35 書の疑い
沖の中将の屋敷。
気持ちのよい風が時おり吹いてくる縁。
庭にある大きな池は、もうすぐ満月になりそうな月を明々と映し出している。
沖の中将は、春道と一緒に酒を飲んでいる。
「やっと、落ち着いたなあ」春道が月を見上げて、しみじみと言う。
「一年分の仕事を仕上げた気分だよ」沖の中将は、ゆっくり杯を口に運んだ。
「こうしていると、いつでも鬼姫がやってきそうな気分になるが」
「もうよそう、春道。鬼姫ではなく、青葉の君様だ」
「そうだな」春道は笑う。
「青葉の君様は、鬼姫となっていたことを全く覚えておられないんだ。鬼姫の記憶は、夢で体験したそうだ……。それなのに、体は鬼姫となっているものだから、かなり体がしんどかったそうだよ」
「気の毒なことだ」春道も杯を口にした。
「青葉の君様、体力も回復なさっているとのこと。一時はお命にかかわるほど衰弱しておられたのだから、本当によかったよ」
沖の中将は、明るい夜空を見上げた。
春道が軽く笑った。
「ふふ、沖の中将様におかれましては、失恋なさったとか」
「何を言う………!……失恋ではない」
沖の中将は驚いて杯を床に置いた。
「ふふ、隠さなくっていいよ。姫から好かれるのはいい気分だ。好かれていると思っていた姫から、実は違うなんて言われたら、誰でも心にぽっかり穴が開いてしまうよ」
「……笑っているではないか」
春道は、げらげらと笑う。沖の中将は、ムッとする。
「………本命の殿君は、木こりだとか」ひとしきり笑った春道が言う。
「そうなんだ。青葉の君様の幼馴染だそうだ。………蓬野姫様が、すごいんだよ」
「なにがすごいの」
春道は笑う準備ができているような、半笑いの表情。
「木こりをさ、中級貴族にふさわしい教育を施すようにってさ」
「へえ……!身分をあげてやるのか?」
春道は、本気で驚いている。
「そうさ。僕も初めは驚いたよ。……でも、青葉の君様は本気なんだ。木こりを愛しておられるんだ」
「ふーん……」
「そうすると、木こりを貴族にするしかない。僕の師匠の勉達と剣達を貸し出している」
「それは、すごい!」
「さすが木こりだよ。剣の方は剛腕でさ。しかも木を相手にしているものだから、スピードも持っている。剣達があっと言う間に合格を出したよ」
「ほう………。しかし、知識の方はおろそかなのでは?」
「うむ、貴族としての知識はない。が、人としての知識は以外にも豊富だった。木こりの父親からの教えや、後輩者への教育をしていたそうだ」
「なかなか、見どころがあるな」
「だからだろうな。青葉の君が惚れるはずだよ」
「うむ……見習いたいものだ」春道は本気で感心している。
沖の中将は、こうしてゆっくりした日々が毎日送れることができたら、どんなにいいか。しみじみ思った。
沖の中将の心が穏やかでいられる日は、そんなに長く続かなかった。
参内すると、貴族たちがあちこちで、ささやき話している。ちら、ちらと嫌な視線を感じる。
「沖の中将様」
ずるそうな貴族がひとり、そっと近づいてきた。
「いつも、我が子息たちに美文字をお教えくださり、ありがとうございます。おかげで、我が子息たちの字が上達したと、母姫も喜んでおります」
ずるそうな貴族は、慇懃に笑っている。
「それは、よかったです」沖の中将は、なんとなく嫌な雰囲気を感じ、さっさと立ち去ろうとする。
「沖の中将様」
ずるそうな貴族は沖の中将に引っ付いてくる。
「はい」
「申し上げにくいが、我が子息たちは、鈴蘭様に教えを乞うているのでしょうか」
「はい?」さすがの沖の中将も眉をつりあげる。
「みなのうわさですが、我が子息が勉強している時間、別のご子息様も勉強しているとのこと。ということは、どちらかの鈴蘭様は、偽物だと……」
「ほう……」
沖の中将は、柔和な表情に戻した。感情を顔に出してはいけない。
偽物ではないが、鈴蘭が何人もいるのは秘密の事実だ。すべての鈴蘭は式神だ。
スケジュールは沖の中将が組んでいる。女性の鈴蘭がやると命にかかわるほど重労働になるが、体力のある人間ならこなすことが可能なスケジュールにしてある。
鈴蘭が貴族たちの屋敷に現れるとき、直前に牛車が現れるような術を可武斗が準備してくれている。
貴族たちの家人たちが、どれだけ鈴蘭の牛車を探そうとしても、突然目の前に現れるのだ。
帰りも同様で、こっそり牛車をつけたとしても角を曲がれば牛車は消えてしまう。
牛車も一種類ではないので、どの牛車に鈴蘭が乗っているのかは、わからないようにしている。
これほどの術が施されているのに、誰が見破った?
沖の中将は、にやりと笑いそうになるのをこらえた。
ずるそうな貴族には、また鈴蘭が参りますので、よろしく、と最上級の笑顔を残して沖の中将はその場を立ち去った。
貴族たちが集まってきて、うわさの残り香に群がっているのは知らんぷりだ。




