05.帰る場所
王都を発ったのは、よく晴れた朝だった。
春の社交期も終わりに近づき、各地から集まっていた貴族たちも、少しずつそれぞれの領地へ戻り始めている。
私たちも同じだった。
結婚してから二か月ほどを公爵領で過ごし、社交期に合わせて王都へ出てきてから約ひと月。
久しぶりというほどではない。それでも、王都の屋敷を出る朝には、ようやく帰れるという気持ちがあった。
荷物を積んだ馬車が先に出発し、護衛の騎士たちが馬上で列を整えている。
父は先頭に近い馬車へ乗り、私はローレンスと同じ馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、やがて馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外を流れていく王都の街並みを眺めながら、私は膝の上の書類を鞄へしまった。
西部街道について、王都で調べたことをまとめたものだ。昨夜までにひととおり整理したので、あとは領地へ戻って実際の道を確認し、それを加えて父へ提出すればいい。
向かいでは、ローレンスも書類を取り出していた。
「あなたもお仕事ですか?」
「少しだけ」
「馬車の中でまで?」
「領地へ着いてから楽をするためですよ」
「私は昨日のうちに終わらせましたよ」
「それは見習わなければいけませんね」
ローレンスが開いたのは、数日前に公爵領から届いた報告書だった。
農地の作付けについての報告。春先に増水した川の護岸について。領都の倉庫の修繕。
どうやら、移動中にも目を通しておくつもりらしい。
紙面へ視線を落とす横顔を、私は何となく眺めた。
結婚してまだ三か月だというのに、随分前からこの家にいたように仕事をしている。
父もそれを当然のように受け入れているし、領地の役人たちから届く手紙にも、最近ではローレンスの名前が書かれることが増えた。
先日、父の書斎で聞いた話を思い出す。
十五歳の頃には、すでに自分の将来について考えていたという。
そういう人なら、婿入りした先の仕事へ早く馴染もうとするのも不思議ではないのかもしれない。
「……何です?」
声をかけられ、我に返った。
「何がです?」
「先ほどから私を見ていらっしゃるので」
どうやら、思っていたより長く眺めていたらしい。
「見ていません」
「見ていましたよ」
「考え事をしていただけです」
ローレンスがわずかに眉を上げる。
「私を見ながら?」
「たまたまです」
「そうですか」
少しだけ納得していないようにも見えたけれど、ローレンスはそれ以上追及せず、また書類へ目を落とした。
私は窓の外を見る。
王都の建物はすでに少なくなり、街道の両側には若葉をつけた木々が並び始めていた。
しばらくして、私はもう一度ローレンスを見る。
「また見ていますね」
「……今度は見ています」
ローレンスが顔を上げた。
「何でしょう」
「領地へ戻るのは楽しみですか?」
「ええ」
迷いのない返事だった。
「そうなのですね」
「意外ですか?」
「少しだけ。王都がお好きなのだと思っていました」
ローレンスは書類から顔を上げたまま、少し考えるようにこちらを見る。
「嫌いではありませんよ」
「お知り合いも多いですし」
「ええ」
「夜会もお好きでしょう?」
「それなりには」
何を聞いても否定しない。
それなら、なおさら王都を離れるのを惜しむものだと思っていた。
「それでも、領地へ戻るほうが楽しみなのですか?」
「そうですね」
ローレンスは少しだけ窓の外へ目を向けた。
「今は、あちらのほうが帰る場所という感じがしますから」
思っていなかった答えに、私は目を瞬いた。
「まだ三か月ですよ」
「三か月も、でしょう」
「王都では長く暮らしていらしたのに」
ローレンスは小さく笑った。
「長く住んだ場所が、いつまでも帰る場所とは限りませんよ」
ローレンスはそう言うと、また報告書へ目を落とした。
帰る場所。
その言葉を心の中で繰り返す。
ローレンスにとって、もう公爵家はそういう場所になっているらしい。
婿入りした本人がそう思っているのなら、悪いことではない。
むしろ、よかったと思った。
◇
旅は順調に進んだ。
昼を過ぎた頃には王都周辺の人家も減り、窓の外には緩やかな丘陵が広がっていた。
馬車の揺れにも慣れ、ローレンスとの会話も途切れる。
彼は書類を読み終えると、本を開いていた。
私は窓の外を眺めていたはずだった。
けれど、前夜は帰領の準備で寝るのが遅くなった。
規則正しい馬車の揺れに、少しずつ瞼が重くなる。
少しくらいなら。
そう思ったところまでは覚えている。
次に目を開けたとき、視界にあったのは窓ではなかった。
濃い色の上着。
それから、見慣れた男性の手。
「……」
何が起きているのか分からず、ゆっくり顔を上げる。
ローレンスと目が合った。
「起きましたか」
私は自分の姿勢を確認した。
いつの間にか隣に座っているローレンスの肩へ、すっかり頭を預けていた。
「……申し訳ありません」
身体を起こす。
「なぜ謝るのです?」
「ずっとこのままだったのでしょう?」
「そうですね」
ローレンスは何でもないことのように答える。
「起こしてください」
「よく眠っていらしたので」
「いつからです?」
少し嫌な予感がした。
「一時間半ほどでしょうか」
「そんなに?」
思わず窓の外を見る。
眠る前に見えていた丘はもうなく、景色はすっかり変わっていた。
「肩は大丈夫ですか?」
「ええ」
そう答えながら、ローレンスが右腕を軽く動かす。
その動きがわずかにぎこちない。
「……痺れているのでは?」
「少しだけです」
やっぱり。
「起こしてくださればよかったのに」
「眠っている方を起こすほどでもないでしょう」
「一時間半も肩を貸しておいてですか?」
「途中で動けば、起こしてしまいそうでしたので」
それならなおさら申し訳ない。
「すみません」
「ですから、謝らなくて結構ですよ」
ローレンスは気にした様子もなく、本を手に取り直した。
私は向かいの席へ戻った。
「もう眠らないようにします」
「無理をするほどでもないでしょう」
「次は窓側に寄りかかります」
「首を痛めますよ」
「では、眠らないようにします」
「それが一番ですね」
ローレンスは再び本を開いた。
私も窓の外へ視線を戻す。
一時間半も、私を起こさないように動かずにいてくれたらしい。
本人は気にしていないようだけれど、やはり少し申し訳なかった。
◇
夕方になる前に、その日の宿泊地へ到着した。
街道沿いの小さな町だった。
公爵家が所有する別邸は近くにないため、今夜は町で最も大きな宿を借り上げている。
先に到着していた使用人たちが部屋を整え、護衛たちは宿の周囲を確認していた。
「奥様はこちらのお部屋を。ローレンス様は隣のお部屋をご用意しております」
従僕に案内され、それぞれの部屋を確認する。
これまでの旅と同じだった。
「では、夕食のときに」
ローレンスが言う。
「ええ」
「少しお休みになります?」
「昼間あれだけ眠ったのに?」
ローレンスは思い出したように笑った。
「それもそうですね」
「あなたこそ、肩を休ませてください」
今度は可笑しそうに笑われた。
「まだ気にしていらしたのですか」
「私のせいでしょう」
「もう何ともありませんよ」
そう言って、確かめさせるように肩を軽く回してみせる。
「ならいいですけれど」
ローレンスは隣の部屋へ入り、私も自分の部屋へ入った。
侍女たちが荷物を解いている間に、窓辺へ寄る。
王都とは違う、小さな町並みが見えた。
領地までは、あと数日。
長い旅ではない。
それでも、早く戻りたいと思った。
◇
夕食を終えたあとも、なかなか眠る気になれなかった。
昼間眠ってしまったせいだろう。
侍女を休ませ、一人で本を読んでいたものの、しばらくするとそれにも飽きた。
部屋を出る。
宿の二階には、小さな共用の居間が用意されていた。
暖炉にはまだ火が残っている。
そこに人影があった。
「まだ起きていらしたのですか?」
ローレンスだった。
上着を脱ぎ、昼間より少し寛いだ格好で長椅子に座っている。手には本があった。
「あなたこそ」
「眠くないので」
「私もです。昼間眠ってしまいましたから」
「よく眠っていましたね」
「それはもう言わなくて結構です」
ローレンスが笑った。
「座ります?」
「ええ」
少し間を空けて腰を下ろす。
暖炉の薪が小さく爆ぜた。
昼間とは違い、宿の中は静かだった。
しばらく互いに本を読んでいた。
暖炉の火が揺れ、頁をめくる音だけが時折響く。
不思議と気まずくはない。
結婚する前にも二人きりで話したことはあったけれど、こうして何も話さず同じ場所で過ごすことは、ほとんどなかった。
夫婦になってから増えたことの一つかもしれない。
私は本から顔を上げた。
「領地へ戻ったら、まず何をなさるのです?」
「先ほどの報告書について、お父上と話すことになるでしょうね。アメリアは?」
「私は西部街道を見に行くつもりです。王都で調べた記録と、今の状態を比べたいので」
「では、私も同行しましょうか」
「あなたは倉庫を見に行くのでしょう?」
「ええ」
「でしたら、そちらをお願いします。街道は私が見てきますから」
ローレンスは少しだけ残念そうな顔をした。
倉庫より街道のほうが気になったのだろうか。
「分かりました」
「それにしても、ずいぶん予定がありますね」
「帰ってから楽をするために馬車で仕事をしたはずなのですが」
本人も少し不思議そうに首を傾げる。
「結局、増えていますね」
「おかしいですね」
ローレンスが可笑しそうに笑う。
私もつられて口元を緩めた。
「すっかり公爵家の仕事をなさっていますね」
「婿入りしたのですから」
「それはそうですけれど。もっと慣れるまで時間がかかるものだと思っていました」
ローレンスは少し考えた。
「多少は違いますよ」
「侯爵家とも王都とも?」
「ええ。以前より、自分で判断しなければならないことが増えました」
その言葉に、少し納得する。
侯爵家にいた頃のローレンスは次男だった。今は父とともに領政へ関わり、いずれ私が家を継げば、その立場もさらに重くなる。
「大変ではありませんか?」
ローレンスはすぐに首を横に振った。
「むしろ、そのほうが性に合っています」
「本当に?」
「本当に」
あまりにも当然のように言うので、少し可笑しくなる。
「後悔も?」
何気なく尋ねたつもりだった。
けれど、ローレンスは一度こちらを見てから答えた。
「婿入りしたことをですか?」
「ええ」
念を押すように確認され、私は小さく頷く。
「ありませんね」
返事は早かった。
「即答なのですね」
「今のところ、後悔する理由がありませんから」
ローレンスはそう言って、膝の上の本へ指を添えた。
「そうですか」
「安心しました?」
思いがけず問い返されて、私は少し考える。
「それはそうでしょう。これから長く暮らす家なのですから」
「それもそうですね」
ローレンスは納得したように頷いた。
「嫌々暮らしていただくのも困りますし」
「その心配はありませんよ」
今度の返事にも迷いはなかった。
「ならよかったです」
素直にそう思った。
ローレンスが公爵家での暮らしを負担に感じていないのなら、それに越したことはない。
「アメリアはどうです?」
今度はローレンスのほうから尋ねられた。
「何がです?」
「私がこちらへ来てからです。以前とは生活も変わったでしょう」
すぐには答えず、結婚してからの日々を思い返した。
父と二人だった朝食の席には、今はローレンスがいる。
執務室へ行けば、父と領地について話していることもある。
外出するときにも隣にいることが増えた。
けれど、それを窮屈だと思ったことはない。
「思っていたほどではありません」
ローレンスが少し首を傾げる。
「何がです?」
「生活が変わった感じが、です」
今度は何とも言えない顔をされた。
「それは喜んでいいのでしょうか」
「褒めたつもりなのですが」
「そうなのですか?」
どうしてそこで疑われるのだろう。
「あなたがすぐに馴染んだからでしょう。使用人たちも以前と同じですし、父上も普通に仕事を頼んでいますし」
「なるほど」
ようやく納得したらしく、ローレンスが少し笑った。
「では、褒め言葉として受け取っておきます」
「そうしてください」
また会話が途切れた。
私は本を開き直す。
結婚すれば、これまでの日常はいったん形を変えるものだと思っていた。
けれど実際には、何かが大きく変わったというより、これまでの日常の中にローレンスが自然と加わっていったように思う。
もちろん、以前とまったく同じではない。
食卓には一人増えたし、出かけるときには隣にいることが多くなった。
父と話しているローレンスを見ることも増えた。
それでも、その変化を不自然に感じたことはほとんどない。
「そろそろ休みましょうか」
ローレンスが本を閉じた。
「そうですね」
私も立ち上がる。
二人で廊下へ出ると、すぐにそれぞれの部屋の前へ着いた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ローレンスが隣の扉へ向かう。
私も自分の部屋へ入った。
寝台へ入ってから、先ほどの会話を思い出す。
結婚して三か月。
まだ短い。
けれど、ローレンスが公爵家にいることを、私はもうそれほど不思議には思わなくなっているらしい。
そのことに気づいて、少しだけ意外だった。
◇
それから数日。
馬車は公爵領へ入った。
見慣れた風景が少しずつ増えていく。
街道沿いを流れる川。
春の畑。遠くに見える森。
夕方近くになって、丘の向こうに本邸の屋根が見えた。
「見えてきました」
思わず口にする。
ローレンスも窓の外を見た。
「ええ」
「帰ってきましたね」
ローレンスはしばらく屋敷を眺めていた。
「そうですね」
その声は穏やかだった。
王都を発った朝、ローレンスは公爵領を「帰る場所」だと言った。
まだ、ここで暮らし始めてそれほど経っていない。
それでも、もう彼にとっては帰る場所らしい。
考えてみれば、私も王都にいる間、この屋敷へ戻ることをずっと「帰る」と考えていた。
生まれ育った家なのだから、それは当然だ。
ただ。
以前までと違うことが一つある。
今はそこに、ローレンスも暮らしている。
馬車は丘を下り、本邸へ続く道へ入っていく。
門が近づき、出迎えの使用人たちの姿が見え始めた。
私は隣に座るローレンスへ一度だけ目を向けた。
彼もまた、近づいてくる屋敷を眺めている。
それから私も、同じほうへ視線を戻した。




