第30話 灼熱の魔神④
「お姉ちゃん、また少し、怪我しちゃった~」
それは、まだ姉妹が一緒に集落にいた頃。
魔神となる前の、アルシエルとスララの平穏な会話。
「なんだ、またか。まったく、お前はいつも危険な場所ばかりに行く」
「だってお姉ちゃんが遊んでくれないんだもん。わたし、寂しいよ~」
「……すまないな。でもこれだけは覚えていてくれ。わたしは、スララのために毎日頑張っている」
「ほんとう~?」
「そうだ。お前と一緒に遊ぶために、わたしは行動している。だからもう少し待っていてくれ。わたしはいつか、お前とたくさんの時を、一緒に過ごす。そのために私は日々を研究に費やしているんだ」
「……うん、わかった。わたし、もう少し我慢する~」
「ありがとう。スララ、お前は私にとって、大切な宝だ」
† †
スララのリコリスだったものが熱で蒸発する。
灼熱の巨壁が突き進んだ後には火の粉と残り火しか存在しない。
赤々と戦場を染め上げていた破滅の炎は、端から端まで燃やし尽くすと、役目を終えたかのように虚空へと散っていった。
全ては焼かれ、灰になり、あるいは蒸発し、融解し、決戦の舞台は遮るもの一つない更地となる。
「ああ……」
かすれた声がアルシエルの口から細く洩れる。
「スララ……? そ、そんな、私は、スララを倒してしまったのか……?」
その声には後悔が宿っていた。目元から伝っていくのは大粒の涙。体を震わせて、戦場を見渡して、アルシエルは目の前の光景にがくりと膝をつく。
「なんてことを……、私は、そんな、大事な妹に、なんて仕打ちを……」
火の粉と水蒸気が立ち昇る中、幽霊のようにアルシエルは顔色を失わせる。
水色の髪で可愛らしい顔の少女は、すでに戦場にいない。華やかな笑みやあどけない表情、誰にでも優しい少女は灼熱の彼方に消え、後にはアルシエルの慟哭だけが響き渡る。
「違う、違うんだ」
アルシエルの声が震えている。
「私は投降しろと言ったんだ。スララはきっと、投降すると思ったんだ。ベリアルを殺すにはアルシエル・ゲームを続けるしかない。でもスララはやめろと言う。だから、私はこの闘技を……スララを諦めさせるために仕方なく戦って……」
ぱきりと音が鳴る。彩斗とエルンストを守っていた岩が、音を立てて崩れた。中から二人は這い出る。だが泣き崩れるアルシエルを見つめ、彼らは何も言葉も発することなく、唇を噛みしめるしかなかった。
「こんな結末を望んでいたわけじゃない」
アルシエルは自分を抱きしめた。
「スララは私の宝だ。残された大切な家族なんだ。スララなしでは生きられない。私はスララのために戦ってきた。狂気と、憎悪と、無念に苛まれながら、必死にスララとの未来を掴むために、ここまでやってきたんだ。それなのに、それなのに……っ」
魔神は両手で顔を覆い尽くす。
「スララ、どうしてお前がいなくなるんだ……ううぅ、うぁぁ……ううぁぁぁ……」
涙が両手の隙間からいくつもこぼれていく。
その涙の一つ一つが、スララへの愛情だった。妹のために残していた最後の優しさの欠片。大事にしまっておいた姉らしい感情の塊が、ぽろり、ぽろりと落ちていく。
「嫌だ、嫌だよぅ、スララ。お前がいなくなったらどうすればいいんだ。お前と過ごす日を楽しみにしてやってきたんだ。ベリアルのいない世界の中で、お前と幸せなひと時を過ごせれば、私はそれで良かったんだ。魔神になど、なりたくはなかった。アルシエル・ゲームなんてしたくなかった。だが、だが、私にはそうするしか、できなかったんだ。ごめん、ごめんよ、スララ。最後まで、馬鹿なお姉ちゃんで、ごめんよ……」
幾筋もの涙が悲しみの嗚咽と共に流れていく。
「ああ……妹は、スララはもういない。私が消してしまった。スララは何も悪くないのに。私のせいで消えてしまった。じゃあ、、じゃあ、後は何が残る? そうだ、決まっている。ベリアルを倒すしかない。それしか、残ってないじゃないか」
とめどなく流れ出た涙が――不意に止まる。
ゆらり、とアルシエルは幽鬼のように立ち上がる。
その瞳には、理性など欠片もない、獣の光。
「そうだ、過去は変えられない。スララは私のせいでいなくなってしまった。だからせめて、ベリアルを殺さない限り、スララは報われない。父さんや、母さん、イータやヨーテやサダラーも、みんな無念を抱いたままだ。そうだよな、ベリアル。全てはお前が起こしたことだ。お前さえいなければ良かったんだ。そうすればみんな幸せのままだった。お前だ、お前が悪いんだよ、ベリアル。お前が……っ!」
優しさの涙の代わりに出たのは紅い涙。憎悪の篭った塊。理性が駆逐されたアルシエルの執念が、彼女の瞳から流れ出る。
「そうだ、ベリアルを殺す。今すぐ殺す。アルシエル・ゲームにいる全員を殺せば終わるじゃないか。誰かがベリアルには違いないんだ。そうだ、もうゲームなんていい。同じ苦痛を味わせるなんて贅沢は言わない。ベリアルを殺せればいいんだ。それでいい。ベリアルの可能性のある者、全て焼き尽くせば、それで悲願は達成されるっ!」
烈火の爪が膨大な勢いで伸長する。紅蓮の風を巻き上げ、アルシエルは彩斗とエルンストに振り返る。
「まずはお前たちを消し飛ばしてやろう。そもそもお前たちは誰だったか。夜津木? サイクロプス? ガルム? マルギット? 誰? 誰なの? でも、もうどうでもいいか。なぜならお前たちは、これから焼き尽くされるのだからッ!」
リコリスの爪が槍のように伸ばされる。
かろうじて残っていた体力で、彩斗とエルンストは転がって回避する。
だがその動きは、鈍重もいいところだ。彩斗の左肩が浅く抉られ、エルンストの足が猛火で痛みに嬲られる。苦痛に呻く彼らの前で、アルシエルは爛々と狂気だけを振りまいていた。
「フフハハハハハハッ! ベリアルの可能性のある者は殺ス。焼いてやるッ! ハハ、アハハッ、我こそは、魔神アルシエルなり――ッ。復讐の業火を、思い知レッ!」
リコリスの分体が無数にばらまかれた。その総数は五十を超え百を超えている。全てが火柱のように伸び上がり、触手が虚空を染め上げる。
彩斗もエルンストも、もはやかわせる体力も気力も残ってない。彼らは、歯をぐっと食いしばり、目の前の光景に諦めかけ――。
その直後、上空に輝く光を見た。
「な、なんダッ!?」
驚きと共にアルシエルが仰ぎ見る。
彩斗とエルンストも呻きながら上空を確認する。その向こう、天井に限りなく近い位置で、虹色の泡が煌々と光を放っている。
そして見た。
奇跡を見た。
その虹色の泡の中、水色の髪と細い体、半透明の長い房――一人の少女が、目を瞑って、虹色の泡に守られるように入っていた。
「あれは――スララ……?」
彩斗の声ともアルシエルの声ともつかない響きが洩れ出た。
虹色の泡はゆっくりと天井から落ちてくる。その天頂には美しい花。虹色に輝き、神々しいまでの煌めきを放つ、一輪の花だ。九枚の花弁を眩く光らせ、暖かな光を帯び、泡は彩斗たちとアルシエルの、ちょうど中間点へと舞い降りた。
「スララっ!」
泡が弾ける。少女が地面に横たえられた。痛む体に鞭打って、彩斗が必死に駆け寄っていく。震える手で、彼女を抱き上げた。
「スララ、返事をして! スララっ!」
「……あ、あれ? 彩斗? わたし……」
地面に落ちた虹色の花が役目を終えたかのように枯れていく。それを見て、彩斗は全身を震わせ確信した。
「マルギットに貰った、アビサールの花……」
発芽すればあらゆる災いから身を守るという、伝説の花。彩斗たちにとっては二回目の闘技、ガルム・マルギット戦の後に、最高の人形師マルギットから貰った種子。
その発芽する条件は、なんだったか。
マルギットは石になる直前、『愛』が発芽の条件だと言っていた。
「スララからアルシエルへの家族愛……? それとも姉妹愛……? いや、そんなの、今はどっちでもいい」
彩斗はスララに肩を貸して立ち上がらせた。最初はぼんやりとしていたスララも、彩斗を見て、周囲を眺め、そして無数のリコリスの分体を従えたアルシエルを視界に入れ、全て悟った。
「彩斗、もしかしてまだ闘技は、終わってないの?」
「そうだよ、スララ。まだ終わってない。まだ取り戻せるんだっ!」
決然として、彩斗は魔神を振り返る。
「アルシエル、あなたも見てほしい。まだ終わってない。あなたの妹はここにいる。そう、掴めるんだ、スララとアルシエルが、平和に暮らせる未来を。あなたたちは、取り戻せるっ! だから――」
「い、今さら、どうして出た……? なぜ私の前に出タ……? おお、なぜだ、死んだはずの妹が、なぜかここにいル……ッ」
おぞましいものでも見るかのように、アルシエルが後ずさる。
もう彼女の中で、スララは死んでしまったものと認識されていた。自分が焼いてしまった妹はすでになく、魔神の力による獄炎を受けてなお、目の前にいるならな、それはこの世ならざる者として認識される。
「死んでまで私を責めるのか、スララよ。罪深い私に許しを与えることはないというのか……っ、そ、そんな、なんということだ……っ、ああ、アアァ……ッ」
「違う! アルシエルっ! よく見て! 亡霊じゃないっ! あなたの妹だ、本物のスララなんだっ! 信じてくれっ!」
「お姉ちゃんっ! わたしはここだよ、お姉ちゃんっ!」
「違う……スララは死んだ、私が焼いてしまった……っ! ダジウスの輝石を持った私は魔神となった。ベリアルを殺せる炎を手に入れた。私の炎に、スララは耐えられない! アアッ、妹の亡霊が私の前にいルッ。怖い、怖いよ、助けてスララッ! ウアアアアアッ!」
リコリスの分体が烈火の触手を伸ばす。
とっさに彩斗はスララを押し倒して避けさせる。けれどアルシエルは恐怖に染まり、手を緩めない。
猛火が中空を切り裂き、無数の触手がスララを焼かんと迫り来る。
「くそ、ゲヘナっ!」
彩斗の右手から黒い業火が現れ触手を燃やす。斜めに宙を突き進んで視界一杯の触手を消し飛ばした。
だが、足りない。状況を覆すには手が足りていない。なおもアルシエルは腕を振り回し、分体を生み出していく。
「ゲヘナは、どこまで持つんだ……っ!?」
放射したゲヘナを保ちつつ彩斗は腕を振って新しい分体からの触手を焼き尽くす。巨大な黒の大蛇を、右腕の延長のように、鞭のように、歯を食いしばりながら操っていく。
触手が燃える。黒い業火に飲み込まれ、消滅する。
彩斗のゲヘナが切れた。
彼が倒れる寸前、エルンストが残る気力を振り絞り、高く声を張り上げる。
「ゲヘナっ!」
さらに分体を作ろうと腕を振り上げていたアルシエルが、歪んだ顔のまま後ろに退避する。
途中で激痛が走ってエルンストはすぐにゲヘナを消失させてしまった。怯える表情のまま、アルシエルは体を震わせて叫ぶ。
「すまないと思っている。私は愚か者だと思っている。だから、責めないでくれスララ!いつまでも、私の前に出ていようというのか……? それは、それはやめてくれ、お前に責められたら私は苦しくなってしまう。怖くなってしまう。確かに私がお前を殺したことは事実ダ。でも、でも、どうしようもなかったんだ。お願いだ……スララ、許して。亡霊になんてならないで。ごめん、ごめんよ、スララ……っ」
「違う! そうじゃない! スララはまだ無事なんだ! アルシエルっ! 目を覚ませっ!」
「やめて、お姉ちゃんっ!」
スララが駆け寄ろうとするとアルシエルが鳴き声を発してリコリスの分体を生み出す。十、二十、次々と地面へばら撒かれた分体から槍が、剣が、斧が、烈火をまといながら襲いかかってくる。
怯えるアルシエルの操作は甘く、直撃の軌道はほとんどない。だが熱気が溢れすぎている。疲弊し気力を奪われ目がかすみ始めた彩斗は、必死で体を起こす。
「エルンストさん! こっちへっ!」
白衣の裏地から残っていた全ての短剣を青年は投げつける。触手と相打ちになって砕け散る中、エルンストが駆け寄ってきた。
「どうするのであるか、彩斗」
「今から、最後の攻撃を行います。協力してください」
「わかった」
疲弊しつつも了承する。
「だが皆、もはや体が限界である。やれるであるか?」
「やります! 絶対にやり遂げます! でないと、スララもアルシエルも、あまりに悲しすぎる……!」
エルンストはすすけた顔でゆっくりと頷いた。
「ではワタシがまず突撃する。倒れても構うな。アルシエルの目を覚まさせることだけを考えろ」
「はいっ! ――行こう、スララ!」
「うんっ!」
エルンストがポケットからガラス管を取り出す。それを自らにかけ、強制的に疾走を促した。
そして矢のように走る。
体の痛みも限界も無視した疾走は、彼に激痛を植え付け、気絶寸前の状態をもたらすが、エルンストは猛然とアルシエルへと突き進む。
「これが最後である! ――ゲヘナっ!」
黒い大蛇がうねりつつ放たれる。
錯乱状態のままアルシエルは必死で避ける。もはや、彼女に冷静さなど一片も残っていない。エルンストが血反吐を吐きながら進む。ポケットからガラス管を取り出す。跳躍して逃げることもできないアルシエルへ、突進しつつぶちまけた。
「なんだ、これハ……っ」
アルシエルの動きが鈍る。本来は巨人でも地面へ伏せさせる液体だった。だが魔神と化したアルシエルには、数秒の動きの停滞と、わずかな間の動揺しかもたらさない。
しかし、その間にも、彩斗たちは疾走していた。
スララのリコリスの先端が錐状に変形する。
冷気振り撒くコンバットナイフを、彩斗がその錐に添える。
冷気に晒され、たちまち凍りついていくリコリスの錐。硬度が増した。魔法の冷気による硬質化だった。スララがリコリスの房部分を凄まじい勢いでねじる。先端が硬質化した状態で猛回転する錐状のリコリスは、もはやドリルのようだった。そのままスララは駆けた。猛然と突き進む。姉の元へ向かって一直線に迫り――。
「やめろ、来るナッ!」
「お姉ちゃんっ!」
疾走の勢い、アルシエルへの想い、未来への希望、それら全てをつぎ込みスララは突貫した。氷のドリルが吸い込まれるように、アルシエルの額――その中央に直撃する。
大きく仰け反るアルシエル。その、最大の隙を前にして――。
「ゲヘナ――っ!」
彩斗の放った黒い業火の大蛇が、全てを終わらせるために、猛々しく、豪然と、突き進んでいった。
次回は明日、日曜日に更新の予定です。




