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19/20

19.思い出

 ローレンスと想いが通じ合ってから、十日ほどが経った。


 その日の夕方も、私はローレンスの部屋を訪れていた。仕事を終えてから夕食までの、ほんの短い時間である。


 窓の外では日が傾き、庭園を囲む木々の影が長く伸びている。開け放たれた窓から入る風が薄いカーテンを静かに揺らし、時折、庭から葉擦れの音を運んできた。


 私たちは長椅子へ並んで座り、それぞれ本を読んでいた。


 ローレンスが隣にいることにも、少しずつ慣れてきた。以前なら、本を読むときは一人のほうが落ち着くと思っていた。それなのに最近は、隣から時折聞こえる頁をめくる音が心地いい。


 会話をしなくても、隣にいるだけで満足できる。

 ローレンスもそう思ってくれているなら嬉しい。


 頁をめくり、しばらく読み進める。


 けれど、ふと先日のことを思い出した。


 ローレンスの机の引き出しにしまわれている、小さな木箱。


 失くしたくないものを入れているのだと、ローレンスは言っていた。中身を見せてもらったことはないし、以前尋ねたときには、私には特に見せられないとも言われた。


 きっと、長年想い続けていた人に関係するものなのだろう。


 もう気にしないと決めた。

 ローレンスが今好きなのは私だ。あの箱の中にどんな思い出が入っていたとしても、過去まで捨ててほしいとは思わない。


 そう思っている。


 思っているのだけれど、視線はいつの間にか本の文字から離れていた。


「……ローレンス」

「はい?」

「少し聞いてもいいです?」

「もちろん」

「あの箱のことなのですけれど」


 隣で頁をめくっていた手が止まった。


「あの箱?」

「机の引き出しに入れているものです」

「ああ。まだ気になっていたのですか?」

「少しだけです」

「少し?」

「……もう少し気になっています」


 正直に認めると、ローレンスの口元がわずかに緩んだ。

 何となく面白くない。


「仕方ないでしょう」

「何がです?」

「あなたが長年好きだった方との思い出なのですから」


 その瞬間、ローレンスの笑みが消えた。

 頁を押さえていた指まで止まり、しばらく何も言わない。


「……何ですって?」

「ですから、あの箱です。あの方との思い出が入っているのでしょう?」


 ローレンスは私を見た。

 今度は先ほどまでとは違う、何かを確かめるような目だった。

 それから机の引き出しへ視線をやり、また私を見る。


「その方、とは?」

「あなたの想い人です」


 そこで、ローレンスは完全に黙った。

 目を伏せたまま、片手で口元を覆う。

 すぐに何か返ってくると思っていたのに、そのまま長い沈黙が続いた。


「ローレンス?」


 呼びかけても、すぐにはこちらを見ない。


「少し待ってください」

「何です?」

「……今、いろいろつながったので」

「何がです?」


 ローレンスは答えず、眉間へ指を当てた。

 困っているようにも見えるし、笑いそうなのを堪えているようにも見える。


「……大丈夫です?」

「ええ」


 そう答えたあと、ローレンスは一度だけ深く息を吐いた。


「ただ、先日のことを思い返していました」

「先日のこと?」

「あの箱を見てから、妙に機嫌が悪くなったでしょう」


 ローレンスは私の顔を確かめるように見つめた。

 何を思い出しているのか、その目が少しずつ可笑しそうに細められていく。


「悪くなっていません」

「そうですか?」

「少し気になっただけです」


 否定すると、ローレンスの目元がわずかに和らいだ。


「私が昔好きだった人との思い出だと思っていたから?」

「……そうですけれど」


 言い当てられてしまい、少し居心地が悪くなる。


 ローレンスはしばらく私を見つめていた。

 先ほどまで戸惑っていたはずなのに、今度はどこか嬉しそうに口元が緩んでいく。


「何です?」

「いえ」

「笑っています?」

「少しだけ」

「どうしてです?」


 ローレンスは答えようとして、また口元を覆った。


「すみません」

「だから、何がおかしいのです?」

「あなたではありませんよ」

「では、何です?」

「……いえ。今はまだ」


 そう言いながら、ローレンスは明らかに笑っている。

 何がおかしいのか分からない私には、面白くない。


「もう帰ります」

「待ってください」

「嫌です」

「すみませんでした」


 立ち上がろうとしたところで手を取られた。

 振りほどこうとすると、ローレンスが今度こそ笑いを収める。


「では、見ます?」

「……何を?」


 ローレンスが机のほうを見る。


「あの箱です」


 思わず動きを止めた。


「いいのです?」

「ええ」

「以前は見せられないと言っていたでしょう」

「そのつもりでした」

「では、どうして?」

「これ以上、私には覚えのない女性に嫉妬されても困るので」

「……覚えがない?」


 思わず聞き返したけれど、ローレンスは答えなかった。


「見れば分かります」


 意味が分からないまま見ていると、ローレンスは立ち上がって机へ向かった。


 引き出しを開け、書類の奥から小さな木箱を取り出す。以前、一瞬だけ見たものと同じ、飾り気のない箱だった。


 さらに引き出しの奥から鍵を取り出し、私のところへ戻ってくる。

 卓の上へ木箱が置かれた。


 いざ見せてもらえるとなると、少し怖い。


 長年ローレンスが好きだった人は、どんな女性だったのだろう。


 手紙が入っているかもしれない。肖像画があったらどうしよう。


 今は私を好きだと言ってくれた。それは分かっている。

 それでも、ローレンスが長い間大切にしてきたものを見るのは、思っていた以上に緊張した。


「……やっぱり、見なくてもいいですよ」

「どうして?」

「ローレンスの大切なものでしょう」

「ええ」

「なら、無理に見せなくても」

「見てください」


 珍しく、ローレンスが言い切った。


「本当は見せるつもりはありませんでしたけれど、今は見せないほうが困るので」

「何が困るのです?」

「それも、見れば分かります」


 ローレンスが鍵を差し込む。


 小さな音がして、蓋が開いた。


 私は恐る恐る箱の中を覗き込んだ。


 古い手紙。小さな布包み。押し花。

 いくつかの小さな品が、丁寧に収められている。


 どれも随分古そうだった。


 これが、その人との思い出。


 そう思うと胸の奥が少しだけ痛んだけれど、ローレンスに促され、一番上にあった布包みを手に取った。


 紐をほどくと、中から細長い布が出てくる。


 栞だった。


 白かったはずの布は年月を経てわずかに黄ばみ、端には青い糸で小さな花が刺繍されている。


 あまり上手ではない。

 花びらの大きさは揃っていないし、一枚だけ妙に長い。


「……あれ?」


 どこかで見たことがある。


 指先で刺繍をなぞった途端、随分昔の記憶が浮かんだ。


 刺繍の練習を始めたばかりの頃、細長い布へ小さな花を縫ったことがあった。出来上がった栞を眺めていたとき、ちょうど我が家を訪れていたローレンスに声をかけられた。


 何を作っているのかと聞かれて、栞だと答えた。


 それから――。


「……使います?」


 記憶の中の言葉が、そのまま口から漏れた。


 ローレンスが私を見る。


「覚えていたのですか?」

「今、思い出しました」


 私は手元の栞とローレンスを交互に見た。


「これ、私が作ったものですよね」

「ええ」

「ローレンスに渡した?」

「はい」


 記憶が少しずつ戻ってくる。


 私にとっては、刺繍の練習で作った栞の一つにすぎなかった。自分で使うほど気に入ってもいなくて、ちょうどそこにいたローレンスへ、使うかと聞いただけだった。


「……まだ持っていたのです?」

「ええ」

「何年前です?」

「十二年ほど前ですね」

「十二年……」


 もう一度、栞を見る。


 端は少し傷んでいた。実際に使っていたのだろう。

 けれど、歪んだ青い花は今もきれいに残っている。


「こんなに下手なのに」

「そうですか?」

「花びらが揃っていないでしょう」

「知っています」

「一枚だけ長いですし」

「それも知っています」

「捨てようとは思わなかったのです?」

「一度も」


 迷いのない返事だった。


 私はしばらく栞を見つめた。

 十二年前、何気なく渡したもの。私は渡したことすら忘れていたのに、この人はずっと持っていた。


「……どうして、これがこの箱に?」

「あなたにもらったものだからです」

「でも……」


 言いかけて止まる。


 何かがおかしい。


 栞を布の上へ戻し、今度は古い手紙を手に取った。


 見覚えのある筆跡だった。


「……これも私です」

「ええ」


 内容を読んで、さらに驚いた。


 ローレンスが体調を崩したと聞いて、見舞いの言葉を書いたものだった。そんな手紙を書いたことすら、私はすっかり忘れている。


「いつのです?」

「十四歳の冬ですね」

「覚えているのです?」

「ええ」


 次は押し花だった。


「これは?」

「あなたからです」

「いつ?」

「十五歳の春です。庭で摘んだものをくれました」

「覚えていません」

「そうでしょうね」


 次に手に取ったのは、丁寧に畳まれた小さなハンカチだった。

 端に刺繍された花には、さすがに覚えがある。婚約して間もない頃、ローレンスへ贈ったものだ。


「……これも」

「ええ」


 箱の中に収められていたものを見渡して、ようやく気づく。


 どれも、私に関係するものだった。

 知らない女性からの手紙などない。肖像画もない。見覚えのない贈り物もない。


「……全部?」


 ローレンスを見る。


「はい」

「全部、私に関係するものです?」

「ええ」


 頭が追いつかない。


 木箱から目を上げ、何となく部屋の中を見回した。


 書棚には、私が以前贈った本がある。机の上には、婚約してから私が選んだ小物も置かれていた。


 今まで何度も入った部屋なのに、急に見え方が変わった。


「……もしかして」

「はい?」

「私が贈ったもの、ずっと残しているのです?」


 ローレンスが少し黙った。


「残せるものは」

「全部?」

「……残せるものは」

「二回言わなくても聞こえています」

「なら、聞かないでください」


 珍しくローレンスが目を逸らした。


 私はもう一度、木箱へ視線を落とす。


 十二年前の栞。昔の手紙。押し花。婚約してから渡した小物。


 それだけではない。


 十二歳の頃に私が読んでいた本を知っていた。

 十三歳の頃のことも覚えていた。

 好きな花も、好きな季節も、好みの菓子も知っている。


 そして、十三歳の頃から領地経営について学び始め、十五歳で父上へ初めて婿入りの話をしに来た。


 あの頃から、ローレンスは私との結婚を考えていた。


 それなのに、ローレンスには別に長年好きな人がいるのだと、私はずっと思っていた。


 私はゆっくりと顔を上げた。


「……ローレンス」

「はい」

「長年好きだった人って、誰です?」


 ローレンスが黙った。


 さっきまで私を笑っていたのに、急にこちらを見なくなる。


「ローレンス?」

「……」

「私?」


 返事がない。


 けれど、その沈黙だけで、ほとんど答えは分かってしまった。


「私なのです?」

「……ええ」


 小さな返事だった。


 私はしばらく動けなかった。


「いつから?」

「それは言いたくありません」

「どうして?」

「引かれそうなので」


 私は木箱を見る。


「もう十分だと思います」

「ですから見せたくなかったのです」


 ローレンスが片手で額を押さえた。

 こんなに居心地が悪そうなローレンスを見るのは初めてだった。


 けれど、私はそれどころではない。


 頭の中に、これまでの自分が次々と浮かんでくる。


 ローレンスには長年の想い人がいると思った。

 その人より私を好きになってもらおうと決めた。


 ローレンスの好みを知ろうとした。二人で過ごす時間を増やした。少しでも私を女性として見てもらおうと、自分から手をつないだこともある。


 そして、ローレンスも私を好きだと言ってくれたとき。

 私は、長年想い続けてきたその人より、自分を選んでもらえたのだと思った。


「……待ってください」

「何です?」

「私、ものすごく恥ずかしいことをしていたのでは?」


 ローレンスが少しだけ眉を上げる。


「何のことです?」

「私、あなたの長年の想い人に勝とうとしていたのです」

「……そうなのですか?」

「その人より私を好きになってもらおうと思って、ローレンスの好みを聞いたり、二人で出かけたりして」


 そこまで話したところで、ローレンスの表情が変わった。

 今度はローレンスのほうが、何かに気づいたらしい。


「……もしかして」

「何です?」

「最近、急に私との距離を縮めてきたのは」

「言わないでください」

「本を贈ってくださったのも?」

「言わないでと」

「自分から手をつないでくださったのも?」

「ローレンス!」


 頬が熱い。

 全部覚えている。


 ローレンスはしばらく私を見つめ、それから木箱へ目を落とした。


「つまり、あなたは――」

「言わなくていいです」

「自分に嫉妬していたのです?」

「……」


 答えたくない。


「自分より好きになってもらおうとして?」

「……」

「私を自分から奪おうとしていた?」

「もう黙ってください!」


 ローレンスが口元を覆った。

 肩が揺れている。


「笑っています!」

「すみません」

「ひどいです!」

「いえ、本当に。馬鹿にしているわけではありません」

「では何です?」


 ローレンスはしばらく答えられなかった。

 ようやく笑いを収めると、私を見る。


「嬉しかっただけです」

「何がです?」

「あなたが、それほど私を欲しいと思ってくれていたことが」


 何も言えなくなった。


 怒っていたはずなのに、そういうことを急に言うのはずるい。


「……知りません」


 顔を逸らすと、ローレンスが私の手を取った。

 指が絡む。


 しばらくそのままでいると、ローレンスが木箱へ視線を落とした。


「だから、見せたくなかったのです」

「これを?」

「ええ」

「どうして?」


 ローレンスの声から、さっきまでの笑いが消えた。


「重いでしょう。こんな昔のものまで取っておいて、あなた自身が覚えていないものまで」


 古い栞へ触れながら、ローレンスは少し目を伏せる。


「知られたら、気味悪がられると思っていました」


 私はローレンスを見る。

 いつもの余裕がなかった。


 本当に、そう思っていたのだろう。


 だから、すぐには答えなかった。


 箱の中を見る。


 十二年前の栞。短い手紙。押し花。何気なく渡した小さなもの。

 私にとっては忘れてしまうほど些細なものを、この人はずっと大切にしていた。


 正直に言えば。


「……重いですね」


 絡んでいたローレンスの指から、わずかに力が抜けた。


「やはり」


 短い返事だった。

 ローレンスは目を伏せ、木箱の中へ視線を落とす。


 ほんの少し前まで私を笑っていた人とは思えないほど、その横顔には余裕がなかった。


「でも」


 私は古い栞を手に取った。


 少し歪んだ青い花。

 自分でも忘れていたものを、この人は十二年間持っていてくれた。


 栞を丁寧に布へ包み直し、箱へ戻す。


「嫌ではありません」


 ローレンスが顔を上げた。


「本当に?」

「ええ」

「無理をしていません?」

「していません」


 まだ不安が消えないのか、ローレンスは私の顔をじっと見ている。


「でも、重いとは」

「重いものは重いです」

「……そうですか」

「でも、嬉しいです」


 ローレンスが黙った。


 すぐにはいつものように笑わなかった。

 私の言葉が本当なのか確かめるように、しばらくこちらを見ている。


 私は自分から、その手を握った。


「少しだけですけれど」

「少しだけ?」

「これまで散々、知らない女性に嫉妬させられましたから」


 すると、ようやくローレンスの表情が少し緩んだ。


「私のせいです?」

「ローレンスのせいです」

「私は一度も、別の女性がいるとは言っていませんよ」

「言わなかったからでしょう」


 ローレンスがまた笑う。

 私はその肩を軽く叩いた。


「それに、私には特に見せられないなんて言うから」

「あなたに関係するものしか入っていませんからね」

「それを知らなかったのです」


 言い返すと、ローレンスはますます可笑しそうな顔をした。


「そうですね」

「やっぱりローレンスのせいです」

「では、そういうことにしておきます」

「何です、その言い方」


 また笑っている。

 腹が立つのに、私まで少し笑ってしまった。


 それから、もう一度部屋を見回した。


 書棚の本。

 机の上の小物。

 木箱の中の、私自身も忘れていたもの。


 今まで何度も見てきた部屋だった。

 でも、今日初めて気づいた。


 私は知らなかっただけで、ずっとこの部屋のあちこちにいた。


 ローレンスの隣へ身体を寄せると、すぐに腕が回ってくる。

 その胸へ頬を預けながら、開いたままの木箱を眺めた。


 私はずっと、ローレンスの想い人に勝ちたいと思っていた。

 その人より好きになってもらいたくて、私なりにずいぶん頑張ったつもりだった。


 けれど、その相手は最初から私だったらしい。


「……何だか、また恥ずかしくなってきました」

「どうしてです?」

「あんなに必死になる必要なんて、最初からなかったのですね」

「私は嬉しかったですよ」

「ローレンスは黙っていてください」

「はい」


 素直に返事をしたくせに、胸元から小さな笑い声が聞こえた。


「また笑っています?」

「少しだけ」

「もう」


 その胸を軽く叩く。

 けれど、離れようとは思わなかった。


 ローレンスの腕も、私を離さない。


 私はずっと、知らない誰かからローレンスを奪おうとしていた。

 その知らない誰かが、自分だったなんて。


 こんなことなら、もう少し早く気づきたかった。


 そう思いながら、私はもう一度、十二年前の栞へ目を向けた。


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