19.思い出
ローレンスと想いが通じ合ってから、十日ほどが経った。
その日の夕方も、私はローレンスの部屋を訪れていた。仕事を終えてから夕食までの、ほんの短い時間である。
窓の外では日が傾き、庭園を囲む木々の影が長く伸びている。開け放たれた窓から入る風が薄いカーテンを静かに揺らし、時折、庭から葉擦れの音を運んできた。
私たちは長椅子へ並んで座り、それぞれ本を読んでいた。
ローレンスが隣にいることにも、少しずつ慣れてきた。以前なら、本を読むときは一人のほうが落ち着くと思っていた。それなのに最近は、隣から時折聞こえる頁をめくる音が心地いい。
会話をしなくても、隣にいるだけで満足できる。
ローレンスもそう思ってくれているなら嬉しい。
頁をめくり、しばらく読み進める。
けれど、ふと先日のことを思い出した。
ローレンスの机の引き出しにしまわれている、小さな木箱。
失くしたくないものを入れているのだと、ローレンスは言っていた。中身を見せてもらったことはないし、以前尋ねたときには、私には特に見せられないとも言われた。
きっと、長年想い続けていた人に関係するものなのだろう。
もう気にしないと決めた。
ローレンスが今好きなのは私だ。あの箱の中にどんな思い出が入っていたとしても、過去まで捨ててほしいとは思わない。
そう思っている。
思っているのだけれど、視線はいつの間にか本の文字から離れていた。
「……ローレンス」
「はい?」
「少し聞いてもいいです?」
「もちろん」
「あの箱のことなのですけれど」
隣で頁をめくっていた手が止まった。
「あの箱?」
「机の引き出しに入れているものです」
「ああ。まだ気になっていたのですか?」
「少しだけです」
「少し?」
「……もう少し気になっています」
正直に認めると、ローレンスの口元がわずかに緩んだ。
何となく面白くない。
「仕方ないでしょう」
「何がです?」
「あなたが長年好きだった方との思い出なのですから」
その瞬間、ローレンスの笑みが消えた。
頁を押さえていた指まで止まり、しばらく何も言わない。
「……何ですって?」
「ですから、あの箱です。あの方との思い出が入っているのでしょう?」
ローレンスは私を見た。
今度は先ほどまでとは違う、何かを確かめるような目だった。
それから机の引き出しへ視線をやり、また私を見る。
「その方、とは?」
「あなたの想い人です」
そこで、ローレンスは完全に黙った。
目を伏せたまま、片手で口元を覆う。
すぐに何か返ってくると思っていたのに、そのまま長い沈黙が続いた。
「ローレンス?」
呼びかけても、すぐにはこちらを見ない。
「少し待ってください」
「何です?」
「……今、いろいろつながったので」
「何がです?」
ローレンスは答えず、眉間へ指を当てた。
困っているようにも見えるし、笑いそうなのを堪えているようにも見える。
「……大丈夫です?」
「ええ」
そう答えたあと、ローレンスは一度だけ深く息を吐いた。
「ただ、先日のことを思い返していました」
「先日のこと?」
「あの箱を見てから、妙に機嫌が悪くなったでしょう」
ローレンスは私の顔を確かめるように見つめた。
何を思い出しているのか、その目が少しずつ可笑しそうに細められていく。
「悪くなっていません」
「そうですか?」
「少し気になっただけです」
否定すると、ローレンスの目元がわずかに和らいだ。
「私が昔好きだった人との思い出だと思っていたから?」
「……そうですけれど」
言い当てられてしまい、少し居心地が悪くなる。
ローレンスはしばらく私を見つめていた。
先ほどまで戸惑っていたはずなのに、今度はどこか嬉しそうに口元が緩んでいく。
「何です?」
「いえ」
「笑っています?」
「少しだけ」
「どうしてです?」
ローレンスは答えようとして、また口元を覆った。
「すみません」
「だから、何がおかしいのです?」
「あなたではありませんよ」
「では、何です?」
「……いえ。今はまだ」
そう言いながら、ローレンスは明らかに笑っている。
何がおかしいのか分からない私には、面白くない。
「もう帰ります」
「待ってください」
「嫌です」
「すみませんでした」
立ち上がろうとしたところで手を取られた。
振りほどこうとすると、ローレンスが今度こそ笑いを収める。
「では、見ます?」
「……何を?」
ローレンスが机のほうを見る。
「あの箱です」
思わず動きを止めた。
「いいのです?」
「ええ」
「以前は見せられないと言っていたでしょう」
「そのつもりでした」
「では、どうして?」
「これ以上、私には覚えのない女性に嫉妬されても困るので」
「……覚えがない?」
思わず聞き返したけれど、ローレンスは答えなかった。
「見れば分かります」
意味が分からないまま見ていると、ローレンスは立ち上がって机へ向かった。
引き出しを開け、書類の奥から小さな木箱を取り出す。以前、一瞬だけ見たものと同じ、飾り気のない箱だった。
さらに引き出しの奥から鍵を取り出し、私のところへ戻ってくる。
卓の上へ木箱が置かれた。
いざ見せてもらえるとなると、少し怖い。
長年ローレンスが好きだった人は、どんな女性だったのだろう。
手紙が入っているかもしれない。肖像画があったらどうしよう。
今は私を好きだと言ってくれた。それは分かっている。
それでも、ローレンスが長い間大切にしてきたものを見るのは、思っていた以上に緊張した。
「……やっぱり、見なくてもいいですよ」
「どうして?」
「ローレンスの大切なものでしょう」
「ええ」
「なら、無理に見せなくても」
「見てください」
珍しく、ローレンスが言い切った。
「本当は見せるつもりはありませんでしたけれど、今は見せないほうが困るので」
「何が困るのです?」
「それも、見れば分かります」
ローレンスが鍵を差し込む。
小さな音がして、蓋が開いた。
私は恐る恐る箱の中を覗き込んだ。
古い手紙。小さな布包み。押し花。
いくつかの小さな品が、丁寧に収められている。
どれも随分古そうだった。
これが、その人との思い出。
そう思うと胸の奥が少しだけ痛んだけれど、ローレンスに促され、一番上にあった布包みを手に取った。
紐をほどくと、中から細長い布が出てくる。
栞だった。
白かったはずの布は年月を経てわずかに黄ばみ、端には青い糸で小さな花が刺繍されている。
あまり上手ではない。
花びらの大きさは揃っていないし、一枚だけ妙に長い。
「……あれ?」
どこかで見たことがある。
指先で刺繍をなぞった途端、随分昔の記憶が浮かんだ。
刺繍の練習を始めたばかりの頃、細長い布へ小さな花を縫ったことがあった。出来上がった栞を眺めていたとき、ちょうど我が家を訪れていたローレンスに声をかけられた。
何を作っているのかと聞かれて、栞だと答えた。
それから――。
「……使います?」
記憶の中の言葉が、そのまま口から漏れた。
ローレンスが私を見る。
「覚えていたのですか?」
「今、思い出しました」
私は手元の栞とローレンスを交互に見た。
「これ、私が作ったものですよね」
「ええ」
「ローレンスに渡した?」
「はい」
記憶が少しずつ戻ってくる。
私にとっては、刺繍の練習で作った栞の一つにすぎなかった。自分で使うほど気に入ってもいなくて、ちょうどそこにいたローレンスへ、使うかと聞いただけだった。
「……まだ持っていたのです?」
「ええ」
「何年前です?」
「十二年ほど前ですね」
「十二年……」
もう一度、栞を見る。
端は少し傷んでいた。実際に使っていたのだろう。
けれど、歪んだ青い花は今もきれいに残っている。
「こんなに下手なのに」
「そうですか?」
「花びらが揃っていないでしょう」
「知っています」
「一枚だけ長いですし」
「それも知っています」
「捨てようとは思わなかったのです?」
「一度も」
迷いのない返事だった。
私はしばらく栞を見つめた。
十二年前、何気なく渡したもの。私は渡したことすら忘れていたのに、この人はずっと持っていた。
「……どうして、これがこの箱に?」
「あなたにもらったものだからです」
「でも……」
言いかけて止まる。
何かがおかしい。
栞を布の上へ戻し、今度は古い手紙を手に取った。
見覚えのある筆跡だった。
「……これも私です」
「ええ」
内容を読んで、さらに驚いた。
ローレンスが体調を崩したと聞いて、見舞いの言葉を書いたものだった。そんな手紙を書いたことすら、私はすっかり忘れている。
「いつのです?」
「十四歳の冬ですね」
「覚えているのです?」
「ええ」
次は押し花だった。
「これは?」
「あなたからです」
「いつ?」
「十五歳の春です。庭で摘んだものをくれました」
「覚えていません」
「そうでしょうね」
次に手に取ったのは、丁寧に畳まれた小さなハンカチだった。
端に刺繍された花には、さすがに覚えがある。婚約して間もない頃、ローレンスへ贈ったものだ。
「……これも」
「ええ」
箱の中に収められていたものを見渡して、ようやく気づく。
どれも、私に関係するものだった。
知らない女性からの手紙などない。肖像画もない。見覚えのない贈り物もない。
「……全部?」
ローレンスを見る。
「はい」
「全部、私に関係するものです?」
「ええ」
頭が追いつかない。
木箱から目を上げ、何となく部屋の中を見回した。
書棚には、私が以前贈った本がある。机の上には、婚約してから私が選んだ小物も置かれていた。
今まで何度も入った部屋なのに、急に見え方が変わった。
「……もしかして」
「はい?」
「私が贈ったもの、ずっと残しているのです?」
ローレンスが少し黙った。
「残せるものは」
「全部?」
「……残せるものは」
「二回言わなくても聞こえています」
「なら、聞かないでください」
珍しくローレンスが目を逸らした。
私はもう一度、木箱へ視線を落とす。
十二年前の栞。昔の手紙。押し花。婚約してから渡した小物。
それだけではない。
十二歳の頃に私が読んでいた本を知っていた。
十三歳の頃のことも覚えていた。
好きな花も、好きな季節も、好みの菓子も知っている。
そして、十三歳の頃から領地経営について学び始め、十五歳で父上へ初めて婿入りの話をしに来た。
あの頃から、ローレンスは私との結婚を考えていた。
それなのに、ローレンスには別に長年好きな人がいるのだと、私はずっと思っていた。
私はゆっくりと顔を上げた。
「……ローレンス」
「はい」
「長年好きだった人って、誰です?」
ローレンスが黙った。
さっきまで私を笑っていたのに、急にこちらを見なくなる。
「ローレンス?」
「……」
「私?」
返事がない。
けれど、その沈黙だけで、ほとんど答えは分かってしまった。
「私なのです?」
「……ええ」
小さな返事だった。
私はしばらく動けなかった。
「いつから?」
「それは言いたくありません」
「どうして?」
「引かれそうなので」
私は木箱を見る。
「もう十分だと思います」
「ですから見せたくなかったのです」
ローレンスが片手で額を押さえた。
こんなに居心地が悪そうなローレンスを見るのは初めてだった。
けれど、私はそれどころではない。
頭の中に、これまでの自分が次々と浮かんでくる。
ローレンスには長年の想い人がいると思った。
その人より私を好きになってもらおうと決めた。
ローレンスの好みを知ろうとした。二人で過ごす時間を増やした。少しでも私を女性として見てもらおうと、自分から手をつないだこともある。
そして、ローレンスも私を好きだと言ってくれたとき。
私は、長年想い続けてきたその人より、自分を選んでもらえたのだと思った。
「……待ってください」
「何です?」
「私、ものすごく恥ずかしいことをしていたのでは?」
ローレンスが少しだけ眉を上げる。
「何のことです?」
「私、あなたの長年の想い人に勝とうとしていたのです」
「……そうなのですか?」
「その人より私を好きになってもらおうと思って、ローレンスの好みを聞いたり、二人で出かけたりして」
そこまで話したところで、ローレンスの表情が変わった。
今度はローレンスのほうが、何かに気づいたらしい。
「……もしかして」
「何です?」
「最近、急に私との距離を縮めてきたのは」
「言わないでください」
「本を贈ってくださったのも?」
「言わないでと」
「自分から手をつないでくださったのも?」
「ローレンス!」
頬が熱い。
全部覚えている。
ローレンスはしばらく私を見つめ、それから木箱へ目を落とした。
「つまり、あなたは――」
「言わなくていいです」
「自分に嫉妬していたのです?」
「……」
答えたくない。
「自分より好きになってもらおうとして?」
「……」
「私を自分から奪おうとしていた?」
「もう黙ってください!」
ローレンスが口元を覆った。
肩が揺れている。
「笑っています!」
「すみません」
「ひどいです!」
「いえ、本当に。馬鹿にしているわけではありません」
「では何です?」
ローレンスはしばらく答えられなかった。
ようやく笑いを収めると、私を見る。
「嬉しかっただけです」
「何がです?」
「あなたが、それほど私を欲しいと思ってくれていたことが」
何も言えなくなった。
怒っていたはずなのに、そういうことを急に言うのはずるい。
「……知りません」
顔を逸らすと、ローレンスが私の手を取った。
指が絡む。
しばらくそのままでいると、ローレンスが木箱へ視線を落とした。
「だから、見せたくなかったのです」
「これを?」
「ええ」
「どうして?」
ローレンスの声から、さっきまでの笑いが消えた。
「重いでしょう。こんな昔のものまで取っておいて、あなた自身が覚えていないものまで」
古い栞へ触れながら、ローレンスは少し目を伏せる。
「知られたら、気味悪がられると思っていました」
私はローレンスを見る。
いつもの余裕がなかった。
本当に、そう思っていたのだろう。
だから、すぐには答えなかった。
箱の中を見る。
十二年前の栞。短い手紙。押し花。何気なく渡した小さなもの。
私にとっては忘れてしまうほど些細なものを、この人はずっと大切にしていた。
正直に言えば。
「……重いですね」
絡んでいたローレンスの指から、わずかに力が抜けた。
「やはり」
短い返事だった。
ローレンスは目を伏せ、木箱の中へ視線を落とす。
ほんの少し前まで私を笑っていた人とは思えないほど、その横顔には余裕がなかった。
「でも」
私は古い栞を手に取った。
少し歪んだ青い花。
自分でも忘れていたものを、この人は十二年間持っていてくれた。
栞を丁寧に布へ包み直し、箱へ戻す。
「嫌ではありません」
ローレンスが顔を上げた。
「本当に?」
「ええ」
「無理をしていません?」
「していません」
まだ不安が消えないのか、ローレンスは私の顔をじっと見ている。
「でも、重いとは」
「重いものは重いです」
「……そうですか」
「でも、嬉しいです」
ローレンスが黙った。
すぐにはいつものように笑わなかった。
私の言葉が本当なのか確かめるように、しばらくこちらを見ている。
私は自分から、その手を握った。
「少しだけですけれど」
「少しだけ?」
「これまで散々、知らない女性に嫉妬させられましたから」
すると、ようやくローレンスの表情が少し緩んだ。
「私のせいです?」
「ローレンスのせいです」
「私は一度も、別の女性がいるとは言っていませんよ」
「言わなかったからでしょう」
ローレンスがまた笑う。
私はその肩を軽く叩いた。
「それに、私には特に見せられないなんて言うから」
「あなたに関係するものしか入っていませんからね」
「それを知らなかったのです」
言い返すと、ローレンスはますます可笑しそうな顔をした。
「そうですね」
「やっぱりローレンスのせいです」
「では、そういうことにしておきます」
「何です、その言い方」
また笑っている。
腹が立つのに、私まで少し笑ってしまった。
それから、もう一度部屋を見回した。
書棚の本。
机の上の小物。
木箱の中の、私自身も忘れていたもの。
今まで何度も見てきた部屋だった。
でも、今日初めて気づいた。
私は知らなかっただけで、ずっとこの部屋のあちこちにいた。
ローレンスの隣へ身体を寄せると、すぐに腕が回ってくる。
その胸へ頬を預けながら、開いたままの木箱を眺めた。
私はずっと、ローレンスの想い人に勝ちたいと思っていた。
その人より好きになってもらいたくて、私なりにずいぶん頑張ったつもりだった。
けれど、その相手は最初から私だったらしい。
「……何だか、また恥ずかしくなってきました」
「どうしてです?」
「あんなに必死になる必要なんて、最初からなかったのですね」
「私は嬉しかったですよ」
「ローレンスは黙っていてください」
「はい」
素直に返事をしたくせに、胸元から小さな笑い声が聞こえた。
「また笑っています?」
「少しだけ」
「もう」
その胸を軽く叩く。
けれど、離れようとは思わなかった。
ローレンスの腕も、私を離さない。
私はずっと、知らない誰かからローレンスを奪おうとしていた。
その知らない誰かが、自分だったなんて。
こんなことなら、もう少し早く気づきたかった。
そう思いながら、私はもう一度、十二年前の栞へ目を向けた。




