第35話 レベル1の魔神
「……ワタシの前に、あなたがなぜ、立ちはだかるであるか」
黒い衣装が翻る。
まるで漆黒の翼のように広がりたなびいていく。
彩斗の正体がベリアルだと断じたエルンストの前で、アルシエルが守るように両手を広げてみせた。
黒いウェディングドレスのような衣装をなびかせ、爪のリコリスを伸ばし、牽制し、毅然と彼女は言葉を紡ぎだす。
「――一つ、気が付いたことがある」
首を傾げたのはエルンストだ。
「何に気が付いたのであるか。彩斗のゲヘナの異常性を覆せるものであるか。それとも、彼とベリアルの血液の一致であるか」
アルシエルは横に首を振った。
「どちらも違う。それらは覆せない。彩斗は、ゲヘナを他の者より長く操れるし、血液はベリアルのものと同じで合っている」
エルンストは眉根を寄せた。
「……では、どういうことであるか。あなたはなぜ彩斗を庇う」
「その前に思いだせ。ベリアルの異名を。奴は、エレアントで何と呼ばれていた?」
意外な問いかけに、エルンストもフレスベルグも沈黙する。スララが不安そうに、姉の様子を見つめる。険しい顔つきでアルシエルは、
「――皆、思いだせ。ベリアルはそのあまりの強大な力から、三つの異名を持っていた。それはいったい、何だった?」
緊張を孕んだ沈黙が訪れた。思案の間が数秒ほど続いた後に、
「――黒き大蛇だよ」
スララがまず言った。
『石像庭園、だっけ?』
フレスベルグが答えた。
「そして三つ目は――」
エルンストが答えようとして、ハッとした。他の全員も同じだ。その最後の異名を思い出して、言葉を詰まらせる。アルシエルは続けた。
「三つ目は、『円環の鎧』だ。これはいったい何を意味すると思う? ……黒き大蛇は、ゲヘナのことを示す。一撃でどんな魔物をも倒せる暗黒の火炎だ。二つ目の石像庭園は、石化の魔法のことだ。ベリアルは相手を石化させることに長けていた。……では『円環の鎧』とは、何だ。それが最後のピースだ。それが判明して、初めて私たちはベリアルを理解することができる」
絶句して皆がアルシエルの言葉を待っている。その答えを、凝視して待ち望む。
「私は、円環の鎧が何なのか、その正体を知らない。復讐心に駆られていた私は、ベリアルを殺せればいいと思っていた。だから奴の能力より、どうやって奴を苦しめればいいか、そればかり考えていた。私はベリアルのことを、全ては知らなかった」
それは全員が共通する。誰もがベリアルを脅威と思いつつ、彼のことを全ては知らなかった。
「しかしベリアルのことをよく知っている者がいる。その者は天空宮殿の中にいる。彼女は、かつてのベリアル・ゲームの時から、この宮殿でメイドをしていた者だ。彼女なら、ベリアルの全てを知っている」
そう言って、アルシエルは呼んだ。彼女の名を、最後の鍵を持つ者を。
「シャノン! 隠し部屋の本はもういい! 先にこっちへ来て、説明しろ!」
しばらくして、皆の前へ姿を表したのは、先ほど大宝物庫へ行ったメイドの少女だった。
シャノンは彩斗やスララが倒れている状況を見て、怪訝に思いつつも、アルシエルのそばへと寄った。
「どういたしましたか、アルシエル様。そのような大声で――」
「ベリアルの円環の鎧とは何だ。それを今説明しろ。それが終わったら大宝物庫まで戻っていい」
唐突もいい命令に、怪訝な顔のまま少女は小首を傾げた。だが一同が見つめているのに気づくと、やがて話し始めた。
口調は静かに、柔らかく。それでいて、かすかな畏怖をも感じさせる声音で、彼女はベリアルの最後の秘密を口にする。
「ベリアル様の――いえ、ベリアルの円環の鎧は、死亡しても転生できる魔法のことでございます」
衝撃という名の槍が皆の体を貫いた。皆の目が、凝然と開かれる。
「ベリアルは、たとえ死んだとしてもそれで終わりません。自らにかけた『転生の魔法』により、何度でも姿を変え、蘇生することが可能なのです」
彼女は皆の顔を順繰りに見つめながら、続ける。
「ベリアルはこの宮殿でベリアル・ゲームをしていた際、わたくしに言いました。自分は死亡したとしても、転生して蘇る魔法を持っていると。有事の際には、自動で発動するようにしていると。そう語って聞かせました。実際、生まれて間もなくの頃、二回ほど転生したことがあると話していました」
わずかに震えるのはエルンストだ。かすれそうになる声を抑えながら、
「まさか、殺しても滅ぼせない――などと、そんな力を本当にベリアルは持っているのであるか……?」
呟くエルンストに、シャノンは深く頷いて肯定する。
「あります。歴代の魔神の中にも、そうした魔法を持つ者がいたとか。……ただ、『転生の魔法』は、蘇生してもすぐに元の記憶や力が戻るわけではないようです。命だけはすぐに元に戻りますが、蓄えた記憶と、力を取り戻すには相応の年月を要すると。完全な復活の時間は、力が多ければ多いほど長く掛かると、そうベリアルはおっしゃっていました。だから魔神となった今では、相当な年月――おそらくは数百年でしょう――膨大な月日をかけて、元に戻るのだともおっしゃっていました」
深海の底のような沈黙が降りる。
誰も、何も口にしない。言葉を忘れたかのように唖然と立ち尽くす様はまるで彫像であるかのようだ。
その沈黙を破り、かろうじて言葉を紡ぎ出したのは、アルシエルだった。
「……わかった。よく話してくれた、シャノン」
「いえ。わたくしの知識がお役に立てるのなら、いつでもお呼びください」
「……そういうわけだ、エルンスト」
そして視線は、白衣の青年へと向けられる。
「それが真相だ。私たちはベリアルの全てを知ってはいなかった。足りないピースがあるまま、結論を導こうとした。そうだ、つまりは――」
苦い顔つきでアルシエルは言った。災厄の魔神の全ての事実。そして現在の状況。様々な謎が氷解して出た答えが、目の前にある。
「――ベリアルは、すでに死んでいる。そして転生し、新たな姿で召喚されている。そう考えるのが、妥当だ」
円環の鎧とは、何度も同じ状態に戻れる力。転生の魔法のこと。
ベリアルはアルシエル・ゲームの最中、まったくその気配を見せていない。
彼はその強大な力ゆえに、長い年月をかけて、記憶と力を取り戻さなければならない。
そしてそのベリアルと同じ血液は、彩斗が持っている。
つまりは――。
「彩斗。君は、魔神ベリアルの転生体。死んで記憶を失い、力を失って、何も知らないまま私に召喚された――レベル1の魔神。それが、君の本当の正体だ」
誰も、息をすることすら忘れたかのように、凍りついていた。
呆然とエルンストが立ち尽くす。スララが目を見開いて彩斗を見る。メイドのシャノンは両手で口を覆い、フレスベルグも一言も発することはなかった。
お互いの鼓動音すら聞こえるほどの、深い静寂。
「ボクが……ベリアル? その、生まれ変わり?」
彩斗の呟きに、無言でアルシエルが頷いた。
「そんな、まさか……。ボク、全然、そんな実感なんてないんです。ボクは元の世界では目立たない人間で、特別な才能も特徴もない高校生で、いつも影が薄くて、存在感がないと言われていました。まさか、そんなことが……」
「君の右手の甲には、火傷の痕があるだろう。それはいつ負ったものか、わかるか?」
彩斗はハッとした。
「……ずっと小さい頃だと思います。記憶がないんです。親も、知らないと言っていました。どこで、どうして火傷したのか、全然わからなくて――」
そこまで言って、彩斗は口ごもった。
負った記憶のない火傷と、『大戦』で右腕に消えない傷を負ったベリアル。聖剣でつけられた傷は魔神の魔法でも癒えることはなく、だからこそアルシエルはそれを頼りに無数の人間や魔物を召喚した。
全てが彩斗の正体を示す要素として符合している。
「彩斗がベリアルの転生体かどうか、簡単に調べる方法があるのである」
エルンストが長い沈黙を経て、口を開いた。
「今からゲヘナを使ってみるのである」
「え……?」
「普通、闘技中でなければあの黒い業火は生み出せない。ゲヘナは闘技専用の技である。しかし、もし本当に君がベリアルの生まれ変わりであるならば、今でも出せるはず」
「彩斗……」「彩斗」『マジ? 彩斗が?』
皆が口々に言う中、彩斗は自分の右手を見つめた。
本当にあるのだろうか。そのような力が。誰より弱いと思っていた自分に、かつてエレアントを支配した魔神の力が、隠されているのだろうか。
戸惑いはほんの数秒だった。確かめなければならない。アルシエルの復讐が終わっているのか、全ての元凶がどうなったのか、不明だった全ての答えを導き出す方法が、自分にある。
彩斗はきゅっと唇を結んだ。
右手を掲げる。天井へとまっすぐ伸ばしてみる。そして小さく息を吸い込み――。
「ゲヘナ!」
直後――黒い火花が手のひらから出る。
ふわふわとたゆたい、天井へ向かってゆっくり浮かんでいく。
それは闘技中の業火と比べれば微弱もいいところだ。速度はないし、規模も小さい。勢いもない黒い火花は、出現して数秒後には空気に溶けていった。
だが、それで判明した。
極めて小さい力とはいえ、その黒い火花が、何よりの証明だった。
黒き大蛇と石像庭園を使いこなし、円環の鎧で、死すら超越する魔神。その生まれ変わりは――彩斗だった。




