「……はい。今、気づきました……」
そう言って項垂れた楽は、自分で言っていても何かおかしいと気づいたのだろう。今はもう泣きそうな顔を通り越して青ざめている。
「あなたは犯罪に手を貸した。これは私にもどうする事も出来ません。あちらに戻ったらどんな処分を受けるかは分かりませんが、出来るだけ罪が軽くなるよう私も尽力しましょう。それで、初があなたに頼んだのはそれだけですか?」
「いえ、今回の花嫁についてすごく聞かれました。本当は自分が様子を見に行きたいけれど、初さまは人間を見ると気分が悪くなると言って……それで……」
「それで?」
「俺に、鈴さんの様子を教えて欲しいって……でも、俺よく分からなくて……」
「よく分からない? 鈴さんについてですか?」
「はい。初さまは人間の事を愚かで思慮や配慮に欠けていて、知能も低くてまるで獣のようだと仰るんです。今回の花嫁に至っては本当に最悪で、人間のくせに千尋さまを誘惑しようとしているのだ、と。でも鈴さんはそんな風には見えない……それどころか、千尋さまの事で本気で怒ってくるんです。さっきも千尋さまの為に生きるって……千尋さま、龍の花嫁は寿命が縮むとか子どもを持てないとか、本当なんですか? 寿命が縮むってどれぐらい縮むんですか?」
泣き出しそうな顔で千尋を見上げる楽に、千尋は口を開いた。
「今までの花嫁は、30になる前に亡くなりました。一人だけ35まで生きましたが、何をしてもそれ以上は生きてはくれませんでした。子どもの方も本当です。私は彼女達の卵子を使って神通力を全国に届けるのです」
その言葉に楽の目がどんどん潤む。
「じゃ、じゃあ、あいつも死ぬの? 30年なんて……あとどれぐらい生きられるの?」
「鈴さんは今16なので、約14年ですね」
「う、嘘だ! そんなの……そんな事、千尋さまがする訳ない!」
「嘘ではないのですよ、楽。それが龍神の仕事なのです。初ももちろんそれを知っています。そして鈴さんも」
千尋の言葉に楽は俯いてしまった。そんな楽に千尋はさらに言う。
「それでも鈴さんは、私に幸せになって欲しいと言うのですよ」
「え?」
「おかしいでしょう? それを聞いてもなお、私の心配をするのです。あなたはそんな人を、愚かで思慮や配慮に欠けていて、知能の低いまるで獣のような生物だと思いますか?」
「……」
楽はとうとう黙り込んでしまった。どれだけ噛み締めていたのか、唇の端には血が滲んでいる。
「あなたはここへ来てまだ数日ですが、あなたが見た鈴さんが本当の鈴さんです。もちろん人間はあんな人ばかりではありません。ですが、鈴さんのような人も沢山居ます。それは龍の世界でも同じこと。そして、全ての生物に言える事です。私達も含めて。あなたにはそれが良く分かったでしょう?」
「……はい」
「あなたの良いところは、とても素直で正直な所です。そこを初に利用されてしまったようですね。私が高官や高位の者を好きではないと言った理由が分かるでしょう?」
「はい……申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げた楽の頭を千尋は撫でた。楽はそんな千尋に驚いたように顔を上げるが、千尋は少しだけ笑って楽を見下ろす。
「あちらに戻ったら、私は高官を止めて田舎に引っ越します。その時にあなたは他の高官の屋敷の執事になれるよう手配しましょう」
高官で無くなった龍になどほとんど価値は無い。千尋はそれをよく知っているし、ましてや鈴と婚姻を結んだりしたら確実に辞めさせられる。そうなったら楽だって千尋の側に居る意味もないだろう。そう思ったのに――。
「い、嫌です! 俺は高官でも何でも無い千尋さまでも側に居たいんです! 俺だって……俺だって……千尋さまには幸せになって欲しい……だって、俺はもう千尋さまに十分良くしてもらったんだから……」
「……」
楽の言葉に千尋は少しだけ驚いてしまった。初に何を吹き込まれたのかと思っていたが、この数日だけで楽はどうやら何かを思い出したようだ。
「駄目ですか……? 過ちを犯した俺は、もう千尋さまの側にいられない?」
「駄目ではありませんが、むしろ良いのですか? さほど良い生活は出来ませんよ?」
「そ、そんなのどうでもいいです! 初さまに言われた事が正しいんだって思ってたからこんな事になったけど、俺だってあいつと一緒です!」
「なるほど、だから同志、なのですね」
「……はい」
「分かりました。ではあちらに戻ってきちんと罪を償ったら、またよろしくお願いしますね、楽」
「はい!」
「それから。もう二度と鈴さんには意地悪をしないように」
「は、はい……」
「よろしい。それからもう一つ。初が心配していたのは当たっていますよ。私は鈴さんを龍の都に連れて行くつもりでいます」
「えっ!? そ、それは……どうやって?」
「今回の里帰りで私はずっと調べ物をしていたでしょう? あれは、龍の力をどうにか中和出来ないかを調べていたんですよ。そしてたった一つだけ方法を見つけました。それは、番関係を結ぶ事です」
「つ、番関係!? う、初さまは……」
「初? まさかこの期に及んで初と番関係を続けろとは流石に言わないでしょう?」
意地悪に笑ってそんな事を言った千尋に楽は戸惑いながらも頷く。
「で、ですがそれは難しいのでは……」
「難しいですね。一番難しいのは鈴さんが私を神としか思っていない事ですが」
「ああ……それは……そうですね……」
一体鈴とどんな話をしたのか、楽は納得したように頷く。そんな反応が少し癪だが、今はまだ仕方ない。
「では楽、あなたは鈴さんに私の良い所を吹聴してください。きっと雅に邪魔をされると思いますが」
そう言って千尋が苦笑いすると、楽もようやく笑顔を見せた。それは都に帰るたびに見せていた笑顔と同じだった。
「ああ、それから楽、もう一つお願いがあります。あなたはこれからも予定通り初との通信を行ってください。鈴さんは今まで通りの花嫁だと、私が都へ戻らないのはこちらでの仕事を終わらせたいからだと言い続けてください。いいですね? それから、鏡の履歴は絶対に消さないように」
「は、はい!」
あちらの思い通りになどさせるものか。千尋は緊張した面持ちの楽の頭を撫でると、部屋を後にした。
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「それじゃあ、あの坊主と仲直りしたのか。あんた、そんな事言われてよく許したね」
雅がお玉で鍋をかき混ぜながら呆れたような口調で言った。
「理由が分からなかったから傷ついただけで、それが解けましたから。楽さんは多分寂しかったんだと思います。千尋さまが帰ってくるのは100年に一度だけ。しかも一月だけなんですよ。楽さんからしたら千尋さまは父親のような存在だったのではないでしょうか。だから私を助ける為に千尋さまが帰ってしまった事が悲しくて悔しかったのかなって思いました」
「だからってあんたに八つ当たりして良いって訳じゃないだろ?」
「それはそうなんですが、私にも気持ちはとてもよく分かるので。今でもやっぱり両親が戻って来ないかな、なんて考えたりする事もあるし、ふとした拍子に思い出して苦しくなる事もあるから……」
「ああ……そうだったね。まぁ何にしても拗れなくて良かったよ。あたしがあんたの代わりにあの坊主に怒ってやるから、あんた達は仲良くしてな。見た目の年齢は近そうだし、案外気が合うんじゃないか?」
雅の言葉に鈴はコクリと頷いた。楽もまた千尋の幸せを願っている。そういう意味では鈴と楽はとてもよく似ている。
「それに楽さん私に悪いことをしたなって思ったのか、発熱する鱗をくれたんです。洗濯をしていて手が真っ赤だったから見かねただけかもしれませんが」
「根は良い奴なんだろうね。何せ千尋が追放になってもずっと一人であっちの屋敷を管理してたぐらいなんだし」
「そうなのですか?」
「らしいよ。他の使用人は千尋が追放になったのとほぼ同時にさっさと辞めたらしいけど、あの坊主だけはずっと残ってたみたいだ」
それを聞いて鈴は思った。やはり楽は千尋が言った通り根は明るくて正直でとても優しい人なのだろう。
「そうだったんですね。私から出来るお礼なんて限られていますが、喜んでくれるでしょうか?」
「喜ぶに決まってる。あんたの洋食は絶品なんだ。もっと自信持ちな」
「はい」
今日の夕食は千尋のリクエストでカレーライスだ。イギリスに居た時も母がよく作ってくれた。カレーの日は決まっておかずはカツレツだったのを今でもよく覚えている。
「それにしても良い匂いだね! スパイスとやらを嗅いだ時は鼻がもげるかと思ったけど」
「おまけにとんかつにローストチキンまで! 今日は贅沢な日ですね!」
目を輝かせた喜兵衛に鈴は笑顔で言った。
「もちろん楽んさんへのお礼というのもあるのですが、龍の都では個人の誕生日を祝う習慣があるそうなんです。ところが千尋さまのお誕生日は既に終わっていたので、少しでもお祝いになればいいなと思って」
言いながら鈴は煮詰めていたりんごの味見をして、そこに少しだけシナモンを振り入れた。そんな様子を雅がワクワクした様子で見ている。
「それは何だい?」
「これはりんごのタルトです。今はりんごが美味しい季節ですから」
菫が大好きだったりんごのタルト。タルトの日は作っている間中菫はいつも鈴の後ろに張り付いて茶々をいれてきていたのを思い出す。
「へぇ、個人の誕生日なんて祝うもんじゃないって思ってたけど、こんなご馳走が食べられるのなら悪くないね」
「そう言えば雅さんはお誕生日はいつですか?」




