皇太子アレキサンダー
山地を迂回してきた五万の帝国騎兵がロックス王国の野営地に急襲をしかけた。突然の夜襲によってロックス王国軍は混乱の淵に追い落とされた。帝国騎兵は驚き、慌てふためく雑兵たちに槍を突き立てて殺して回った。
「もっと火をつけろ。大声で叫んで走り回れ。同盟の犬どもを混乱させろ」
太陽を切り取ったような黄金の髪に陶磁器のように白い肌、海のように美しい青い瞳の美丈夫が兵士たちに指示を送る。彼はフェールハイト帝国皇太子アレキサンダー。比類なき戦争の天才と称される名将である。並外れた美貌の持ち主であり、闇夜の中でもその輝きは失われていなかった。
時を同じくしてミネルヴァの帝国軍本隊も城への攻撃を開始した。これまでとは違う総攻撃である。同盟軍は混乱しながらも勇敢に戦ったが城は挟撃されて崩れ去り、多くの兵が討ち取られた。城壁は破壊され、同盟軍は逃げ惑う。帝国の将兵たちは皇帝の名を讃え、帝国の栄光を叫んで逃げる同盟軍の兵士の背中を貫く。
最も混乱状態に陥っていたのはメズル王国の将兵だった。総司令となるドーヴェンが姿を消してしまったからだ。彼らは組織だった抵抗をすることができず、各個に分断されて擦り潰された。
「雑兵に構うな! 同盟軍の将の首のみを狙え!」
組織的抵抗力を失ったメズル軍の残党を捨て置き、次の獲物を狙う。
雷光の如く迅速な動きでロックス王国軍、ブレンティン王国軍の組織的抗戦を無力化したアレキサンダーは次の標的をホーストン・ヒューベル軍に定め、彼らがいる方向へ軍を差し向けた。彼らは数百騎ほどのヒューベル兵を見つけ、追いかけた。
その時、彼らの前方と左側から無数の矢が降り注いだ。ヒューベル軍は帝国軍の松明を狙って攻撃をしている。
「松明を捨てて右に前進し、攻撃を受け流せ!」
「はっ!」
将校らの判断は速かった。兵士の動きも速かった。
兵士たちは矢の雨を耐えて前進する。しかし先頭部隊が何かに激突して転倒した。後続の部隊も何が起こったか理解できず、そのまま突っ込んで衝突し、倒れた。
「ば、馬防柵だ! 突撃止め! 突撃止めー!」
「止まれー!」
兵士たちは止まろうとしたが地面には油が大量に撒かれているため簡単には止まれず、また後続の部隊は先鋒の部隊の状況が伝わっておらず前進を続けたため、混乱は拡大した。
落馬した兵士が自分の手に付着した油を見て自らの運命を悟った。
「撃て!」
ヒューベル軍が一斉に火矢を放つ。それは帝国軍の足元の油に着火し、動きを止めた帝国兵を焼き殺した。火を避けようとした帝国兵に矢が降り注ぐ。
「一度態勢を立て直す! 退け!」
アレキサンダーは部下たちを連れてすぐに引き下がった。迅速な判断であった。唯夜はその動きに合わせて部下に後退を命じた。反撃に出て勝てる相手ではないからだ。今は小細工で敵の進撃を一時的に止めただけ。またすぐに攻撃を行うだろう。
あちこちから悲鳴が聞こえる。助けを求める声が聞こえる。極度の緊張で視界が赤く明滅する。胃の中のものがせり上がってくる感覚を覚えた。これが敗北の感覚。手綱を握る手が震える。
唯夜は唇を噛んだ。これが初めての敗戦であり、自らの能力を超えた敵と戦わねばならぬ未来を想像して眩暈がした。
同盟軍は戦略レベルでの敗北を喫した。ここからの挽回は今すぐには不可能だ。今、アレキサンダーに対して小規模作戦レベルでの勝利をしたところでこの劣勢は覆らない。すべきことは一兵でも多くこの戦場から生きて撤退させること。しかしそれは簡単な仕事ではない。現在組織的に動けているのは襲撃から離れていたヒューベル軍とコリントの命令で前もって奇襲に備えていたホーストン軍だけだ。
「将軍、我々はひとっ走りして友軍を助けてきます。将軍は逃げてきた友軍の保護と誘導をお願いします」
「任せたぞ。小僧、死ぬなよ」
コリントは笑う。
「ええ。将軍もご無事で」
唯夜は兵士たちを率いて炎と殺戮の渦中に飛び込んでいった。兵を分散させて戦場を駆け巡らせる。逃げ惑う兵士たちを宥め落ち着かせ、退路を示してやる。全ての兵を助けることはできないので包囲されて手遅れになっている者は諦めて助けられる友軍のみを助け出すことにする。
「唯夜さん」
唯夜らが遭遇したのは七海率いるエクレン軍だった。その数は三千ほど。七海を含め、皆が負傷していた。
「七海さん。無事だったんだ。よかった!」
「ええ。おかげ様で」
茜が七海の傷に治癒魔術をかける。
「他の軍はどうなった?」
「ここより北には同盟軍はいません。私たちが殿を務めましたから。いたとしてももはや助けることはできないでしょう」
「さすが。それじゃあ逃げよう。最後尾は俺たちがやる。オイゲン、先導任せた。フェルナー隊は後方につけ!」
「はっ!」
「やるしかありませんな」
唯夜は殿を務めるヒューベル軍の最後尾を駆けながら後ろ向きに矢を放って敵を馬上から撃ち落とす。しかし手の震えは止まりそうにない。考えがまとまらない。何でも器用にこなしてきた唯夜にとって敗北や失敗は滅多に経験しないものであり、挫折に慣れていなかった。
同盟軍はホーストン王国軍の尽力と各国の将兵の奮戦により、半数の兵が南に逃れることができた。殿部隊の最後尾を務めていた唯夜はいくつも傷を受けながらも無事に追撃を振り切った。
「し、死ぬかと思った…」
唯夜の背中には二本の矢が刺さっていた。
「た、唯夜さん、大丈夫ですか?」
茜が唯夜の背中の矢を抜こうとする。
「大丈夫。ちょっと刺さっただけだから」
ヘスティアが矢の周辺の生地を軽く引っ張る。すると矢はくるりと回転して抜けた。ヒューベル軍の兵士の多くが軽装騎兵であるが唯夜が着用しているような荒絹の生地に綿を詰めたジャケットを装備している。矢を跳ね返したりはできないが矢が刺さっても軽傷か無傷で済む。
傷の手当を終えた唯夜はその場に座り込んだ。
「これが負け…か」
空を仰ぐ。初めて経験する敗北だった。彼は敵が迂回してくることには気づいていたものの敵は彼の想定を大幅に越えて迅速に出現した。想定が甘かったと言う他にない。何より全軍騎兵で来るとは夢にも思わなかった。
「ですがなぜ、あの敵軍はここまで速く回り込めたのでしょうか」
ヘスティアが尋ねる。
「奴らは山地を迂回してきたんだ」
「ですがそこはメズル貴族らの領地がいくつもあるはずです。抵抗がなかったにしても報告程度は届くはずですが」
「事前に調略は済んでた。貴族どもは裏切ったんだ。領地を素通りさせ、物資を供給すること、そのことを同盟軍に伝えないこと」
唯夜は頭を掻いた。そのような卑怯者の末路は決して明るくはないだろう。戦いを避けるのは懸命な判断だ。しかしそれは目先の利益を選んだだけに過ぎない。売国奴を一体誰が信用するというのだろうか。帝国は彼らを良くは思わないはずだ。今は良くても数年もすれば難癖をつけられて処分されるのが目に見えている。メズル王国が帝国の侵略を撥ね返したとしてもそこに彼らの居場所はない。逆賊として処刑されるのは明らかだ。責めはしないが同情もしない。
「多分だけどメズルのドーヴェン将軍も買収されてる。問題はこれからのことだ。王国北部はもうどうしようもない。問題は南部だけど山岳地帯ばっかで俺たちは上手く戦えないんだよな」
騎兵は山岳や森林での戦いには不向きである。ヒューベル領にもそういった地形はあるため実戦経験はあるが不得手であることに変わりはない。
「それに時間の問題もありますね」
セレスが言う。
「敗戦の報を知れば同盟各国は遠征軍の撤退を決定するかもしれません。そうなった場合、メズルの敗亡は免れず次はホーストンかエクレンが狙われます。各国が判断を下す前にせめて帝国軍の戦力を削らねば…」
「そうなんだけどねえ…どうも良い策が思い浮かばねーのよ。軍略とかよくわからん。俺はいいとこ詐欺師みたいなもんだし」
青年は笑う。諸将も呆れたような笑みを浮かべる。昨日の戦いで同盟軍は兵力の四割が戦死し、二割が戦闘不能の重傷を負い、一割が脱走している。戦闘可能なのは三割程度。うち半数はホーストン軍だ。エクレン軍、メズル軍、クルブリヒト軍が一万ずつ。残りの軍が少しずついるという状態だ。エクレン軍は主将のマクベス公が戦死し、副将の七海が指揮を引き継いだ。メズル軍は主な指揮官は存在せず、千人長や百人長が各隊を率いている状況である。対して帝国軍は三十五万以上の兵力が残っている。
「烏合の衆で四倍近くの敵と戦うのは自殺行為だ。だからもう帰った方がいい気がする。てかもう帰りたい。とても帰りたい。すごく帰りたい」
「情けないこと言わないでください。メズルが陥落すればホーストンが侵略の目に遭うことは免れません。私共は良くとも唯夜様は…」
唯夜は欠伸をする。
「すぐには攻めてこないはずだ。連日の戦いで兵は疲れてる。休ませずに進軍してくるなら俺たちにもやりようはある」
「ではメズルを捨てて帰還して何をなさるおつもりですか?」
彼は自分の考えを仲間たちに語った。




