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龍の箱庭  作者: 揚羽渓名
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 ニコニコしながらそんな事を言う千尋に鈴まで嬉しくなって微笑む。


「千尋さまは今読んでいる恋愛小説の男性にとてもよく似ています」

「そうなのですか?」

「はい! とても優しくて、何も言わなくても主人公の気持ちを理解してくれるのです。たまに主人公を独り占めしたい気持ちが溢れるのですが、私はこの小説の男性がとても好きです」

「そ、そうですか……」


 鈴の率直な言葉に千尋は少しだけ視線を伏せてしまう。もしかして怒らせたのかと思ったが、少しだけ耳が赤くなっているのを見てこれは照れているのだと分かった鈴は、何だか嬉しくなってしまった。


 夕食後、鈴は今日の菫との会話を思い返しながら相変わらず字の練習と称して楽の部屋に今日のお品書きを書いた手紙を差し入れ、お気に入りの小説を持って最近よく入り浸っている書斎に向かった。


 この書斎は千尋が誰でも使っていい場所として最近になって解放した場所で、夜遅くまで暖炉がついていて暖かい。


 時折ここでレシピを研究する喜兵衛や、花の図鑑を探しに来る弥七と会う。ちなみに雅とはまだ一度もここで遭遇した事はない。


 書斎に入ると、今日は珍しく千尋が居た。


「おや? 鈴さん」

「千尋さま!」


 先程別れたばかりなのにまた会えるとは思ってもいなかった鈴は、何だか嬉しくてソファに腰掛けて静かに本を読んでいた千尋に駆け寄った。


 千尋はそんな鈴を見て読んでいた本を一旦閉じて手招きしてくれる。

「どうしたのですか? ここでお会いするのは珍しいですね」

「最近はよくここで本を読むんです。ここが一番遅くまで暖かいので」


 鈴が言うと千尋も頷く。


「私も同じ理由です。でも鈴さんは遠慮せずに部屋の暖炉を使ってもいいのですよ?」

「遠慮をしている訳ではないのですが、いまいち上手く火加減が出来ないんです」

「なるほど。雅に頼みますか?」

「いえ! ここのお布団は暖かいので、寝る前に少し体を温められたらそれで十分です」

「そうですか? 風邪を引かないよう気をつけてくださいね」

「はい!」


 そう言って鈴は千尋の隣に腰掛けると、ふと千尋が持っている本を覗き込んだ。


「千尋さまは何の本を読んでらっしゃったんですか?」

「え? ああ、これは哲学書です。龍の私と人の間にはなかなか深い溝があるので、それを少しでも埋めようとたまにこうして人の事を勉強しているのですよ」

「流石ですね……面白いのですか?」

「ええ。龍には無い倫理や価値観は面白いですね。いつか龍の都に戻る時には、是非持って行きたいです」

「そんなに面白いのですか! 私にも読めますか?」

「もちろん。ただこれは少し難しい日本語が多いので、おすすめの本をいくつか見繕っておきましょうか?」

「はい! お願いします」


 そう言って鈴が読みかけだった本を開くと、そんな鈴を確認して千尋もまた本を開いた。こんな風に並んで二人で本を読むのは初めてだ。


 静かな部屋に二人分のページをめくる音だけが響く。誰かと静かに本を読む事がこんなにも穏やかな気持ちになるだなんて、鈴は知りもしなかった。


 無言でページをめくっていると、時折千尋が「なるほど」とか「そういう事か」などと独り言を言う。鈴も息を呑んだり泣きそうになって鼻をすするので、きっと千尋にも聞こえているのだろう。そういう時はそっと千尋が鼻紙を鈴の手に握らせてくれたから。


 こんな関係、心地良いな。鈴はそんな事を考えながら本を読み進めた。

 

 

♠ 

 時折聞こえてくる鈴の息を呑む声や小さな笑い声、そして鼻をすする音に千尋は目を細めながら静かに本を読んでいた。

 

 普段であれば集中してしまえばそんな音すら聞こえなくなるというのに、何故かいつも以上に感覚は研ぎ澄まされて、集中していない訳ではないのに鈴の事を気にかけてしまう。

 

 だからといってそれが嫌かと言われると嫌ではなく、疲れるかと言われるとむしろ落ち着く。


 本を誰かとこんな風に読む習慣などなかった千尋は、相手が鈴だからなのか、それとも誰と読んでもこんな気持になるのかを考えながらページをめくった。


「おや?」


 その時だ。肩に鈴がもたれかかってきた。ふと見ると、鈴は本を開いたまま船を漕いでいる。


 睡魔と戦っているのか、鈴の頭はあっちへ行ったりこっちへ来たりしてゆらゆらと揺れていた。


 やがて鈴は完全に眠ってしまったのか、ゆっくりと千尋とは違う方に倒れていくので、千尋は慌てて鈴の小さな頭を手のひらで受け止めて自分の方に引き寄せた。


「こんな事、今までの私では考えられませんね」


 誰かと本を読んだり誰かの枕代わりになったり、誰かの寝顔を見て可愛らしいと思ったり……本当になにもかもが初めてだ。


 千尋はそんな事を考えながら、静かにページをめくり続けた。


 しばらくすると雅が書斎にやってきた。きっと火の加減を見に来たのだろう。


「あれ? なんだ、千尋まだ居たのか」


 雅が千尋を見つけて声をかけてきたので千尋はすぐに人差し指を口に当てて、そっと肩を指さした。


 そんな千尋の仕草を見て雅はようやく鈴の存在に気づいたようで、納得したように静かに近寄ってくる。


「鈴も居たのか。あーあ、気持ちよさそうに眠ってるなぁ。ちょっと警戒心がなさすぎやしないか?」

「それが可愛らしいのですよ。雅、すみませんがそこの毛布を鈴さんにかけてもらえますか? もう少ししたら部屋へ運ぶので」

「分かった。あんた、手出すなよ」

「結婚をするまで、が抜けていませんか?」

「結婚をしてもだよ! この馬鹿!」


 眉を吊り上げて怒る雅に千尋は苦笑いをして「そんな無茶苦茶な」と呟くと、雅も自分が言った事はおかしいと気づいたのか、小さく咳払いをしてそのまま部屋を出て行った。


「結婚をしても手を出すな、なんて初めて言われましたよ」


 鈴を起こしてしまわないようにそっと囁くと、鈴はまるで反応するかのように微笑んだ。


 けれどきっと千尋の声が聞こえたのではなく、菫との夢でも見ているのではないだろうか。


 そんな鈴を見て千尋も思わず微笑んでしまう。菫と庭を歩いている鈴は、それはもう楽しそうだったから――。


 やがて本を読み終えた千尋は鈴を起こさないよう抱き上げると、書斎を後にした。ゆっくりと長い廊下を歩いていると、寒いのか鈴が千尋の胸に顔を寄せてくる。


「こういう時はどう我慢をしたら良いのでしょうか……」


 思わず手を出したくなる衝動に駈られながらもどうにか千尋は鈴の部屋に辿り着くと、そっと寝台に鈴を横たえた。


「おやすみなさい、鈴さん」


 千尋はそれだけ言って毛布と布団を鈴にかけて部屋を出ようとしたのだが、微かに鈴の囁く声が聞こえてきたので思わず鈴の寝台に戻ると、思いもよらないセリフが鈴から飛び出す。


「ち……ろ、さま……すき……」

「!?」


 その瞬間、ドクンと心臓が跳ねた。ゴクリと息を飲み込み鈴の顔を覗き込むと、鈴は笑顔を浮かべてさらにむにゃむにゃと話し出す。


「もも……です……か……わたし……柿が……」

「あ、そういう……」


 そこまで聞いて千尋の心臓はすぐに大人しくなった。どうやら鈴は夢の中で千尋に好きな果物を聞いていたようだ。そして次の瞬間あまりの恥ずかしさに思わず顔を手で覆ってしまった。


 こんな些細な一言で一喜一憂して勘違いをして恥をかいて……こんな千尋を龍人達が見たらどう思うのだろうか。


 千尋は一歩鈴に近寄ると、形の良いおでこにそっとキスをする。


「今はこれが精一杯だなんて……情けないですね、私も大概。おやすみなさい、鈴さん」


 そう言って千尋は今度こそ鈴の部屋を後にした。そしてこの事が後からとんでもない誤解を招く事になるなどとは、この時の千尋は予想もしていなかった。

 

 

♥ 

「……やってしまった……」


 鈴は寝台の上で頭を抱えて昨夜の自分のしでかした事を深く反省していた。


 昨日、鈴は確かに書斎で本を読んでいたはずだ。ところが途中から記憶はぱったりと無くなって、気づけば寝台に居たうえにサイドボードには鈴が読んでいた小説がきちんと置いてあった。パラパラとめくると、ご丁寧に読み終えた所に栞まで挟んでくれている。こんな事をしてくれるのは間違いなく千尋しか居ない。


 鈴は急いで寝台から下りるとそのまま朝食作りに向かった。朝食の時に千尋に謝ろう。そう思っていたのだが――。


「おい」

「?」

「こっちだ」


 どこからともなく聞こえて来る声に鈴が思わずキョロキョロしていると、階段の上から楽の声がした。


「楽さん! おはようございます。早いですね」


 鈴が何の気無しに挨拶をすると、楽はツカツカと階段を降りてきて階段の中頃で鈴を見下ろして睨んできた。


「お前、どういうつもりだ?」

「え?」

「千尋さまを誘惑して、子供でも作ってまさか龍の都について帰ろうとか思ってんじゃねぇだろうな?」

「ゆ、誘惑!?」


 一体何の話かさっぱり分からなくて鈴が目を白黒させていると、そんな鈴を無視して楽は続けた。


「千尋さまには初さまが居る。二人は誰もが憧れる番なんだ。お前なんかが割り込める隙なんかないんだよ!」

「あの! ちょっと待ってください! 一体何の話をしているのですか? 私は千尋さまをゆ、誘惑した事なんて一度も無いですよ!」


 そもそも鈴如きが誘惑した所で、千尋からしたら小鳥が耳元でピヨピヨ言うぐらいの破壊力しか無いと思うのだが……。


 鈴がそんな事を考えながら楽に言うと、楽は訝しげな顔をして言った。


「じゃあどうしてあんな深夜に千尋さまがお前の部屋から出てくるんだ? 人間はどこまでも浅ましくてその上意地汚いからな。どんなに善良な振りしてたって、千尋さまみたいな才色兼備な資産家が目の前に居たらいつ豹変するか分かんねぇよな。でも残念だな。龍と人間の恋なんてはるか昔に廃れた悪しき文化だ。お前は大人しくこの国を守る生贄になってればいいんだよ!」


 顔を歪ませながらそんな事を言う楽から、ただ鈴を深く傷つけたいのだという意図が読み取れる。


 どうしてここまで嫌われているのか謎だったが、どうやら楽は鈴が千尋に取り入ろうとしていると思っているようだ。


「私は元より楽さんに言われるまでもなくこの国を守るための花嫁としてここへ嫁いで来たのです。その時点で私はこの先子供が持てない事も、残りの寿命が少ない事もちゃんと覚悟しています」

「……え?」


 鈴が言うと、楽の顔から嫌味が抜けた。だからさらに鈴は言う。


「楽さんは知らないのですか? 今までの花嫁は龍の力に耐えきれず、皆とても短命だったという事を」

「し、知らない」

「そうですか。ついでに言うと、龍の花嫁は子供の卵を全て他の方に渡すのだそうです。龍神の力を蓄えた卵が他の母親に宿り、そうして神通力を宿した子が生まれる。つまり、私には一生千尋さまとの子供は持てないのです」

「で、でも、そうしたらお前……何の為に……?」

「ここに嫁いだのか、ですか? それは簡単です。こんな私をここの方たちが受け入れてくれたからです。それに名も無いちっぽけな私でも、国を守るという大役を受ける事が出来るのです。これほど誇らしい事はありません」


 これで楽も満足するだろう。そう思ったのに、何故か楽は顔面蒼白だ。


「そんな! そしたら千尋さまはどうなるんだよ! あんなにお前の事……お前の事……」


 そこまで言って楽はヨロヨロと歩き出した。そんな楽の背中に鈴は声を張り上げる。


「楽さん!」


 鈴の呼び声に楽が顔だけで振り返る。そんな楽の目を真っ直ぐ見つめて言った。


「私は何も後悔していません。これからもしません。あなたに何を言われようとも、私の考えは変わりません。それだけは覚えておいてください。それから……生贄と呼ぶのは止めてください。それは、千尋さまの名誉を汚す言葉です」

「……」


 鈴はそれだけ言ってクルリと踵を返した。最初は楽にきちんと説明をしていつか仲良くなれたら良いと思っていたが、楽が鈴を傷つけたくて仕方ないのだとしたら、鈴のしようとしている事は無駄だ。


 鈴は廊下の曲がり角を曲がって走り出した。千尋には龍の都に番の初がいる。千尋は初と番を解消すると言っていたが、楽の雰囲気を見ていると初の方はそんな事は微塵も考えてなど居ないのではないだろうか。


 どのみち鈴がどれほど千尋を思っても、龍の千尋と添い遂げる事など不可能なのだ。


 それは分かっているのに楽の言葉にどうしてこんなにも胸が痛むのだろう。どうしてこんなにも息苦しくなるのだろう。どうしてこんなにも傷ついたのだろう……。


 鈴はその後、結局なかなか炊事場に向かえなくて裏口の石畳の上に膝を抱えて座り込み、項垂れていた。


「ここに居たのですか、鈴さん。随分探しましたよ」

「! 千尋さま!? どうして……」

「喜兵衛がね、いつまで経っても鈴さんが来ないと私の所に言いに来たのですよ。ほら、あの時の事があるから皆あなたがどこかで倒れてやしないかと心配なのです」

「あ……すみません。私、皆に心配をかけてしまいました……」


 迷惑を極力かけたくないと言いながら、喜兵衛と千尋に心配をかけてしまった。鈴が俯いてポツリと言うと、千尋は鈴の隣に腰掛けて静かにアメイジング・グレイスを歌いだす。


 驚いて千尋を見ると、千尋は少しだけ笑って鈴の頭を撫でながら続きを歌ってくれる。鈴は千尋の声に目を瞑って耳を傾けた。静かで厳かな歌声は、そっと鈴を包み込むように体全体に響き渡る。


「発音、合っていましたか?」

「はい。完璧でした」


 そう言って鈴が微笑むと千尋もほほえみ返してくれる。


「鈴さんが歌ってくれる歌の中で、この歌だけは私に歌ってくれているのだというのが伝わってくるんです。だからすっかり覚えてしまいました。もちろん他の歌も私に聞かせようとしてくれているのは分かるのですが、この歌だけは何故か特別に思うのですよ」

「だって、これは賛美歌……神様に捧げる感謝の歌なんです。私の神様は千尋さまだけだから……」


 そう言って鈴が恥ずかしくて俯くと、そんな鈴の手を千尋がそっと握ってくれた。


「あなたがそう言ってくれるように、私にとってもあなたは光です。こんな所で蹲って何があったのですか?」

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