20.これからは二人で
翌朝、私はいつものように父上とローレンスと三人で朝食を取っていた。
昨夜、あれほど驚くようなことを知ったというのに、朝の食堂は何も変わらない。
窓から差し込む朝の光も、食卓に並ぶ料理も、父上とローレンスが交わす仕事の話も、昨日までと同じだった。
「西側の水路については、昨日のうちに報告が届いています」
「あとで確認する」
「はい。修繕費の見積もりも一緒に届いていますので、そちらも」
「ああ」
ローレンスはいつも通りだった。
穏やかな声で父上と話し、必要なことだけを簡潔に伝えている。
父上もそれを当然のように聞いていて、二人の間にはすっかり仕事仲間らしい空気ができていた。
私はパンを切りながら、向かいに座るローレンスを見た。
昨夜までと同じ人のはずなのに、何だか違って見える。
十二年前に私が何気なく渡した栞を、今でも大切にしまっている人。私自身も忘れていたような手紙や押し花を、一つも捨てずに残していた人。
そして、十年以上も私を好きだった人。
「どうした?」
不意に父上から声をかけられ、我に返った。
「何がです?」
「手が止まっている」
見ると、確かにナイフを持ったまま動いていなかった。切りかけたパンが皿の上に残っている。
「少し考え事をしていました」
「食事中にすることではないな」
「すみません」
慌ててパンへ視線を戻す。
ローレンスは何も言わなかった。もちろん、父上の前で昨夜のことを匂わせるような人ではない。
それでも何となく気になって、もう一度だけ向かいを見る。
今度は、目が合った。
ほんの一瞬、ローレンスの目元がわずかに和らぐ。
それだけで昨夜のことを思い出してしまい、私は先に視線を落とした。
朝食くらい、まともに食べたい。
◇
午前中は、父上とローレンスとともに執務室で仕事をした。
領内から届いた報告を確認し、先日の雨で傷んだ水路の修繕について話し合う。机の上には各地から届いた書類が積まれ、父上はそのうちの一枚をローレンスへ渡した。
ローレンスはざっと目を通すと、費用の内訳を指で追った。
「石材はこちらで手配したほうが安いでしょう。現地で調達するより、輸送費を含めても抑えられます」
「そうだな。ただ、工期が延びるのは避けたい」
「では、必要な分だけ先に現地で確保して、残りをこちらから送るのはどうでしょう」
父上は手元の報告書と見比べ、少し考えてから頷いた。
「それで進めろ」
「分かりました」
ローレンスが書類へ何かを書き込む。
見慣れた光景だった。この屋敷へ来てから、何度も見ている。
ローレンスは領地のことをよく知っている。父上の話についていけるだけではなく、必要なら自分から意見を出し、任された仕事も滞りなく進めていた。
だから私は、以前聞いた話を疑わなかった。
ローレンスが十三歳の頃から、領地経営や法律について学び始めたこと。
きっと公爵家へ入って何かやりたいことがあったのだろうと思っていた。新しい事業を始めたいのかもしれないし、領地経営そのものに興味があったのかもしれない。
何か目指しているものがあって、そのために父上へ婿入りを申し出たのだと。
けれど、昨夜、あの箱を見てしまった。
十二年前の栞を見た。
私との結婚が決まるよりずっと前から、私に関わるものを大切にしていたことを知ってしまった。
そうなると、別の理由が思い浮かんでしまう。
書類を読んでいたローレンスが、不意に顔を上げた。
また目が合う。
「何です?」
今度は声をかけられてしまった。
「いえ。何でもありません」
私はすぐに自分の書類へ視線を落とした。
聞きたい。けれど、父上のいるところで聞くことではない。
結局そのあとは、何度かローレンスへ視線を向けそうになるのを堪えながら仕事を続けた。
◇
その日の夜。
夕食を終えて少ししてから、私はローレンスの部屋を訪れた。
扉を叩くと、中から返事がある。
「はい」
「私です」
間もなく扉が開き、ローレンスが姿を見せた。
「どうぞ」
促されるまま部屋へ入る。
扉を閉めたローレンスは、すぐには長椅子へ向かわず、その場で私を見た。
「今日は随分見られましたね」
「……気づいていたのです?」
「朝から何度も」
「言ってくれればよかったのに」
「父上の前で?」
わずかに笑いを含んだ声で聞き返され、私は言葉に詰まった。
「それは困ります」
「でしょう?」
やっぱり全部気づいていたらしい。
ローレンスは先に長椅子へ向かい、私もその隣へ腰を下ろした。
「それで、何か聞きたいことがあるのでしょう?」
「あります」
「何でしょう」
座った途端、ローレンスの腕が自然に私の背中へ回った。
以前なら、それだけで少し緊張していた。けれど今は、その腕の中へ身体を預けることにも慣れてきている。
私はローレンスの胸元へ寄りながら、朝から考えていたことを口にした。
「以前、私、公爵家で何かやりたいことがあるのではないか、と言いましたよね」
ローレンスはすぐに思い当たったようだった。
「……ええ」
「あのとき、否定しませんでしたよね。だから私は、領地で実現したい事業でもあるのだと思っていました」
あのときは、本当にそうだと思っていた。
十三歳の頃から領地経営や法律を学び、十五歳から五年間も父上へ婿入りを申し出たのだから、公爵家へ入ってまで成し遂げたい何かがあるのだろうと。
けれど、昨夜知ったことを考えれば、別の答えが浮かぶ。
「あれ、違ったのですね」
ローレンスはしばらく何も言わなかった。
背中へ回っていた腕が、わずかに止まる。
「……ええ」
「私と結婚するため?」
ほんの少し間があった。
「はい」
やっぱり。
予想していた答えなのに、本人の口から聞くと胸の奥がくすぐったくなる。
「そのために、十三歳から勉強していたのです?」
「公爵家へ婿入りするなら、何も知らないままではいられないでしょう」
「でも、その頃はまだ何も決まっていなかったのでは?」
「ええ」
あっさり認められて、私は目を瞬いた。
「それでも?」
「決まってから始めたのでは遅いですから。もし機会をもらえたときに、何もできない人間ではいたくありませんでした」
あまりにも当然のことのように言うので、私はしばらくローレンスの顔を見つめてしまった。
十三歳の少年が、いつか私と結婚するために、公爵家へ入っても困らないよう領地経営や法律を学び始めた。
私との結婚が決まる保証など、どこにもなかったはずなのに。それでもローレンスは、その日が来ることを前提に準備していたらしい。
「……あなた、時々とても重いことを普通に言いますよね」
「最近よく言われます」
「私しか言っていないでしょう」
「そうですね」
ローレンスが少し笑う。
私もつられて笑ったけれど、まだ聞きたいことは残っていた。
「では、本当にそれだけだったのです?」
「何がです?」
「公爵家でやりたかったことです。私と結婚する以外には、何もなかったのですか?」
ローレンスは少し考えてから、正直に答えた。
「当時は、特にありませんでした」
「今は?」
「ありますよ」
今度は迷いがなかった。
髪へ触れたローレンスの手が、ゆっくりと撫でていく。
「ここへ来て、実際に仕事をするようになれば、いくらでも。改善したいこともありますし、もっと知りたいこともあります。父上から学ばなければならないことも多いですから」
「そうなのですね」
「今では、この領地をよくしたいと思っていますよ」
その答えを聞いて、胸の奥が少し温かくなった。
始まりは私だった。
私と結婚するために、ローレンスは領地経営や法律を学んだ。
けれど、今この人が領地のために働いている理由まで、私だけではない。ローレンスはもう、この家の一員として領地を見ている。
「嬉しそうですね」
顔に出ていたらしい。
「嬉しいですよ」
「なぜ?」
「私のことしか見えていなかったら、少し心配ですから」
すると、ローレンスがわずかに眉を寄せた。
「ひどいですね」
「だって、十二年前の栞まで取っておく人ですよ?」
「……箱のことは忘れてください」
「無理です」
即答すると、本当に困ったような顔をされた。
「一生覚えています」
何気なくそう言うと、ローレンスが一度瞬きをした。
箱のことを持ち出されて困っていたはずなのに、なぜかそのあと、口元に小さな笑みが浮かぶ。
「……それは困りますね」
「困っている顔には見えませんけれど」
「箱のことは困っていますよ」
そう言いながらも、口元の笑みは消えない。
理由を尋ねようかと思ったけれど、ローレンスは私の髪をひと房すくうと、何でもないように指先でゆっくりと梳いた。
たぶん、聞いても教えてくれない。
私はそれ以上追及せず、その胸元へ身体を預け直した。
こうして考えてみれば、昨日から知らなかったローレンスをいくつも見ている。
十二年前の栞を今も大切にしていることも、私が忘れてしまったようなものまで残していたことも、ずっと私を想っていたことも。
知る前なら、そんな想いを向けられていたと分かれば、もっと重く感じると思っていた。
実際に知ってみても、やはり重いとは思う。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ一つ知るたびに、今まで見えていなかったローレンスが少しずつ見えてくる。それが嬉しくて、もっと知りたいと思ってしまう。
そう思ったところで、昨夜聞きそびれたことが一つ残っているのを思い出した。
「もう一つだけ聞いてもいいです?」
「まだあるのですか」
ローレンスの手が、私の髪の上で止まった。
わずかに警戒したような顔をするので、思わず笑ってしまう。
「一つだけです」
「何でしょう」
「いつからです?」
「……何がです?」
「私を好きになったのは」
今度は、はっきりとローレンスの表情が固まった。
さっきまで私の髪に触れていた手まで止まっている。
「……それですか」
「昨日は教えてくれなかったでしょう」
「今日も教えたくありません」
「どうして?」
「引かれそうなので」
返ってきたのは、昨日とまったく同じ答えだった。
「一日で変わるものではありませんから」
もっともらしく付け加えているけれど、どうやら本当に答える気はないらしい。
私はローレンスの腕の中に収まったまま、昨夜見た木箱の中身を思い返した。
一番古かったのは、あの不格好な青い花の栞だった。
「十二年前の栞をもらったときには?」
途端に、ローレンスが私から目を逸らした。
答えてくれなくても、それだけで十分だった。
「もう好きだったのです?」
やはり返事はない。
「ローレンス」
逃がさないつもりで名前を呼ぶと、しばらくして小さなため息が落ちてきた。
「本当に、いつからなのかは分からないのです」
「覚えていないのです?」
「ええ。気づいたときには、もう好きでした」
てっきり何歳の頃から、と隠しているのだと思っていたので、少し意外だった。
「そんなものです?」
「そんなものですよ」
ローレンスはそう答えてから、今度は自分が聞く番だとでもいうように私を見た。
「あなたは?」
「私は、いつ自覚したのかは分かっています」
「いつです?」
先ほどまで答えたがらなかった人とは思えないほど、今度は迷いなく尋ねてくる。
私は少しだけ笑ってから、あのときのことを思い返した。
「あなたに好きな人がいると知ったときです」
ローレンスが少し意外そうな顔をした。
「そのとき?」
「ええ。あなたに好きな人がいると聞いて、嫌だと思ったのです」
あのときは、自分でも驚いた。
ローレンスが長く誰かを想っている。その人を今でも好きでいる。
それを知った途端、胸の奥がひどく落ち着かなくなった。
それまでは、ローレンスと結婚することに不満はなかった。それどころか、この人なら穏やかに暮らしていけるだろうと思っていた。
けれど、それだけだった。
自分の気持ちに気づいたのは、ローレンスの心が別の誰かに向いているのだと思ったときだった。
私は、この人をほかの誰かに渡したくない。
そう思って初めて、自分がローレンスを好きなのだと知った。
「それで、あなたに振り向いてもらおうと決めました」
私がそう言うと、ローレンスは何かを思い返すように目を細めた。
「……あれは、好きだと気づいたあとのことだったのですか?」
「そうですよ」
「知りませんでした」
「でしょうね。私も言いませんでしたから」
本を贈ったのも、二人で湖へ出かけたのも、自分から手をつないだのも。
全部、好きだと気づいたあとだった。
「だから、全部あなたに好きになってもらうためにしたのです」
言い終えてからローレンスを見ると、何も返ってこなかった。
ただ、私を見つめている。
「……何か言ってください」
「少し待ってください」
「何を?」
「今、噛み締めています」
真顔で言われて、思わず笑ってしまった。
「大げさです」
「私には大事なことです」
けれど、そう言ったローレンスは笑っていなかった。
私の言葉を、本当に大切なものとして受け取っているような顔をしている。
それを見たら、からかう気もなくなった。
私はローレンスの胸へ頬を戻した。
しばらく止まっていた手が、またゆっくりと髪を撫で始める。
「嬉しいです?」
「ええ」
「そんなに?」
少し間を置いてから、背中に回っている腕がわずかに強くなった。
「あなたが思っているより、ずっと」
その反応が、今は素直に嬉しかった。
しばらくそのままでいたけれど、ふと思い立って身体を起こす。
「ローレンス」
「はい」
振り向いたローレンスの首へ腕を回すと、その目が少し見開かれた。
「……どうしました?」
「何となくです」
「何となく?」
「嫌です?」
尋ねると、返事はすぐだった。
「まさか」
ローレンスの腕が腰へ回る。
引き寄せられるより先に、私から唇を重ねた。
ほんの短い口づけをして、すぐに離れる。
けれど、ローレンスは何も言わなかった。
「……何です?」
黙ったまま見つめられると、さすがに落ち着かない。
「いえ」
「また噛み締めています?」
「……ええ」
「大げさですよ」
「あなたは分かっていませんね」
少し低くなった声に、今度は私が黙る。
頬へ触れた指先も、先ほどまでより慎重だった。
そのままローレンスが顔を寄せ、今度は向こうから唇が重なる。
先ほどより長い。
一度離れたと思ったら、もう一度触れた。
腰へ回った腕に少し力が入り、身体が近づく。もう一度唇が重なったところで、私は思わずローレンスの服をつかんだ。
すると、ローレンスはすぐに離れた。
「すみません」
「どうして謝るのです?」
「驚いたでしょう」
「少しだけ」
そう答えると、頬にあった手まで離れようとする。
私はその手をつかんだ。
「嫌ではありません」
ローレンスはまだ私を見ていた。
すぐには安心できないらしい。
「……本当に?」
「ええ。だから、そんな顔をしないでください」
それでもまだ何か言いたそうなので、私は少し眉を寄せた。
「何度聞くのです?」
ローレンスが黙った。
心配そうな顔をしている。
この人は十年以上も私を好きだったくせに、こういうところでは驚くほど慎重だ。
以前にも、私が嫌がることはしたくないと言っていた。
きっと、想っていた時間が長いからといって、その分だけ私に何かを求めていいとは思っていないのだろう。
そう考えると、少しだけ愛おしくなった。
「今まで我慢していたのでしょう?」
「……覚えていたのですか」
「もちろん」
もう一度、ローレンスの首へ腕を回す。
今度は逃げないように、そのまま近くから顔を見た。
「もう、そんなに我慢しなくてもいいですよ」
ローレンスが動かなくなった。
腰へ回っていた腕も、頬に触れていた指も止まる。
冗談だと思ったのか、それとも意味を測りかねているのか。しばらく私の顔を見つめたまま、瞬きさえしなかった。
「ローレンス?」
「……あなたは、本当に」
「何です?」
「そういうことを、そんな顔で言わないでください」
「どういう顔です?」
「分かっていないなら、そのままでいてください」
ローレンスは小さく息を吐いた。
次の瞬間、強く抱き寄せられた。
胸へ頬が触れ、背中へ回った腕にすっぽりと包まれる。
さっきまで触れることさえ躊躇っていたとは思えないほど強いのに、不思議と苦しくはなかった。
私もその背中へ腕を回す。
けれど、ローレンスは何も言わない。
しばらく抱きしめたまま動かなかった。
耳を澄ませば、胸の奥から鼓動が聞こえる。
思っていたより、ずっと速い。
それに気づくと、少し嬉しくなった。
いつも穏やかで、私よりずっと余裕があるように見えていた人が、私の言葉一つで黙り込んで、私から口づけただけでこんなに動揺する。
昨夜、木箱を見せてもらうまで知らなかったことが、まだいくつもあるのかもしれない。
私は背中へ回した腕に、少し力を込めた。
するとローレンスも、それに応えるようにもう一度私を抱き直した。
十二年前、私はまだ、この人の気持ちを知らなかった。
ローレンスが私を見ていた時間に、同じ気持ちを返すことはできない。過ぎてしまった時間は変えられない。
けれど、それを申し訳なく思う必要もない気がした。
今、私はローレンスが好きだ。
明日も、その次の日も、この人の隣にいたいと思っている。
これから先は、ローレンスだけが私を想うのではない。私も同じように、この人を想いながら過ごしていける。
それなら、きっと十分だ。
私はローレンスの背中へ回した腕に、もう一度だけ力を込めた。
すぐに、抱きしめ返される。
その腕の中で、私は静かに目を閉じた。




