第31話 魔神の涙
コロシアムは静けさに覆われている。
誰も、何も口にしない。注がれるのは驚愕の視線であり、動揺を含んだ気配だった。
完全に静音のままの観衆席を後にして、彩斗ら一行は、ガーゴイルに連れられて第一層のアルシエルの部屋へと歩いていた。
「ベリアルはあたしたちから全てを奪った……」
スララに肩を貸してもらいながら、懺悔するように、アルシエルはつぶやいた。
「幸せな時間も……楽しい未来も。笑顔あふれる瞬間を、奪っていった。だから殺してやるつもりだった。あたしが罰を与えるのだと、ベリアルに同じ思いをさせて、復讐するのだと……そう、思っていた……」
憔悴したアルシエルをスララは優しく抱きしめた。もう戦いは終わり、悪夢は覚めたと、暖かな体温でそれを伝えていく。
「毎日が、憎しみとの戦いだった……。油断すれば、すぐに憎悪で私の理性は消えるとわかっていた……だからスララのことを毎日考えて、それだけは防ごうと務めた。スララの弾んだ声、明るい笑み、あどけない仕草……何度も何度も、そればかり頭に浮かべようとした。でも、ベリアルへの憎しみは日に日に強くなる一方で、抑えるのもままならない状態だった……」
すでに闘技での傷は全員癒えている。腕輪は闘技の終了と同時に治療の魔法を発動させ、それはゲヘナでの傷すら癒やしていた。
しかし精神的な疲労までは治せないため、スララはアルシエルに肩を貸し、その後ろで彩斗が支え、彼らの前にエルンストやガーゴイルがいた。先頭をガーゴイルとして、一同はアルシエルの部屋へ向かっていた。
「今でも消えはしない、私の中の憎悪の炎は。私は、ベリアルが憎かった。でも、そうしていると、スララは悲しむんだね……。ごめん、ごめんな、スララ。愚かな姉で、ごめんな……」
「もういいんだよ、お姉ちゃん」
スララは柔らかな声をかけた。
「自分のことを愚かなんて言わないで。わたしのことを考えていてくれたことは嬉しい~。わたしこそ、ごめんね。ずっとずっと、お姉ちゃんは苦しんでたのに。わたしは何もできなかった。だから今度からは、わたしがお姉ちゃんの助けになる。お姉ちゃんも、わたしを頼って。姉妹なんだよ、たった二人の姉妹なんだよ。困ったときがあったら、わたしに言ってほしい~」
アルシエルは、溢れんばかりの感情を抱いていたが、それを表す言葉が出ない。
「すまなかった……。お前には心配をかけっぱなしで……寂しい思いばかりさせて……私は、姉として、一人のスライムとして、失格だ」
「ダメだよ、お姉ちゃん! そんな自分を追い込んだら!」
スララが珍しく怒ったような顔をした。
「そうやって自分をどんどん追い込むのは良くないよ。お姉ちゃんにはわたしがいる~。昔はお転婆だったけど、今は違うもん。お姉ちゃんのピンチはわたしのピンチだよ。だから……」
少し、涙声を滲ませて彼女は言う。
「もう一人で暴走しないで。わたしにも相談して、お姉ちゃん」
「スララ……」
ぎゅっと、姉妹は目元に涙を溜めたまま抱き締める。小さな震えが互いの体に伝わっていた。これまでの孤独感や虚しさ、後悔の現れが、余すことなく伝わり、小さく彼女たちは嗚咽した。
全員が立ち止まり、姉妹のくぐもった声だけが広がっていく。
「……ゲームは、終わらせる」
数分ほどそうした後、アルシエルがふと口にした。
「闘技は私の負けだ。アルシエル・ゲームは今日をもって終了させる。全てのペアは開放し、治療した後、元の世界に帰そう。それが……私が成すべき、最低限の償いだ」
「お姉ちゃん……」
涙を滲ませていたアルシエルだが、彩斗とエルンストに向き直ると、真摯な表情を向ける。
「彩斗、エルンスト。お前たちも……すまなかった。本当に、お前たちには何と言っていいのか……」
「いえ……そんな」
思わず言葉尻をすぼませ、彩斗は口ごもる。
なんと返せばいいのだろう。
アルシエルは確かにベリアルの暴虐の被害者で、復讐に駆られてゲームを開催したという事情はある。けれど大勢を巻き込み、アルシエル・ゲームに投じさせたという事実は変わらない。
彩斗には糾弾する権利があって、そうすることも解答の一つなのは間違いない。
けれど、アルシエル・ゲームがなければ彩斗は変わることができなかった。
影が薄く、未来に希望がなく、灰色の人生を送っていたことは想像に難くなく、おそらくはその通りになっていただろう。
不幸と偶然と奇跡が重なり合って至る現在は、アルシエルに対して罵倒一つの選択肢だけではなく、他の選択肢もあることも示している。
アルシエルの弱さと苦悩、スララへの愛情も知っている彩斗は、瞑目した後、
「……ボクは、今はもう、アルシエルさんを悪くは思ってないです」
静かな口調のまま、アルシエルを見た。
「ここへ来てから、いっぱい怖い思いをしました。どうしようどうしようって、何度も膝を抱えて悪い夢みたいに思っていました。開催者のアルシエルさんを憎んだこともあります」
でも――今は違うと、彩斗は付け加える。
「スララとの関係を知って、ベリアルの残虐さを聞いて、最後の闘技をして……思ったんです。アルシエルさんは、自分の中の憎しみと戦ってる。必死に抑えながら、何とか被害を最小限にしようって思ってる。それを、痛いくらいに感じました」
憎悪に歪む復讐鬼の瞳に、砂粒ほどの後悔を見た。
紅蓮の爪が振るわれ、大気が焦がされるとき、彼女の魂は叫んでいた。
ベリアルが憎い。殺してやりたいくらい憎い。けれど同時に、これ以上やれば戻れなくなる。理性が死に、破壊の衝動のまま牙を剥く獣になる。それだけは嫌だ、スララとの平穏が遠ざってしまう。
矛盾という名の牙が心を抉り、砕き、引き裂かれそうなスララへの家族愛だけが必死に繋ぎ止めていた。
「ボクは何度か、アルシエルさんの攻撃を受けましたけど……致命傷はなかったです。これは、意識のどこかで、アルシエルさんが手加減したからじゃないですか?」
「……偶然の産物だ。私はあのときお前はどうなってもいいと思っていた。殺意に満ちていたのは確かだった。そんなもの、免罪符にもならない」
彩斗は首を横に振った。
「殺意があって、本気で攻撃したのは本当だと思います。でも……なんて言うか……『直撃』させる意思は、なかったんじゃないですか? だって、そうじゃないとおかしいです。戦う訓練もしたことないボクが、こうしていられるなんて。ボクが五体満足なこと自体が、アルシエルさんが自分の中の憎悪と戦った、証拠なんじゃないかって、今は思います」
「……」
見つめる先のアルシエルの瞳には大きな後悔があった。それに潰されないように、少しでも彼女の未来を紡げるように、彩斗は穏やかに続ける。
「アルシエルさんがやったことは、どう考えても悪いことだと思います。それはもう変えられない。でも、アルシエルさん自身が変わることは、できると思ってます」
「変わる……?」
「……はい。スララが今言ったように、彼女を頼ってほしいです。助けあってほしいです。ボクも……スララのおかげでたくさん救われました。戦いはまだ怖いけど……それに立ち向かえる勇気をもらいました」
夜津木との闘技と思い出す。ガルムとの激闘が頭に過ぎる。
いつだって心は挫けそうになっていた。けれどスララの励ましが、笑顔が、彩斗に力を与え、不可能を可能にした。
「今度は、アルシエルさんが、スララからもらってください。困難に負けない勇気や愛情を。それが、ボクからアルシエルさんへの、お願いです」
精一杯頭を巡らせて、瞳に力を入れて、彩斗は自分の気持ちを素直に言う。
「彩斗……」
「同感である。ワタシも彩斗と同じ結論しかない」
エルンストが、大きく頷いて言った。
「過去も大事だが未来も重要である。アルシエル、あなたはこれからベリアルという過去に縛られず、未来を見据えて歩むのである。今回のことは、あなたにとって最大の失敗だろう。しかし失敗したらそこで終わるのではない。失敗は新たな始まりなのである。スララと手を繋いで進む――明日への第一歩。ワタシは、そう思うのである」
「……みんな」
アルシエルの声が、涙で震えている。かすれる声でかろうじて伝える。
「みんな、ありがとう……」
感極まって、アルシエルが両手で顔を覆って泣く。
孤独な戦いは終わりなのだと。他にも方法はあるのだと。そう諭された彼女は、十数年の間、自らを縛り付けていた無念や哀しみ、憎悪の鎖から解き放たれ、声を上げてすすり泣いた。
静かな嗚咽だけが回廊の中で響き渡る。
こぼれ落ちていった雫を、スララが優しく拭っていった。




