23 火の用心
野菊が通された台所は広かった。
土間になっていて、井戸が見える範囲だけでも二つある。
地面に山のように大根を積み上げて磨いている者、芋の皮をひたすら剝いている者。
あちらには、運ばれてきたたくさんの野菜をひたすら切っている者、それを鍋に運んでいる者。
大鍋でぐつぐつ炊いている者、焼いている者。
「みんな、忙しそうだな」
野菊に変装した鍬形は、周りの様子を注意深く見回した。
「めずらしいな」
あちこちの柱に、紙が貼ってある。紙は、毎日の火ですすだらけになっているが、墨でしっかり字が書かれている。
「火の用心」
どの紙にも、そう書いてある。美しい文字だ。
ここの家人たちは、字が読めるのかな?
貴族たちならば、文や歌を習い、交流を深めるためにほぼ全員に識字力がある。
平民たちは、文や歌より畑や田、またはこういった奉公が忙しいので識字力は低い。
家人たちは平民なので、ほぼ字が読めないだろうと思う。それなのに、わざわざ紙に注意書きを書いて貼るなんて。
「すみません、あれは何ですか」
野菊の声で、近くにいた家人にたずねた。
「ああ、火の用心、て書いてあるんだよ。火には気をつけるように、ってことさ。火事が起きたら大変だからな」
家人が教えてくれた。
「字が読めるのですか」
「ここにいる連中は、火の用心だけは全員読める!意味もわかってる。お前も覚えるんだよ。この屋敷の家人でよかったろう」
「はい。火の用心、ですね。ありがとうございます」
得意そうに笑っている家人に、野菊はにっこり笑ってみせた。
「ここのご主人様はお優しい方なんだよ。あれを書く家人を雇って書かせたのさ」
「ご主人様ではなく、家人さんが書いたのですか!」
「そうなのよ。世の中にはすごい家人がいるもんだな」
「はい」
「今では、あの家人は姫の側で働いているって話だ。やっぱり、字を書けるくらいの家人は、昇給が半端ないね」
家人は腕組をして、まるで自分のことのように自慢している。
「そうなんですね」
「お前もがんばれば、昇給できるぞ。ここのご主人様はお優しいから」
家人はじゃあな、と自分の仕事に戻っていった。
想像以上にいい屋敷だな。
……識字力がある家人か。姫のそばで仕えていると言ったな。どんな人間なんだろう。
鍬形は、女の子の野菊らしい、柔らかな動き方で、中年侍女に命じられた大鍋を磨きはじめた。
大鍋は、鍬形の背と同じくらい高く積み重なり、すべて焦げついている。
「この焦げを取るのがお前の仕事だよ。それで磨きあげるんだ」
中年侍女は、そう言って擦り切れたワラの束をくれた。
いくら鍬形といえども、まともにゴシゴシこすったって取れる焦げではない。
焦げたあとも、何度も使ったのだろう。どの大鍋も分厚く焦げがこびりついている。
鍬形は、まじめに大鍋をこすりながら、焦げ自身に大鍋から離れていく術を唱えていた。
焦げは、大鍋からシールをめくるように取れていく。取れた焦げは、地面で粉々になるよう追加で術をかける。これで、誰が見ても鍬形がまじめに焦げをこすり取ったと思うだろう。
「ちょっと!」
まわりをチラ見しながら作業を進めていた鍬形は、背後から声をかけられて飛び上がりそうだった。
術を見られたか……?
そっと振り向く。
侍女が目を見開き、口をわなわな震わせて鍬形を指さしている。
「どうした、どうした」家人たちが集まってくる。
鍬形は驚いた表情でおびえてみせる。胸の中では、この次何が起きるかワクワクしている。
「みんな、これを見てよ!」家人が叫ぶ。
鍬形が術で磨いて積み上げた大鍋を指さしている。真っ黒に分厚いかさぶたのような焦げだらけになっていた大鍋たちが、真新しい打ち立ての鉄のように黒々と光っている。
「誰がやったの?」
「お前かい?」
「誰と?」
「え、ひとりで?」
「どうやったら、こうなるんだ!」
家人たちが騒ぐ。
「なんの騒ぎだい?」中年侍女がやってきた。
「見てください、これ!」家人が指さした大鍋を見て、中年侍女の口が大きく開いた。
中年侍女は、急いでどこかへ行った。
家人たちがざわめく。家人たちの輪の中心で、野菊が小さくなっている。
叱られるのかな?ズルがばれたかな?
中年侍女は老侍女をつれてきた。
「この子がひとりで、これを?」老侍女も驚きを隠せない。
「お前、こっちに来な」
老侍女は野菊をつれて台所から離れていく。
どこへ行くのだろう。ちょっと、やりすぎたか。
鍬形はこれから何が起こるのか、いろいろ考えた。
ま、何でも来い。
死刑場に連れていかれるような情けない姿で歩きながら、鍬形はワクワクが止まらない。
老侍女は、部屋にしては狭いが、物置にしては広い場所に連れてきた。
作業台がいくつか置かれ、周囲には壁一面に引き出しが設置されている。
「ここの洗い物をしてほしいんだ」老侍女。
部屋のすみに、洗い場が設置されていて、茶碗やさじなどが山と積み上げられている。
変なにおいがする。
「わかりました」
「ここにあるものは、しっかり水をかけてから触るんだよ。いきなり触ると、大変なことになるかもしれない」老侍女は、目をぎらりと光らせた。
「わかりました」




