06.五年間
公爵領へ戻って三日が経った。
朝食を終えたあと、私は父の執務室へ向かった。王都から持ち帰った書類の確認と、不在の間に届いていた領内からの報告に目を通すためだった。
扉を叩いて中へ入ると、父だけではなくローレンスもいた。
「おはようございます」
「ああ」
「おはようございます」
父は執務机に座り、ローレンスはその向かいで何枚かの書類を広げている。
私も隣の椅子へ腰を下ろした。
「何のお話を?」
「西部の橋だ」
父が一枚の紙をこちらへ寄越した。
先日の増水で、橋脚の一部に損傷が見つかったらしい。すぐに崩れるような状態ではないものの、本格的な雨の季節を迎える前に補修しておきたいという。
「通行は?」
「今のところ問題ない。ただ、補修中は荷馬車を止める必要がある」
「そうなると、市場への影響も考えなければなりませんね」
私は卓上の地図へ目を落とした。
「南の街道へ迂回させるしかないでしょうか。ただ、かなり遠回りになりますね」
「半日ほど余計にかかります」
ローレンスが地図の一角を指した。
「こちらの道も使えますよ」
「村を抜ける道ですか?」
「ええ。ただ、春先はぬかるみやすいようですから、雨が続いた日は避けたほうがいいでしょうね」
それは私も知っている。
けれど、ローレンスの口から出てくるとは思わなかった。
「よくご存じですね」
「去年の補修記録に載っていましたから」
「そこまで読んだのですか?」
「一応は」
ローレンスは何でもないことのように答える。
「でしたら、晴れている間はこちらを使ってもらいましょう。雨が続くようなら南へ回してもらうしかありませんね」
「そうだな」
父が頷いた。
「工事の日程が決まったら、商業組合へは私から知らせます」
「ああ。頼む」
話はそのまま、補修に必要な人員と費用へ移った。
ローレンスが領地の仕事に熱心なのは知っていた。
それでも、実際にこの屋敷で暮らしたのはまだ二か月ほどだ。
私なら実際に通ったことがあるから知っている道のことを、ローレンスは記録を読んだだけで知っている。
それにしては、細かなところまでよく覚えている。
十五歳の頃には、すでに自分の将来について考えていたという。
その頃から領地経営について学んでいたのなら、今これほど早く仕事へ馴染んでいることにも納得がいく。
ローレンスは、ずっと前から準備をしていたのだ。
そう考えながら、私も目の前の仕事へ意識を戻した。
◇
午後になると、ローレンスの兄夫妻が屋敷を訪れた。
王都から侯爵領へ戻った挨拶と、両家の間で取り決めている夏の交易について、父と話す用件があったらしい。
話を終えたあと、せっかくだからとお茶を共にすることになった。
応接室の窓からは春の庭が見える。
白い花をつけた低木の向こうでは、庭師が伸び始めた枝を整えていた。
「王都では随分お忙しかったのでしょう?」
義姉が尋ねる。
「夜会が続いた時期は、それなりに」
「弟は昔からああいう場所が好きですからね」
義兄が言った。
「兄上。人を遊び歩いているように言わないでください」
「違うのか?」
「人付き合いが好きなのですよ」
「似たようなものだろう」
ローレンスは笑っている。
兄弟で話していると、普段より少しだけ口調が軽くなる。
顔立ちはそれほど似ていないと思っていたけれど、こうして並んでいると、笑ったときの目元にはどこか共通するものがあった。
「でも、昔より社交の場へ出ることは増えましたよね」
私が言うと、ローレンスがこちらを見る。
「そうですか?」
「そうでしょう。子供の頃から人付き合いはお好きでしたけれど、今ほどではなかったと思います」
「よく覚えていますね」
「昔から知っているのですから、それくらいは」
そう答えると、義兄が頷いた。
「確かに。十三、四歳くらいからだったかな。急にいろいろなことへ熱心になりまして」
「兄上」
「別に悪口を言っているわけではないだろう」
「社交だけではないのですか?」
「ええ。勉強もですよ。領地経営だの法律だの、父の書庫から本を持ち出しては読んでいました」
「領地経営も?」
「ええ。税制や会計まで。自分は家を継がないのに、何をそんなに勉強しているのかと思ったものです」
私はローレンスを見る。
「十三、四歳の頃から?」
「昔の話ですよ」
「でも、随分早いですね」
「勉強して困るものでもないでしょう?」
「それはそうですけれど」
先日、父から聞いた話を思い出した。
「だから、十五歳の頃にはもう自分の将来を決めていらしたのですか?」
「決めていたというほどではありませんよ」
「でも、父上のところへいらしたのでしょう?」
義兄がこちらを見る。
「十五歳のときの話ですか?」
「ええ」
私は頷いた。
「先日、父上から聞いたのです。ローレンスが十五歳の頃、自分を私の婿候補へ加えてほしいとお願いに来たと」
「ああ」
義兄は納得したように頷いた。
「最初のときですか」
「最初?」
思わず聞き返す。
ローレンスが静かに紅茶のカップを置いた。
「兄上」
「何だ?」
「余計なことは言わなくていいですよ」
「別に隠すようなことでもないだろう」
「何のお話です?」
義兄は少しだけ迷ってから答えた。
「こいつ、そのあとも公爵閣下のところへ行っていたでしょう」
私はローレンスを見る。
「そうなのですか?」
「まあ」
ローレンスは少し居心地が悪そうにカップへ視線を落とした。
「まあ、とは?」
「翌年にも話をしましたよ」
「十六歳のときに?」
「ええ」
てっきり、十五歳のときに一度申し出ただけなのだと思っていた。
「十五歳のときには、まだ早いと断られたのでしょう?」
「そうですね」
「それなのに、翌年も?」
ローレンスはカップの取っ手へ指をかけたまま、こちらを見る。
「一年経っていましたから」
「一年しか、でしょう」
「私にとっては一年も、ですよ」
何でもないことのように答える。
「それで、十六歳のときには?」
「まだ経験が足りないと言われました」
「では、それで諦めたのですか?」
「いいえ」
返事はあまりにも早かった。
私は思わずローレンスの顔を見つめる。
「……まさか、その翌年も?」
「話はしましたね」
「十七歳?」
「ええ」
十五歳、十六歳、そして十七歳。
一度や二度ではなかったらしい。
「三年続けて?」
「結果的には」
義兄が小さく笑った。
「昔から、一度決めるとしつこいんですよ」
「しつこいとは失礼ですね」
「三年も行けば十分しつこいだろう」
「兄上」
「まあ、三年で終わったわけでもないが」
ローレンスの笑顔がわずかに固まった。
「それ以上は結構ですよ」
「別に隠すことでもないだろう」
「私から話すことです」
そう言われると、余計に気になる。
「……三年ではないのですか?」
私が尋ねると、ローレンスは少しだけ間を置いた。
「違います」
「では、十八歳のときにも?」
「ええ」
また一年増えた。
私は半ば呆れながら、次の年を尋ねる。
「十九歳は?」
今度はすぐに答えなかった。
ローレンスは紅茶のカップへ手を伸ばし、一口飲んでから静かに置く。
「その頃には、もう少し具体的な話をしていました」
「十五歳から十九歳まで?」
指折り数えるまでもない。
五年だ。
「……そうなりますね」
「五年も?」
「毎年まったく同じ話をしていたわけではありませんよ」
なぜか言い訳めいた口調になった。
「でも、五年間でしょう?」
「まあ……そうですね」
珍しく、歯切れが悪い。
義兄が可笑しそうに笑った。
「だから言っただろう。しつこいんだ」
「兄上は少し黙っていてください」
「父上は、ずっとお断りになったのですか?」
「そうですね」
ローレンスはそれ以上話すつもりがないのか、紅茶へ手を伸ばした。
「それなのに、何度も?」
ローレンスはすぐには答えず、少しだけ考えるように私を見た。
「断られていたのは、そのときの私ですから」
「そのときの?」
意味が分からず聞き返す。
「翌年には、前年とは違う私になっているでしょう?」
一瞬、言葉に詰まった。
一度断られれば、少なくとも私はそこで引くものだと思っていた。
けれどローレンスにとっては、断られた理由が分かれば、それをなくしてもう一度行けばいいということらしい。
義兄が可笑しそうに笑った。
「そうやって、毎年何かしら増やして公爵閣下のところへ行っていたんですよ」
「兄上」
ローレンスが窘めるように義兄を見る。
けれど、義兄は気にした様子もなかった。
「十五のときは若すぎると言われて、翌年には経験が足りないと言われたんだったか」
「もう十分でしょう」
「それで帰ってきた途端、父上に領地の仕事を手伝わせてほしいと言い出した」
思いがけない話に、私はローレンスを見る。
「領地の仕事を?」
朝、父の執務室で地図を広げていたローレンスの姿が頭に浮かんだ。
「ええ。それまでも勉強はしていましたが、実務となると別ですからね。帳簿を見たり、代官について回ったり。父も最初は不思議がっていましたよ」
私は改めてローレンスを見る。
「公爵家で経験が足りないと言われたからですか?」
「それだけではありませんよ」
「でも、それも理由の一つではあった?」
「否定はしません」
やはり。
十五歳で父に話をして、足りないものを指摘された。
だから、それを補った。
そして翌年、もう一度話をした。
それでも認めてもらえなければ、また一年かけて自分に足りないものを身につける。
「よく諦めませんでしたね」
「諦める理由がありませんでしたから」
「五年もかかったのに?」
「時間がかかることと、諦めることは別でしょう」
穏やかな声だった。
私は何も言えなくなる。
十三、四歳の頃から領地経営や法律を学び、十五歳には自分の将来について父へ話しに来た。
そして認めてもらえなければ、必要な経験を積んだ。
私が思っていた以上に、ずっと早くから動いていたらしい。
「ずいぶん先のことまで考えていたのですね」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
私は呆れ半分で答えた。
「十五歳の頃の私は、自分が二十歳で何をしているかなんて、そこまで具体的に考えていませんでした」
「立場が違いますから」
「立場?」
「兄は侯爵家を継ぎます。私は自分の道を考える必要がありましたから」
「ああ」
それなら分かる。
長男なら、幼い頃から将来はある程度決まっている。
けれど次男であるローレンスは違う。
王宮へ仕える道もあれば、軍へ入る道もある。他家へ婿入りすることだってできる。
だから、早くから自分の将来を考えていたことには納得できた。
ただ、その行き先として、なぜ五年も公爵家にこだわったのかは分からない。
「少し分かりました」
「何がです?」
「あなたが早くから将来のことを考えていた理由です」
「そうですか」
ローレンスはそれ以上尋ねなかった。
◇
義兄夫妻が帰る頃には、日が傾き始めていた。
玄関前まで見送り、馬車が並木道の向こうへ消えていくのを眺める。
屋敷へ戻ろうとしたところで、私は隣を歩くローレンスを見た。
「知りませんでした」
「何をです?」
「五年間も父上と話をしていたことです」
ローレンスは前を向いたまま、わずかに肩をすくめた。
「わざわざ話すようなことでもないでしょう?」
「十分、話すようなことだと思いますけれど」
「そうですか?」
本当にそう思っているらしい。
「そうです」
答えると、ローレンスが少し笑った。
「何です?」
「いえ。昔のことをそこまで聞かれるとは思っていなかったので」
ローレンスは少し可笑しそうにしている。
本人にとっては、五年も父のもとへ通ったことさえ、わざわざ話すほどのことではなかったらしい。
「何度も父上のところへいらしていたと知れば、気になります」
「そういうものですか」
「そういうものです」
私は少し考えてから、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「十三、四歳の頃から領地経営を学んでいたというのも、本当なのですね」
「ええ」
「父上へお願いするより前から?」
「そうですね」
やはり、父に婿候補へ加えてほしいと申し出る前から勉強を始めていたらしい。
「どうしてです?」
ローレンスがこちらを見る。
「兄が家を継ぐことは決まっていましたから」
「それは先ほども聞きました」
「では、答えは同じですよ」
いかにも、それですべて説明がつくという顔だった。
「自分の将来のため?」
「ええ」
次男として自分の道を考える必要があった。それは分かる。
けれど、王宮へ仕える道も、軍へ進む道もあったはずだ。領地経営を学ぶことだけが、将来への備えではない。
「でも、どうして領地経営だったのです?」
ローレンスは少しも困った様子を見せなかった。
「知っていて困るものでもありませんから」
答えになっているようで、なっていない気がする。
やはりこの人は、言いたくないところだけを上手に避ける。
「あなたらしいですね」
「褒めています?」
「一応は」
「一応ですか」
ローレンスが笑う。
庭から花の香りを含んだ風が吹いてきた。
「でも」
私は少しだけ首を傾げる。
「あなたのことを昔から知っているつもりでしたけれど、知らないことも多いのですね」
ローレンスの足が、わずかに緩んだ。
「そうでしょうね」
「否定なさらないのですね」
「何もかも話していたわけではありませんから」
「それはそうですけれど」
幼い頃から何度も顔を合わせてきた。
庭で遊んだことも、一緒に本を読んだこともある。
成長してからも夜会で会えば話をしたし、互いの家を訪ねることもあった。
だから私は、ローレンスのことをよく知っていると思っていた。
誰にでも笑うこと。人の顔と名前をよく覚えていること。
人付き合いが好きなこと。社交の場ではいつも大勢に囲まれていること。
嘘はつかないくせに、言いたくないことは上手にかわすこと。
けれど、それは私から見えていたローレンスに過ぎなかったらしい。
「では、まだ私の知らないことがあるのですか?」
「あるでしょうね」
あっさり認められてしまった。
「例えば?」
「それを言ったら、知らないことではなくなってしまいますよ」
予想していたような答えが返ってくる。
「またそうやって誤魔化す」
「誤魔化してはいません」
「昔からそうです」
ローレンスが笑った。
「それは知っているのでしょう?」
「ええ。よく知っています」
答えてから、少し可笑しくなった。
知っていることもある。知らないこともある。
それだけのことなのかもしれない。
「いつか教えてくださいね」
「何をです?」
「私が知らないことを」
ローレンスが一瞬、こちらを見る。
「全部ですか?」
「全部とは言いません」
「……それなら」
「そんなに知られたくないことがあるのです?」
「誰にでも一つや二つくらいはあるでしょう」
「そういうものですか」
「そういうものですよ」
ローレンスはいつものように笑っている。
けれど、その笑顔の向こうに何があるのか、今の私には分からなかった。
◇
その夜。
自室で本を開いていたものの、昼間の話が何度も頭へ浮かんだ。
十五歳から十九歳まで。五年間。
一度断られても諦めず、自分に足りないものを身につけ、また父のところへ行った。
人付き合いも勉強も仕事も、ローレンスは何でも器用にこなす人だと思っていた。
けれど、その陰でどれほど準備してきたのか、私は知らなかった。
好きな本も、好みの料理も知っている。
機嫌がいいときの笑い方も、言いたくないことを上手にかわす癖も。
それなのに、なぜあれほど早くから公爵家へ入る道を選び、何年も諦めなかったのかは、まだ分からない。
『何もかも話していたわけではありませんから』
昼間の言葉を思い返す。
当然のことなのだろう。
それでも、その「話していないこと」が、以前より少し気になるようになっていた。




