第23話 彩斗の決断
天空宮殿は妙な静けさに覆われていた。
開催から数日が経ち、巻き込まれた人間も、魔物も、状況に順応し小さな混乱は起こさないようになっている。初期には怒鳴り声や反抗の意志のこもった罵声を発していたペアも、連日ガーゴイルに鎮圧され、鳴りを潜めている。
みんなが諦めかけているのだと、彩斗はそう思った。いまのペアたちはかつての彩斗と同じ。自分の無力を嘆き、どうしようもない状況に流され、空虚な日々を送っているのだ。
絶望の上に絶望が重なり、止めどない負の感情が山のように積み重なっている。
それを変えられるのはスララだけ。そして諦めかけている彼女を励ませるのは、彩斗だけだった。
自分の背中に、彩斗は重圧を感じる。けれど、弱音だけはもう吐きたくなかった。
絶対の支配者であるアルシエルの部屋の前に着く。メイドの少女がスララの姿を見とめ、折り目正しく礼をした。
「お帰りなさいませ、スララ様」
「うん、ただいま~。アルシエルはいる?」
「はい。今日は特別に機嫌が良いらしく、ガーゴイルを仮想敵としてベリアルの心臓を貫く練習をしておられます。良い夜ですね」
微笑むメイドの少女は魅力的な美しさだった。スララは硬い顔の彩斗を振り返った。
「行くよ、彩斗~」
「うん、入ろう。スララ」
「アルシエル、ただいま~」
メイドが開けた扉の奥へ、二人は入る。敷き詰められた紅蓮色のカーペットが鮮やかに視界に入った。
その直後、響くのは岩を砕く音。
燦然と燃える火炎の爪。
紅蓮色のカーペットのあちこちに、砕かれたガーゴイルが転がっていた。残骸はただ単純に転がっているわけではなく、ある種の規則性に従って転がされている。
その規則性とは、とある生物のシルエットを模す配置。
背中に六枚の羽がある悪魔のような影。二本の脚と鋭利な六本の爪。それらを備えた邪悪な魔神の形になるように、ガーゴイルの残骸は転がっている。
「ベリアルを殺す。ベリアルを殺す。ベリアルを殺す。ベリアルを殺す。ベリアル殺す」
呪怨を口走りながら、黒いウェディングドレスのような衣装を翻してアルシエルは爪を振りかざす。
「グエぎャ」
奇妙な声を撒き散らし、ガーゴイルが胴体を貫かれて砕け散る。
紅蓮の爪で貫かれたガーゴイルの残骸は、わずかに震えると、ただの石ころのように沈黙する。それらを拾い上げ、アルシエルは魔神の影――ベリアルを模したと思われる六枚の翼のシルエットの上に、足していった。
「おお、お帰り、スララ」
「ただいま~。アルシエル」
上機嫌のまま振り返ったアルシエルに、スララは親しげな言葉を交わした。
けれど改めてそばで聞くと、スララは自分の感情を抑えていると彩斗はわかった。
表面だけ友好的な笑顔。悲しい気持ちを必死に押しとどめ、毎夜スララは説得に来ていたのだ。
「少し散らかっている。すぐに椅子を用意させよう。――シャノン!」
呼ばれて、入り口で礼をしたメイドの少女が、静かな足取りでやってくる。
豪奢な木製の椅子を三つ用意して、彼女は退出していった。
「今日は良い夜だな、スララ。なぜか体を動かしたくなる」
「そうだね~」
アルシエルが促したままに、スララと彩斗は椅子に腰掛けた。アルシエル自身も優雅に腰掛ける。
「今日の闘技は、見事な結果だった」
アルシエルは口の端に笑みを浮かべながら、賞賛する。
「ガルムとマルギット。あの二人は、全てのペアの中でも優秀な逸材。よくそれに対抗し、打ち勝った。私はお前の姉として、誇りに思う」
「ありがとう~。アルシエルも今日は、すごく良い貫手だったよ~」
にこやかに言葉を返すスララの声を聞きながら、彩斗はここに来る直前、回廊でのやり取りを思い出す。
『アルシエルとはね、うまく話を合わせないと大変なんだよ~』
スララは、回廊を歩きつつそう説明した。
『アルシエルはね、ゲームが始まってから……ううん、魔神となってから、すごく情緒が不安定なの。機嫌が良いと思ったらすぐに悪くなる。食べ物の話をしていたらベリアルの話に、花が綺麗だと言っていたらベリアルの話に、すぐに変わっちゃうの』
スララは密やかな声のまま続けた。
『それと、アルシエルの中で、原因と結果はあんまりくっついてない。ある事実だけを見て、それについて話をすることが多いの。例えば……』
スララは、まだアルシエル・ゲームが始まる前、ゲームの中止の説得をした。けれどその結果としてアルシエルは邪魔をするなと怒り、スララをゲームに参加させてしまった。
しかし、その因果関係は、現在、アルシエルの中で正常に繋がってない。
スララを『邪魔に思った』ことと、アルシエル・ゲームに『参加させた』ことは、別の話として認識されている。
『そもそもアルシエルは、記憶も欠落することがあるの。わたしはいま、アルシエル・ゲームに参加させられているけど、アルシエルは『なぜ』わたしが参加しているかを忘れてる。何か理由があって残酷なゲームに参加していると、普段は思ってるの。だから時々、言われるよ。『スララ、お前はなぜこんなゲームにいるんだ。誰だ、私の妹を陥れたのは、ベリアルか、許さないぞ、ベリアル』って、言うときもある。矛盾ばっかりの会話になると思うけど、そこは注意して~』
聞きながら、彩斗は寒気がした。もはやアルシエルの中では、正常な思考すら回ってないのだ。脳裏はベリアルのことでいっぱいで、わずかな空きのスペースに、スララへの愛情や、両親への家族愛などが残っている。
彩斗はふと我に返る。アルシエルが優雅に腰掛けながら言った。
「そこの少年」
「あ、……はい」
「今日の闘技は見事にスララと戦ったな。褒めてやろう。ちっぽけなナイフで、あのガルムに立ち向かったことは、賞賛に値する」
「ありがとう、ございます」
「スララは少々おてんばで困ることもあるだろう。これは集落にいたときから、しょっちゅう外に出ては、危険な洞窟や森にばかり行っていた。おかげで女らしさよりも、あどけなさばかりがある」
「だって、アルシエルは家でこもっていたんだもの。わたしは一緒に遊びたかったすら~」
「そうか、それは悪いことをしたな。私は家で研究をしてばかりだったからな」
ふとアルシエルは考えた。
「まあ……何の研究だったかは覚えていないのだが。忘れるということは、大した研究ではなかったのだろう、そうだ、きっとそうだ」
華やかに、アルシエルは笑んだ。
スララは彩斗に耳打ちをしてくる。
「家でベリアルを倒す方法を模索してたことを忘れてる~。やっぱり、記憶が時々抜け落ちてる。話すときは、うまく合わせて~」
彩斗は冷や汗をかきながらも、小さく頷いた。
「なんだ、内緒話か」
アルシエルは少し寂しそうな顔になった。
「ゲームが始まって仲良くなったのか。羨ましいことだな。スララ、お前はわたしに対して、そういうことはしてくれなかったのに」
「アルシエルも、してほしいの~?」
「ああ、こそこそ話は――そういえばスララが小さい頃、一度だけされたな。あのときは、何だか耳がくすぐたかった」
「それなら、今耳打ちしてあげる~」
スララは姉の耳元へ口を寄せた。
「アルシエル、大好き~」
途端にアルシエルは頬を緩ませた。
「はは、子供みたいなことを言うものではない。恥ずかしいではないか。……そういえば、少年」
「あ、はい」
彩斗は思わず身構えた。
「スララとは仲が良いみたいだが、いつも妹とそういうことをしているのだろうか?」
「え……いや、その」
「たまにするよ~。こうやって……」
スララは彩斗の耳元に口を寄せた。極めて小声になり、
「もう少し機嫌を良くしてからの方が説得は進むと思う。彩斗も、うまく合わせて~」
「う、うん」
「むっ」
アルシエルは少し妬けた表情に変わった。
「またも私の前で内緒話とは……。スララはいつまでも私のそばにいて、男になど興味ないと思っていたが。やはり異性とは親しくなりたいのか……」
少しだけしゅんとした空気をアルシエルは見せる。
「そんなことないよ~。わたし、アルシエルが一番好きだよ~。ほら」
リコリスを伸ばして、スララは姉の目の前に持っていく。
アルシエルは手で応じ、妹のリコリスを優しく撫でていった。
安らかな笑みが彼女に生まれていく。柔和な表情で、ゆっくりとスララのリコリスを撫でる姿は至福そのものだ。
「少年よ」
「はい」
「このゲームの間、スララのことを頼む。これはまだまだ精神的に幼くて、色気よりも食い気な娘だが、私の大事な妹だ。とてもとても大切な、残された家族だ。守ってやってほしい。妹が闘技に負けて石になってしまう姿など、私は絶対に見たくない」
「はい。それは……もちろんです」
素直に返しながら、因果関係が抜けていると、そう彩斗は察した。
アルシエルがスララをゲームに参加させたことを、彼女は忘れているのだ。
「ボクは、初めの頃はスララに助けられてばかりでしたけど、もうそんなのは嫌です。スララと一緒に、勝ち抜いていきたいと思っています」
「ああ、ありがたい。お前のような少年がスララのパートナーで、本当に良かったと思っている」
アルシエルは虚空を見つめつつ続けた。
「私はいつも、闘技の時間は胸がざわめくのだ。妹が負けてしまわないかと。命の輝きが一片もない石像になってしまわないか、心配で、心配でたまらない。殺人鬼と巨人のときは最後まで肝を冷やした。あの老犬や人形師のときは、思わず叫びたくなった。私は怖くて、胸が痛くなる。今のように、スララと会話も出来ない日が来るかと思うと、夜も眠れない」
心配の視線は妹へと向く。
「ああ、スララ、どうか最後まで勝ち残ってくれ。私を一人にしないでくれ。お前の笑顔が何よりの私の力になる。手を伸ばしてくれ、スララ。お前の温かい手を……」
「うん、アルシエル、大丈夫だよ。わたしはここにいるよ~」
差し出された姉の手を、スララは優しく握った。
すぐさまアルシエルは口の端を緩ませ、幸せそうな表情になる。
「ああ、スララ。お前だけが安らぎだ。いつまでも私のそばにいてくれ。絶対にこのゲームを勝ち抜いてくれ。その間に私は、ベリアルを殺す。あいつを倒し、鎖で縛り上げ、四肢を拘束し、眼を繰り抜き、爪を剥がし、解けた鉄を口へとぶち込んでやろう。耳と鼻を削ぎ、体中の皮を剥いで、全身の関節を砕き、私の業火で焼きつくすのだ。それで全てが終わる。そうして奴を滅ぼし、平和を取り戻したなら、スララ、今度こそ集落で幸せに暮らそう」
胸に苦しさを覚えて、彩斗は小さく呻く。アルシエルの中では、ベリアルへの憎しみでいっぱいなのだ。けれど、スララへの愛情も忘れていない。ベリアルへの激情とスララへの心配の狭間で揺れるアルシエルは、すでに壊れかけている。
笑っても、何をしても、その瞳は濁っている。半分ここではないどこかを見ている。きっと近いうちに、アルシエルは精神の限界が来てしまうだろう。
もしかしたら、ベリアルもそれを感づいていて、何もしてこないのかもしれない。魔神を倒そうと足掻くアルシエルを見て、楽しんでいるのだ。そう思わずにいられないほど、アルシエルは不安定に揺れていた。
「わたしもアルシエルと同じだよ~。早くアルシエルと、一緒に暮らしたいな」
スララは甘えるような声を出した。
「だから、もうこんなゲーム、やめにしようよ。わたし、もうあんな闘技、続けたくないよ」
「――いま、なんと言った?」
急激に、アルシエルの声の温度が下がった。
「え……?」
「お前はいま、アルシエル・ゲームを、やめろと言ったのか?」
「だって、このままじゃ、アルシエルは――」
「愚か者がっ!」
怒気が熱風となってスララを襲う。たちまち起こった紅蓮の風がスララを、彩斗を呑み込む。とっさに二人が椅子から転げ落ちるようにして離れた二人に、
「アルシエル・ゲームを途中でやめるだと!? それはできない、絶対にできない!」
それまでの穏やかさが嘘のように、怒気へと塗り替わっていた。
「ベリアルは殺さなければならない。あの卑劣で、傲慢で、冷酷なる魔神を殺さなければ、ゲームは終われないっ!」
「でもアルシエル、このゲームは、残酷すぎるよ」
とっさにスララは言い返す。
「アルシエルも、見たはずだよ~。闘技に負けて、泣きながら石になった人を。それを見て、なんとも思わないの?」
「些細な問題だ! ペアたちが石になろうともベリアルを殺すためには仕方がない。アルシエル・ゲームは、ベリアル・ゲームの残酷なものを全て受け継いだ。奴は自分の造ったゲームに怯えながら、精神を蝕まれればいい!」
スララが悲しそうに目を伏せた。
「でも、関係ない人たちまで巻き込むのはダメだよ。そんなこと続けてほしくない。ガーゴイルに乱暴されて、塞ぎこんだ人がいるのも知ってるはずなのに」
「それも同じこと! 全てのガーゴイルはベリアルが創りだした。だが今度はガーゴイルがベリアルへ恐怖を与える。牢屋に閉じ込められ、自由を奪われ、己の創造物の石像に連れられて、奴はコロシアムへ行く! 言い様だ! 胸がすくようだ!」
「武器を他のペアに奪われて怪我をした人たちもいるのに。彩斗も襲われかけてひど目に遭いかけたんだよ。これからもそういうことをされるペアが出てくるかもしれないよ。それも、仕方がないの?」
「瑣末な問題をいくつも言うな。私はお前が石化しなければ後はどうでもいい。奪われる恐怖をベリアルも感じれば私の心は多少なりとも満たされる。もっと奪われればいい。ベリアルは自分の武器を、パートナーを、希望を剥がされて無様に泣けばいい!」
スララは一瞬アルシエルの顔を見て、言葉を詰まらせた。
怒りと憎しみで彩られた、復讐鬼の姿が目の前にある。
「アルシエルの体だって、危ないのに。わたし、故郷で聞いたよ。アルシエルを魔神にした、ダジウスの輝石は、持ち主の命を削るって。このままゲームを続けたら、アルシエルも倒れちゃう。わたし嫌だよ。そんな姿は見たくないよ。だから、」
「ベリアルを殺せばこんな輝石すぐに捨ててやる。だが奴が正体を現し、私に挑むまでこれは外せない。ベリアルは自分以外の全てを見下していた。私のことも、ゴミのように冷酷に見下した。思い知らせてやる! かつてゴミと侮った私の炎に焼かれ、奴は骨まで溶かし尽くされればいい!」
すすり泣くような声音がスララから洩れる。声を震わせた彼女は、哀願するように声を絞り出した。
「こんなの、間違ってるよ。お母さんもお父さんも、やっちゃダメだってきっと思ってる。集落のみんなも、アルシエルのことを心配していたよ。やめてほしいよ。みんな、アルシエルのことを怖い目で見てた……」
「恐怖を他者へ与えられる存在になったことは、私にとって好都合だ! それはすなわちベリアルに並んだということ! ベリアルに並んだということは、私はベリアルを殺せる立場にある! 誰もができなかった! 勇者も龍族も巨人族も精霊王も誰もベリアル殺しを実現できなかった! 大戦はベリアルに愉悦を与えるものでしかなかったッ! だが、私が変える! そんな歴史を私が変えるッ! ベリアルに断末魔を響かせ、父さんと母さんの無念を晴らし、この世界に、永遠の平穏をもたらしてみせるッ!」
ダメだ、これはもう無理だと彩斗は痛感する。
アルシエルはベリアルへの憎しみが強すぎて、正常な判断なんてできない。思考の最優先はベリアルで、もうスララの言葉ですら通じない。
呪詛と共に紅蓮の風がアルシエルの全身から放たれていく。スララがリコリスの膜を作るも、爛れて崩れ落ちて床に散らばっていく。
彩斗は、スララの辛そうな横顔を見ながら、唇を噛み締めた。
やるしかない。自分がこの流れを変えるしかない。彩斗は精一杯の勇気を振り絞り、体を鼓舞し、可能な限りの声を張り上げた。
「それは無理だ、アルシエルっ!」
「――なんだと?」
憎悪で濁った視線が、彩斗に突き刺さる。
「アルシエル、そんな平穏は訪れない。スララと幸福な日常を送ることはできない。なぜなら――このままゲームを続けた場合、ボクはわざと負けるからだっ!」
「な……に?」
初めて、アルシエルの顔が硬直した。
「あ、彩斗……?」
「アルシエル、よく聞くんだ! ボクはもう、これ以上不毛な戦いなんかしたくない。でもお前はゲームはやめないと言う。だったら簡単だ。次の闘技で、ボクはゲヘナをスララに当てる」
「貴様……っ」
「自爆の一撃だっ! 彼女が逃げようとしても、当ててやる。それで闘技にわざと負ける。そうしたら、どうなると思う? 魔物が倒れたらそのペアは終了。当然、ボクは石になる。でも、スララも石になる。妹が石像と化した世界でも平穏と言えるのなら、勝手にゲームを続ければいいっ!」
「貴様ァァァァァアッ!」
怒気が激しく膨れ上がり、寒気が彩斗の背中を這い回る。
「私の妹に、牙を向けると言ったな!? どうなるかわかっていてほざくか、人間ッ!」
「わかっていて言ってるんだ!」
彩斗は呑み込まれそうになる自分を鼓舞し、勇気を絞り尽くして、叫んだ。
「このゲームを続けば、どんどんアルシエルの状態は悪くなる。そうすればスララは、今より悲しむことになる。ボクは何度も彼女に救われた。ボクが役立たずでも、闘技で怯えていても、彼女はいつも明るく太陽のような笑顔で、ボクに希望を与えてくれたんだ。でも、そんなスララでも、あなたの話をするときだけは悲しそうな表情になる。ゲームが進めば、もっともっとスララは苦しい思いをするだろう。そんなスララを見るのが、ボクは辛いんだ。今よりもっとひどくなるなんて、想像するだけで嫌だ。太陽のようなスララがいなくなって、どんどん元気がなくなる彼女を見るくらいなら、ここで終わりにしてやる。ボクが、あなたからスララを奪ってやるっ!」
「貴様ァ!」
鬼のごとき形相のアルシエルは、今にも彩斗を殺しそうだ。
「そのようなことをほざいて、無事に済むなと思うなっ! 私はお前を、ここで焼き尽くすこともできるのだぞッ!」
恐ろしすぎてどうにかなりそうになる心を、必死に叱咤しながら、彩斗は叫ぶ。
「それもやってみればいい!」
膝が笑う。背筋から汗が滝のように流れる。けれどそれでも、彩斗は言葉を迸らせる。
「ただしその場合、スララが少なからず悲しむことになる。ボクたちは、幸運もあったけど、ここまでやってこれた。一緒に苦難を乗り越えてきた。もうボクとスララは他人じゃない。もしボクが倒されて、スララが平然としていられるなんて、思わないことだっ!」
「貴様……貴様ァ!」
焚き付けすぎた。
彩斗は怒りのアルシエルを見て、焼き尽くされると思った。理性をなくした彼女がどんな行動になるかなんて予測できない。自暴自棄になり全てを破滅に導く可能性が出てしまった。
殺される。
アルシエルに殺される。
這い寄る死の気配を感じ、彩斗は、せめてスララだけでもかばおうと、コンバットナイフの鞘に手をかけ――。
「……なるほど……」
急激にしぼんだアルシエルの声音に、彩斗はナイフの柄を持つ手を止めた。
「二回の闘技を勝ち抜いたのは、まぐれではないようだ」
「……アルシエル?」
スララの声に、アルシエルはいつの間にか立ち上がっていた体を椅子に戻し、深く腰掛けた。
アルシエルの表情が、変わっている。劇的に塗り替わっている。
今にも相手を焼き殺そうとしていた憤怒は鳴りを潜め、深い後悔を湛えた悲しみが、表情に現れる。
まるで、別人だった。彩斗は次の瞬間、ハッとした。
――アルシエルは、情緒が不安定なんだよ。
スララの言葉が脳裏に過ぎる中、アルシエルは片手で顔を押さえ、黙考し、やがて大きく息を吐いた。
「スララを、妹を失うわけにはいかない。彼女は私にとって最後の希望だ。スララ無しでは私は生きていけない。生きていても、意味がない。ベリアルを倒した後の世界に、彼女がいなければ、何の意味もないんだ……」
そして、続ける。彩斗に向け、懺悔するような目つきで宣言する。
「……いいだろう、人間。アルシエル・ゲームは、中断するとしよう」
「え――」
ざわりと、全身の毛が立つのを彩斗は感じる。激昂のスイッチではなかった。スララを持ち出すことは、怒れるアルシエルにとって、冷却のスイッチだったのだ。
「そうだ、スララだけは失いたくない。ずっと、私はベリアルを殺そうとしてきた。だが、それは何のためだ? 両親の仇? 故郷を滅ぼされた恨み? それもある。だがスララを守るためでもあった。そうだ、私は、スララのために生きてきたのだ。妹を、失いたくない。……離れないで……スララ」
「アルシエル……うん、わたし、ここにいるよ~」
思わずスララが駆け寄って、姉の手を握る。それをアルシエルは幸福そうな、それでいて複雑そうな表情で、強く握り返した。
「だが、私の中には二人の私がいる。スララを守りたいという私と、ベリアルを殺そうと躍起になる私だ。わかるのだ、私には。さっきまでの私は、恨みに燃える私だ。今の私は、わずかに残った良心の欠片」
「アルシエル……」
「けれど、今の私は、簡単に消えてしまう。ふとした瞬間に押し流される。そしてまた、お前たちに牙を剥くだろう」
スララがぎゅっと姉の手を強く握る。それを、ほとんど包み込むようにアルシエルは覆った。
「ベリアルへの恨みが、大きすぎるのだ。それは簡単に消えるわけではない。理屈ではなく、私の奥底に刻み込まれた憎悪の炎だ。それを消し尽くすことができない限り、私は、何度でも愚かな行動をし続けるだろう」
冷却されたアルシエルは静かな口調で語る。愛情と憎悪の鎖に縛り付けられながら、必死に未来へ繋げようと、足掻いている。
「だから、きっかけを、私にくれ」
アルシエルは彩斗の眼を見て言った。
「え……?」
「どんな条件でもいい。私をアルシエル・ゲームから解放させるために、何か、条件を与えてくれ」
「彩斗……」
心配そうに、スララは彼の方を見る。
「条件、ですか? でもそれは……」
口ごもる。そんな提案は、予想もしていなかった。
しかし同時に、チャンスだということも彩斗は悟る。残酷なゲームを開催し、ベリアルへの復讐を望むアルシエルは、一方で終わりを望んでいる。心の奥底では、これが限りなく愚かなことで、スララに迷惑をかけるとわかっているのだ。
だからアルシエルがベリアルへの憎悪を上回る感情――スララへの家族愛を優先させることができれば、アルシエルの中でベリアルへの復讐は終わりを迎える。
けれど賭けだ。
やるなら半端なものでは効果がないだろう。
激情の状態と今のアルシエルは、あまりにもかけ離れている。二人のアルシエルがいるというのは本当で、それは簡単な条件では治せない。
できるのだろうか。彩斗は疑念を抱く。
けれど、冷却の状態のアルシエルが長く続く保証はない。彩斗は吟味する時間もなく言った。
「闘技のとき、あなたが魔物として参加することは、できますか」
硬い声音で彼は問いかけた。
「……できる。アルシエル・ゲームは――もっと言えば、ゲームを司る天空宮殿は、これ自体が巨大な魔法具で、あらゆるルールを厳格に組み上げている。人間と魔物のペア、三度だけのゲヘナ、敗北者は石化、優勝者には想示録。これらの基本ルールは、ベリアルが定めたために変えられないが、部分的に干渉することは可能だ。つまり……」
一拍だけ、彼女は間を置いた。
「どれかのペアのうち、代理の魔物として、私が一時的に参加することは――可能だ」
彩斗は、少しだけ考えた。でも時間がない。『今の』アルシエルがいるうちに、状況を繋げなくてはならなかった。
「それなら……次のボクたちの闘技で、アルシエルはそのペアの『代理の魔物』として、戦ってください」
「なんだと?」
アルシエルが目を見開く。スララが振り仰ぐ。彩斗は、続きを一瞬だけためらった。
「そしてその戦いで、ボクたちが勝てば、このゲームを中断させると、約束してください」
「っ――」
つまり妹を自分で手にかけるような状況を作り、アルシエルに良心を取り戻させるのが狙いだった。
もちろん危険な賭けと言わざるをえない。魔神となったアルシエルの攻撃が直撃でもすれば、スララは重症、悪ければそれ以上の事態だってあり得る。生と死の狭間に彼女を陥れることが、博打も博打、普段なら切り捨てるべき選択肢なのは、彩斗だってわかっている。
けれど。
アルシエルの中にベリアルとスララしか存在しない以上、見つからないベリアルより、スララをきっかけにするしか方法がない。
スララだ、彼女だけが唯一アルシエルを変えられるのだ。彩斗はそのために、どうすれば未来への橋渡しができるのか、提案することしかできない。
「彩斗……」
スララが不安そうに見る。彩斗と、無言のアルシエルを交互に伺う。
――応じてくれるだろうか、アルシエルは。
これがダメなら、もう彩斗に手段はない。
冷静なアルシエルはこのまま潮に流されるようにして消え、後には烈火のごとく激しい憎悪のアルシエルが舞い戻ってくる。そして彩斗とスララは再び闘技の日々に戻され、いつか、石になって終わるだろう。
永遠とも言える沈黙が、辺りを支配する。氷のように張り詰めた空気が手を、脚を、全身に至り総毛立たせていく。
了承か。
拒否か。
悩み、苦しみ、目を瞑って思案していたアルシエルの返答は――。
「……わかった。それしかないな。それで、いこう」
繋がった。
一瞬だけ、気が遠くなりかけて彩斗はふらつく。しかしまだ気を失うわけにはいかなかない。最後の仕上げをしなければならないのだ。
スララが、彩斗の名前を呼びながら手を握ってくる。優しい温もりだった。かすれそうになる視界の中で、唇を噛み、己を叱咤して、彩斗は気力を振り絞る。
「……一つだけ確認があります」
アルシエルの瞳を真っ直ぐ見つめる。
「もしその条件で闘技を行って、アルシエルが負けたとき――石化する前に、ゲームの中断はできるんですよね?」
アルシエルは、一瞬後に頷いた。
「もちろん、可能だ。通常は一度ゲームが開催されれば、ゲームを中断することはできないが、ゲームマスターであるわたしだけは例外。石化は、ゲームを中断させれば、行われることはない」
彩斗はほっとした。遠くなりそうな意識を必死でかき集める。
「わかりました。では、約束してください。次の闘技、必ず代理の魔物として、参加することを。そしてもし、ボクたちがあなたに勝てば、ゲームの中断をすることを。……ボクではなく、スララに言ってください」
「……わたしに~?」
「うん。スララに言うのが、大切なんだ」
スララへ宣言すれば、アルシエルは忘れないだろうと彩斗は思った。
この会話の前後の記憶が抜け落ちたり、順番がばらばらになったりしても、妹である彼女への約束なら、きっとアルシエルの中で残る。彼女の思考は、ベリアルとスララで大きく占められているのだから。
アルシエルは、スララを振り返り、彩斗へと視線を戻すと、強く首肯した。
「約束しよう。私は次の闘技でお前たちと戦い、お前たちが勝てばゲームを中断させる」
「ありがとう、ございます……」
希望は繋げた。だが彩斗はそれ以上、意識を保てなかった。
ただでさえ、神経は太いとはいえないのに深い緊張感だった。魔神と相対し、殺気をぶつけられ、限界まで気力を振り絞った体は、脱力感に包まれる。
――良かった。これであと一回勝てば、皆は解放される。
ボクは、ゲームを終わらせる可能性を作ったんだ。
それだけを思いつつ、スララの呼びかけやアルシエルの声を聞きながら、彩斗は大きな達成感と共に、深い闇の中に、意識を委ねたのだった。




