18.大切なもの
ローレンスと想いが通じ合ってから、数日が経った。
生活そのものは、それほど変わっていない。
朝食は父上とともに取り、日中はそれぞれの仕事をする。必要があれば同じ執務室で領内から届いた報告書に目を通し、意見を交わす。父上や使用人たちの前では、ローレンスも以前と変わらなかった。
変わったのは、二人きりになったときだ。
手をつなぐことが増えた。隣に座れば以前より距離が近く、私が寄りかかれば肩を抱かれる。一度抱きしめられると、なかなか離してもらえないこともある。
今まで我慢していたので。
ローレンスはそう言っていた。
私たちは夫婦になってからも、互いに相手には別の想い人がいると思っていたのだから、ローレンスもずっと遠慮していたのだろう。
だから最近のローレンスが少しくらい甘くても、不思議ではない。
私も、そんな時間を楽しみにするようになっていた。
◇
その日も仕事を終えたあと、ローレンスの部屋を訪れていた。
窓から差し込む午後の日差しはすでに傾き始め、庭園の木々が床へ長い影を落としている。長椅子の前の卓には、紅茶と焼き菓子が用意されていた。
私は読みかけの本を閉じ、卓へ手を伸ばした。
「そちらより、こちらのほうが好きでしょう」
隣からローレンスの手が伸びてきた。
私が取ろうとしたものとは別の菓子を、小皿へ載せてくれる。蜂蜜と木の実を使った焼き菓子だった。
「ありがとうございます」
一口食べてみる。
確かに、こちらのほうが好きだ。
「よく覚えていますね」
「何を?」
「私がこれを好きなことです」
「よく選んでいるでしょう」
「そうでした?」
「ええ」
ローレンスは何でもないことのように、自分の紅茶へ口をつける。
結婚してから何度も一緒にお茶を飲んでいるのだから、それほど不思議なことではない。
私だって、ローレンスが甘すぎる菓子をあまり好まないことくらいは知っている。
「でも、こちらも嫌いではありませんよ」
先ほど取ろうとしていた菓子を示す。
「知っています」
「では、どうして止めたのです?」
「そちらは二番目でしょう」
私はローレンスを見る。
「二番目?」
「違いました?」
少し考えてみる。
「……合っています」
「なら、よかったです」
ローレンスは平然としている。
何となく気になって、今度は別のことを尋ねてみた。
「では、私が一番好きな果物は?」
「林檎」
間を置かず返されて、思わず眉を上げる。
「好きな花は?」
「鈴蘭」
今度も迷わない。
「好きな季節は?」
「春」
私はとうとう紅茶のカップを置いた。
「全部合っています」
「それはよかった」
「よく知っていますね」
「夫婦ですから」
ローレンスは何でもないことのように言う。
「結婚してから知ったのです?」
何気なく尋ねると、ローレンスがカップを置いた。
「以前から知っていたものもありますよ」
「鈴蘭も?」
「ええ」
「いつ知ったのです?」
「……いつでしょうね」
急に曖昧になった。
「覚えていないのです?」
「昔のことですから」
先ほどまで何でもすぐに答えていたのに、妙に歯切れが悪い。
それなら、もっと昔のことを聞いてみようと思った。
「十二歳の頃、私がよく読んでいた本は?」
ローレンスが黙った。
さすがにこれは分からないだろう。私自身、すぐには思い出せないくらい昔のことだ。
「……古い城や修道院について書かれた本」
思いがけず答えが返ってきた。
私は目を瞬いて、記憶を辿る。
確かに、その頃は各地に残る古い建物についてまとめられた本を気に入って、何度も読んでいた。
「合っています」
「そうですか」
「どうして知っているのです?」
「以前、話したことがあったのでは?」
「ローレンスに?」
「おそらく」
妙に歯切れが悪い。
そんな話をしただろうか。
幼い頃から知っているのだから、本について話したことくらいはある。けれど、十二歳の頃に何を好んで読んでいたかまで話した記憶はなかった。
「私、ローレンスと本の話をそんなにしました?」
「まったくしなかったわけではないでしょう」
「それはそうですけれど」
ローレンスが菓子へ手を伸ばす。
話を終わらせようとしているように見えて、余計に気になった。
「では、十三歳の頃は?」
「……何がです?」
「よく読んでいた本です」
「さあ」
「分からない?」
「すべて覚えているわけではありませんよ」
そう言いながら、ローレンスは私を見ない。
私は自分で記憶を辿った。
「十三歳の頃なら……王都を舞台にした歴史物をよく読んでいた気がします」
ローレンスの指が止まった。
ほんの一瞬だったけれど、今度は気づいた。
「知っていました?」
「何を?」
「私がそれを読んでいたこと」
「どうでしょう」
「今、反応しましたよね」
「気のせいでは?」
「こちらを見てください」
ローレンスが仕方なさそうに私を見る。
「知っていたのです?」
「見かけたことくらいはあったかもしれません」
「どこで?」
「公爵家で会うこともあったでしょう」
「ありましたけれど……」
そこまで頻繁だっただろうか。
ローレンスは侯爵家の子息として昔から我が家へ出入りしていた。父上同士の付き合いもあったし、子供たちが同じ場で過ごすことも珍しくなかった。
それでも、私がどんな本を読んでいたのかまで覚えているものだろうか。
私はローレンスが十三歳の頃、何を読んでいたかなんて知らない。
「もしかして、昔から私のことをよく見ていました?」
半分は冗談のつもりだった。
ローレンスの表情が、ほんのわずかに止まる。けれど、すぐにいつもの穏やかな顔へ戻った。
「昔からよく顔を合わせていましたからね」
「それだけ?」
「ほかに何が?」
逆に聞かれてしまった。
私にも答えはない。
「……別に」
「でしょう?」
ローレンスが紅茶へ口をつける。
それ以上聞くなと言われたわけではないのに、うまく話を終わらされた気がした。
私は隣に座るローレンスの横顔を眺める。
ローレンスには、昔から好きな人がいた。だから十二、三歳の頃の私を特別な目で見ていたはずはない。
家同士の付き合いが長かったから。子供の頃から、何度も同じ場所で過ごしてきたから。
きっと、その程度なのだろう。
それでも、自分でも忘れかけていたことを、この人が覚えていた。
そう思うと、不思議と嬉しかった。
「何です?」
ローレンスがこちらを見る。
「何でもありません」
「先ほどからよく見ますね」
「ローレンスも昔は私を見ていたのでしょう?」
言い返すと、ローレンスが一瞬黙った。
「……そう返されるとは思いませんでした」
「違うのです?」
「いえ」
ローレンスはそれ以上答えず、困ったように紅茶へ口をつけた。
◇
しばらくして、ローレンスが机へ向かった。
「少し待っていてください。明日のために確認しておきたい書類があります」
「ええ」
私は長椅子に残り、再び本を開いた。
けれど、先ほどの会話が頭に残っている。
ローレンスは、私が思っていたより昔の私を知っている。
もしかすると、私を好きになったのも思っていたより早かったのかもしれない。
結婚してからではなく、婚約や婿入りを考え始めた頃から、少しずつ私のことを気にかけるようになったのだろうか。
そう考えれば、昔読んでいた本まで覚えていることにも説明がつく。
そんなことを考えていると、机の引き出しを開ける音がした。
何気なく顔を上げる。
ローレンスが書類を探していた。
何枚か取り出したところで、その奥に見覚えのあるものが覗く。
小さな木箱。
以前、私が中身を尋ねたものだった。
ローレンスはすぐに必要な書類を見つけ、引き出しを閉じる。ほんの一瞬しか見えなかったけれど、まだそこにあることは分かった。
もちろん、なくなっているとは思っていなかった。
私と想いが通じ合ってから、まだ数日しか経っていない。長年好きだった人に関係するものなら、そんなに簡単に手放せるはずもない。
それでも、今の私には以前とは少し違って見えた。
「お待たせしました」
ローレンスが戻ってきて、私の隣へ腰を下ろす。そのまま自然に肩を抱かれ、私はローレンスへ寄りかかった。
少し迷ってから、口を開く。
「先ほど、あの箱が見えました」
「あの箱?」
「引き出しに入れているものです」
「ああ」
ローレンスはすぐに分かったらしい。
「まだ持っているのですね」
「ええ」
迷いのない返事だった。
それだけなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
「どうしました?」
「何でもありません」
「そうは見えませんけれど」
「そうです?」
「ええ」
ローレンスの手が私の髪に触れ、耳の横へ落ちていた一房をそっと払う。
「何か気になります?」
「……少しだけ」
「何が?」
聞かれて、迷った。
昔の想い人との思い出を、まだそんなに大切にしているのですか。
そう聞けばいい。
けれど、口にするのは躊躇われた。
ローレンスが今好きなのは私なのだ。過去の思い出まで捨ててほしいと言うのは違う。
「大したことではありません」
「なら、教えてください」
「嫌です」
「どうして?」
「ローレンスにも秘密があるでしょう」
一瞬、ローレンスが黙った。
「ありますね」
「なら、お互い様です」
以前、自分が言った言葉を返す。
ローレンスは少し困ったように息を吐いたけれど、それ以上は聞いてこなかった。
私はもう一度、引き出しのほうへ目を向ける。
「……大切なのですね」
「ええ」
また迷わない。
「とても」
胸の奥が、わずかに重くなった。
「そうですか」
思ったより声が沈んでしまったらしい。
ローレンスがこちらを見る。
「本当にどうしました?」
「何でもありません」
「そうは聞こえませんでしたけれど」
「気のせいです」
肩に回っていた腕に、少し力が入った。
「アメリア」
「何です?」
「そんな顔をしなくても、あなたが気にするようなことではありませんよ」
思わずローレンスを見る。
「……どうして分かったのです?」
「先ほどから箱ばかり見ていますから」
「ばかりではありません」
「そうですか」
「ええ」
ローレンスは明らかに信じていない。
少し恥ずかしくなって、顔を逸らした。
髪をゆっくり撫でられる。
「あなたより大切なものなんてありませんから」
そんなことを言われたら、もう何も言えない。
「……なら、いいです」
「何がです?」
「何でもありません」
私はローレンスの胸へ頬を戻した。
先ほどまで気になっていた木箱のことも、今はもう聞かなくていいような気がした。
ローレンスが今好きなのは私だ。
それなら十分だ。
しばらくそのままでいるうちに、髪を撫でる手の心地よさに、胸の奥の小さな引っかかりも薄れていった。
けれど、やはり一つだけ気になる。
「ローレンス」
「はい?」
「あの箱は、これからも持っているのです?」
「ええ」
「ずっと?」
「そのつもりです」
返事に迷いはなかった。
「……そんなに大切?」
「大切ですよ」
ローレンスは一度だけ、引き出しのほうへ目を向けた。
「あれには、失くしたくないものが入っていますから」
私はそれ以上聞かなかった。
長年想い続けた人との思い出。
きっとローレンスにとっては、簡単に手放せるものではないのだろう。
仕方がない。
過去まで私のものにすることはできない。今のローレンスが私を好きなら、それでいい。
これから私との思い出が増えていけばいいのだから。
そう思いながら、ローレンスの胸へ頬を寄せる。
それでも、ほんの少しだけ。
あの箱に残るほど大切に想われた人が、羨ましかった。




