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雨は先ほどよりも弱くなったが、やはりその温度は氷のように冷たい。そんな中でも、二人はずっと会話を続けていた。
「…でも、それでは無事に港町にたどり着けないかもしれない。どこまで逃げられるかなんて…、分からない」
レオは現実的にそう告げた。確かにその通りだ。相手は反乱軍で、必要とあらば簡単に剣を抜き、冷酷に相手を葬ることができる。そんな人たちを前にただ逃げるだけというのは圧倒的に不利なことだ。それはエリカもよく分かっていた。それでもエリカは静かに微笑んだ。
「その通りですね。…でも、私はどうしてもあなたを失いたくない。天文台にいた頃は何か大切なことなんて何もなかったけど…。そう思ったのは、初めてなんです」
初めて感じた、失いたくないという思い。何かを大切に思う感情。それをくれたのはあなたなのだと、どうしても伝えたかった。しばらくレオは無言のままだったが、やがて雨に掻き消されそうな、そんな微かな声でふと尋ねてきた。
「僕が護衛を続けて君を守り切れなかったとしても…。それでも、君は後悔しないのか?」
「ええ。それでも構いません。…私は、レオさん以外の人が護衛だなんて考えられませんから」
「…!……君はさっき、僕のことを優しいと言ったが、君の方が優しいな。…ありがとう」
それは、さっきまでとはどこか違う、柔らかな言葉だった。何かの決意に満ちている。…と、そこでエリカは不意に気付いた。彼女がずっと、レオのことを抱きしめていたということに。エリカは慌ててレオから離れた。冷静になってから考えてみると、かなり大胆なことをしてしまった。取りあえず、地面に落ちた傘を拾うことにした。既にどちらともずぶぬれになってしまっているが、これ以上濡れてしまったら本当に風邪をひいてしまう。エリカは自分が落とした傘を拾い、
「さて、そろそろ帰りましょうか。かなり時間が経っていますし、さすがにソアラさんが心配する頃です。それに、服が濡れているので乾かさないと…」
と言って、自分の服を見た。今は小雨になっていて、雲の隙間から所々光の筋も見えているが、さっきまで強い雨に当たっていたせいで絞れそうなほどに服が濡れてしまっている。恐らくレオも同じような状況だろう。そう思ってレオの方を向いたエリカは、あることに気付いた。
「レオさん、泣かないでください。レヴェンさんやソアラさんに心配されてしまいますよ?」
「…別に、泣いていないが。……雨のせいでそう見えるだけだろう」
そんなレオにエリカは苦笑し、そっとレオの頬に触れた。レオは驚いたように固まる。
「ここの雨がこんなに温かいわけないじゃないですか。……あ、でも、雨、上がりましたね」
エリカは空を見てつぶやいた。雲も徐々に薄くなってきて、先ほどよりも青空が見えている。少しずつ街に日差しが戻り、道の脇に生えている草木についた雨粒がきらきらと煌めいていた。まるで透き通った水晶のようだ。エリカはあえてレオの少し前を歩いた。その方がいいような、そんな気がしたのだ。だが、ふとレオに「エリカ」と名前を呼ばれ、振り返った。きょとんとした表情でレオを見ると、彼はエリカの手を取った。驚いているエリカに、レオは恭しく一礼した。まるで騎士が忠誠を誓うように。
「僕は騎士として完全ではない。…だが、それでも僕は君を護るために、最善を尽くす」
「……っ!!はい、これからもよろしくお願いしますね!」
二人は並んでレヴェンやソアラが待っているであろう家屋への道を歩いた。雲の切れ間から太陽が姿を現し、雨で濡れた街を輝かせ、温かく照らしていた。
「…何で二人ともそんなに濡れているのよ?傘があったはずなのに、意味ないじゃないの!」
家屋に戻ると、案の定ソアラにそう言われた。既に帰ってきていたレヴェンも一体何があったんだ、とでも言うようにまじまじと二人を見ている。だが、その一部始終を話すのが恥ずかしかったため、エリカは適当にごまかした。まさか、レオに抱きついてその拍子に傘を落としてしまった、なんて言えるわけがない。ソアラは怪しそうな表情で二人を見ていたが、取りあえず二人に着替えて来るように言った。このままでは二人とも風邪をひいてしまうと思ったからだ。ソアラは二人が行った後でつぶやいた。
「一体、本当に何があったのかしら…?でも、あんなに濡れたにしては二人ともどこか吹っ切れたような表情だったのよね…。まあいいわ。いつか聞くことにしましょう」
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木々の陰からエリカとレオの会話の一部始終を聞いていたミナギはため息をついた。人心を読むことが得意なミナギにとって今回の策にはかなり自信があったのだが、結局失敗してしまった。それは彼にとって予想外だった。どうやら、予想以上にエリカとレオの信頼関係が強いようだ。引き離すのは、難しいだろう。いざとなれば無理矢理王女を連れ去っても良いのだが、その場合は彼女の騎士を殺すことになる。そうすれば、きっと彼女は反乱軍を更に恨むことになるだろう。なので、その手段はあまり使いたくない。だが、このままでは自分の主に何と報告すれば良いのか分からないというのも事実だ。困ったことになった、と考えて再びため息をつくと、不意に後ろから誰かに声をかけられた。
「残念でしたね、作戦が失敗して。あなたらしい策略だと思いましたけど」
その声に、ミナギは嫌な予感がした。なぜなら、その声は自分のよく知っている人物であり、できればここにいてほしくない人物でもあるからだ。ミナギは恐る恐る振り返り、その予感が当たってしまったことを心の中で嘆いた。だが、表情には出さず、一応一礼してから尋ねる。
「…どうしてあなたがここにいらっしゃるんですか、イオ様…。あなたが離れたらエトリセリアが大変なことになりますよ。ただでさえ今は混乱しているというのに…」
「ああ、そのことについては全く心配ありませんよ。信頼できる部下たちに全て任せてきたので。それに、当面の課題については既に手を打っておきましたからね」
「そういう問題ではないですよ…。どうしてここにいらっしゃったんですか?」
ミナギはイオの自由奔放なところに少し呆れてそう言った。彼の主は、いつも神出鬼没だ。どこにでもいつの間にかやって来ていて、護衛をひやひやさせる、そんな人物だ。一応、やらなければならないことはしっかりやっているようだが…。イオはミナギの呆れたような口調に苦笑したが、質問には答えず、どこか楽しそうにその目的を言った。
「少し気になることがあったんですよ。なので、実際に検証したくて。…ということで、ミナギ、それを確かめるためにも少し俺に協力して下さいね?」
イオはそう言ってにこりと笑った。だが、その目は笑っていない。どこまでも真剣で、冷たい。彼の命令は、絶対だ。そのことをミナギは誰よりも理解していた。もし、それがどんなに嫌な命令でも……、彼にはそれを遂行するという選択肢しか残されていない。
「…はい。イオ様の、仰せのままに」
ミナギがそう言うと、イオは満足そうに笑い、彼が気になっていることとその検証の内容をミナギに告げた。そうして紡がれた言葉に、ミナギはかなり驚いたが、表面上は何とも思っていないようにうなずいた。そして、そのまま二人の姿は森の奥へと消えていったのだった。
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