トゥーラ王国
政務を終えた唯夜はクルルの侍女たちから相談を受けた。
「最近、姫様のご様子が以前とお変わりになっているようでして…」
「体調が悪いのか? 医者は?」
「い、いえ。身体的な問題ではないようです。何かあったようですが姫様は口を教えてくださらず…」
今の唯夜は十八歳。クルルは二つ年下なので十六歳。思春期にあたり、多感な時期だ。唯夜にもそういう時期があった。距離を置いて放っておくのも一つの手かもしれない。しかし最近は彼女と会うことが少なくなっている。たまには対話の時間を設けるべきだろう。
「わかった。報告ありがとう。俺も一度会って話してみる。どうにかなるとは約束できんけどね」
「よろしくお願いいたします」
唯夜は調理場でクルルが好んで食べているという菓子を受け取って彼女の部屋を訪問した。ノックをするとすぐに返事が返ってきた。
「どうぞ」
聞いていたよりは普段通りの声音だった。それだけで無事とは判断できないが少しだけ安心した。
魔術で扉が開き、唯夜は部屋の中に入った。
「唯夜様…」
クルルは驚いた表情で唯夜を見た。侍女が来たのだと思っていたのだろう。唯夜が来ることは伝えていなかった。驚かせるつもりはなかった。わざわざ連絡は必要ないと思ったのだ。
クルルはこれまでしていた裁縫を止めて唯夜に椅子を勧めた。唯夜はクルルに菓子を渡して座った。
「唯夜様、今日はどういったご用件でしょうか」
「大した話じゃないさ。君の侍女から最近君の様子がおかしいっていう話を聞いてね。何かあったのか?」
手に取った乳菓子を齧りながら尋ねる。やはり心なしか元気がないように見える。元から覇気のある人物ではなかったが今では陰気さを感じさせる。何かがあったのは確実なようだ。
「いえ…特に何も…」
「そうかじゃあ早駆けに付き合ってくれ!」
唯夜はクルルの手を引いて外へ出た。馬に馬具を装着してその背中に飛び乗る。二人は馬を走らせ、草原を駆けた。空には雲一つなく、どこまでも青が広がっている。優しいそよ風が吹き、心地良い。唯夜の愛馬ウルズは黒く美しい毛並みの駿馬である。体格は大きく、去勢していないために気性も荒い。それでも根気よく世話をすることで次第に懐いてくれた。今日はウルズも機嫌が良いらしくいつもより軽い足取りだった。
クルルは部屋着のまま連れ出してしまったため、最初は乗りづらそうにしていたが一時間ほど走ると慣れてしまって笑顔が浮かんでいた。彼女は周辺の地理について唯夜に教えた。
「小さな頃はいつもここらで馬術の練習をしていました。剣や弓の才能はありませんでしたが馬の扱いは得意でした」
確かに彼女の馬術は他のヒューベル兵に比べて高い練度にあった。兵士たちも物心ついた頃から馬に乗っているので優れた馬術を有しているがクルルのそれは彼らと一線を画すものだった。
彼らは木陰を見つけ、そこで休んだ。木の幹に背中を預けて腰を下ろす。持ってきた軽食を二人で食べた。
「お気遣いありがとうございます。唯夜様、少し気分が楽になりました」
クルルが唯夜に微笑みかける。
「やっぱなんかあった?」
「…気にするほどのことでもございません。唯夜様がセレス将軍と同衾をなさったと聞いてから…なんと言いますか、胸の奥が苦しいのです」
彼女は顔を背け、俯いた。唯夜は頭を掻くことしかできなかった。まさか彼女に想われているとは考え付かなかったからだ。
「マリア女王との話も耳にしてからより苦しくて…。申し訳ございません。こんなこと言っても唯夜様を困らせてしまうだけだと分かっています…。でも…」
クルルは言葉を詰まらせた。
唯夜は彼女の手を握った。クルルは驚いて顔を上げた。彼女の頬は熟れた桃のように赤くなっていた。
「クルル、嫌な思いさせてごめん。もう少し君との会話を大事にすればよかった」
「唯夜様が謝る必要は…。私が悪いのです。唯夜様はお忙しくて…大変な立場にあるのに…私は…」
「もっと我儘言ってもいいんだぜ。クルル」
彼女の頭を撫でる。
「…私は…貴方の傍にいたいです。ご迷惑でなければ…ずっとお傍に置いてください」
彼女は唯夜の手を握り返した。
大陸中央部には無数の中小国家がひしめいている。だが唯夜が召喚される少し前から勢力を急速に拡大している国家が二つあった。一つはネルブリンゲン南部に広がるディルフィア神教国。大陸全域に信仰されている全能神ディルフィアが鎮座しているという神都ケラウノスを中心とした宗教国家だ。周辺国にいる信徒に叛乱を起こさせ、そこに信徒保護の名目で軍を送り込んで征服するというやり口で国土を拡大させていった。ネルブリンゲン平原にも信徒を送り込んでいるという。二つ目は東部のトゥーラ王国。十世紀に渡る長い歴史を有する軍事国家で、象を用いた戦術で周辺諸国を踏み潰し、征西を続けている。両国とも帝国程ではないが注意が必要な国家である。どちらも非友好的であり、ディルフィアはその毒手をホーストンに伸ばしつつある。トゥーラ王国も対帝国戦線同盟国であるシャボー・ハン王国に攻撃を仕掛けている。
「いやあ北も南も敵だらけ。四年後には西も東も敵になってるかもしれん」
机の上に広げられた地図を見て唯夜は笑う。フェールハイト帝国、ディルフィア神教国、トゥーラ王国共に現在のホーストン王国の倍以上の面積を誇る。加えて征服戦争により将軍や兵が鍛えられ、練度が高い。内戦で司令官や有力騎士の半数以上が倒れたホーストン王国とは比べ物にならない。
「長期的にはどう帝国に対処するか、中期的にはこの四年間でどう国力を増強させるか、短期的にはシャボー・ハン王国の救援要請をどう処理するか…問題は山積しています」
セレスが会議を進行させる。会議に参加しているのは僅かな文武官や唯夜の側近や近くに領地を持つ将軍たちのみ。
「まずは救援要請についてだ。こればかりは我らが主君がどうこうできる話じゃあねえ。その気になれば独立できるだけの勢力はあるのによ。もどかしい話だぜ」
レフトルが唯夜の背中を叩いて言った。確かに夜渡祇領の面積はホーストン本国を凌駕している。軍事力では比べるまでもない。本国はコリントとアンネしかまともな将軍がいないが夜渡祇軍には唯夜をはじめ優秀な将軍たちが揃っている。また、貿易港や交易路を解放したことによって経済力も本国に匹敵するほどにまで成長している。しかし独立しないのはただ上級王を務める唯夜がマリアに背くつもりがないからに過ぎない。
「確かに援軍を派遣するかどうかを決めるのは中央政府ですね。んで上級王、女王は援軍を派遣するんですか?」
「すると思うよ。しないとまずいのはわかってるだろうし。するとしたら十中八九俺たちが派遣されるだろうけど」
「その場合、勝てますか? トゥーラには戦象部隊なる強軍がいると聞きますが」
諸将の視線が唯夜に集まる。この中に象を見たことがある者はいないようだ。確かに象は寒冷な地域にはいないと聞く。冬は雪で覆われるヒューベルの草原に生息できるわけがない。
「象か。元いた世界には動物園ってのがあっていろんな動物がいるんだけどさ象もいたぜ。馬とは大きさも馬力も比べ物にならない。人間なんて簡単に殺せる。正面からやり合ったら負けるだろうな」
動物園の人気者を思い出す。象は普段は穏やかな性格をしているが一度怒れば一頭で一つの集落を破壊できるほどの暴威を振るう。表皮は分厚く火縄銃では貫けない。並の剣では傷をつけることもできないだろう。
「戦象部隊を使ってた国は俺のいた世界にもあった。でも数百頭から千頭が限度だ。それを二千頭か。まあいけるだろ」
戦象部隊にも弱点はある。寒さに弱いこと、馬と比べて扱いにくいこと、動きが鈍重なこと、大喰らいであることである。これらの弱点は軍においては致命傷となり得る。勝ち目は十分にある。
「上級王がそう仰るのなら間違いはありませんな」
アルドゥインが言った。
「では帝国との和平条約が有効であるこの四年間ですが…」
シーナは唯夜の顔を見る。
「俺に経済はわからない。それは専門家に任せるとしよう。アルドゥイン、カルルック、任せたよ」
カルルックは商人の子だ。他国の情勢や経済に明るく、先の上級王ジェベの時代には活躍する機会はなかったが現在では唯夜の信任を受けて上級王補佐の地位に就き、その才能を活かしている。唯夜の招集にすぐに応えられるように領地も唯夜の直轄地に隣接している。
「ええ。ええ。お任せください。ご命令とあらば喜んで」
カルルックは糸目をさらに細めて答えた。彼は二十代前半で将軍としてはかなり若い。彼より若い将軍はセレスとトゥイアしかいない。
「とはいえ…これ以上介入する必要はないでしょう。公権力が不要に介入すれば経済に混迷をもたらします。必要なのは商業によって発生する紛争を解決するための法規でしょうね」
「なるほど。俺に法律はわからんから君らに任せることになる。よろしくー」
唯夜も政治や経済、法に関する勉学に励んでいるがどうにも身に入らない。どうやら向いていないのだろう。
続いては四年後に再侵攻を開始するであろう帝国に対しどう対処すべきかについてだ。帝国は対帝国戦線同盟方面に配備していた兵力を動員して西方諸国の平定に乗り出した。同盟諸国は秘密裏に西方諸国に資金や兵器を流したり、移民と称して兵を送ったりもしている。四年間の平和で同盟が成長することも重要だが帝国の繁栄を阻止する必要もあるのだ。
「四年後、条約が失効すると同時に帝国領に攻め込んで毎度の如く焼き討ちするしかないな。先制攻撃をされるとさすがにまずい」
「ですがそれは帝国も予想しているでしょう。前もって兵力を配置することが予想されます」
「だからネルブリンゲンを得て手に入れたものを使う」
唯夜は諸将に命じ、彼らにとって全く新しい練兵を行わせた。




