3. 三日で
報せは、朝の冷えとともに来た。
ハウル砦が、門を固く閉じている。
泥だらけの伝令は、濡れた革の匂いをさせ、板の間に立ったまま、二日ぶんの道のことを三度繰り返す。
隊商の頭がその日のうちに差し止められ、後続の列が門前に詰まり、砦は規定どおり門を落としたという。即日で黙らせろと読んだのだから、砦は何一つ間違っていない。
わたくしの手が、机の縁を探っている。何かを掴もうとして、指先には冷たい木しかない。
四日前、この文を生のまま清書したのは、わたくしである。封をしたのもわたくしで、封蝋の色まで鮮やかに覚えている。覚えているものが、二日かけて北へ行き、門を一つ落として、ここへ戻ってきた。
「北の道が止まりますと、王都の塩はどうなりますでしょうか?」
「三月は保ちます。その先は知りません」
「三月、でございますね」
「クラーラさん。今の『知りません』も書いておいでですか?」
「一言一句、と承っておりますので」
この子の筆先は止まらない。わたくしが何を言っても、言ったとおりの形で紙に残る。残ったものは、いつか知らない誰かの目に触れる。
塩よりも先に困るのは、北から薬草を運ぶ家だろう。門が閉まれば道は東へ回り、東へ回れば十日よけいにかかる。乾いた葉なら保つ。青い匂いの残る生のものは、保たない。
施療院へ入る薬のうち、生のものがどれだけあるか。それを数えられるだけの頭なら、わたくしにもある。数えたところで、止める手立てはない。
◇
その日の口述は、五つ目が長い。謁見の間の高い天井の下で、陛下はこう仰った。
「港の荷崩れの件、三日で片付けろ」
机へ戻ると、クラーラは速記帳を開き、背を伸ばして待っている。
「五つ目まで、承っております。(御咳払い)が二つ」
「二つは要りません」
「一言一句、記しましてございます」
クラーラは胸を張る。わたくしは腹の底へ冷たいものが沈むのを感じながら、ますます丁寧に頭を下げる。
「ご立派でございます」
「恐れ入ります」
引くために綴じを開いたことは、二十年で一度もない。開かなくても、十五年前の一枚なら、頁の破れ目まで指が覚えている。
「十五年前、先の陛下が同じ一句をお出しになりました。そのときは〈来る三日のうちに、目録を整えよ〉と書いております」
「何が違うのでございましょう?」
「何の三日か、を書き足しております。それだけです」
「それだけ、で」
窓の下を、干し魚を高く積んだ荷車が、乾いた車輪の音を立てて通っていく。
「サーレ港の商人組合は、数の語を契約の数字と読みます。口に出た数が、そのまま日数になり、目方になる。数の語の無い文は、そもそも契約として受け取らない。百年ぶんの訴えの果てに、あの町がそう決めました」
「では、三日で片付けろ、は?」
「三日で終わらせる義務になります」
クラーラの指が、速記帳の硬い角を撫でている。この子は数を数えるのが速い。速いぶん、先まで見えてしまう。
「……荷崩れの後始末を、三日で」
「人手を全部そちらへ回すほかありません」
「港が、止まってしまいます」
「はい」
クラーラの唇がわずかに開き、その形のまま止まる。膝の上で、速記帳の頁がかすかな音を立て、一枚めくれた。
「止めてよいのでございますか?」
わたくしは筆を置き、この子の顔をまっすぐ見る。
「よくはありません。ですが、命は下っております」
「……一言一句、記しましてございます」
その一行が、いま紙の上に残った。書いたのはこの子で、書けと決めたのはこの子ではない。
◇
「ウェルズ殿」
クヌート様が、静かな足取りで入ってこられる。手には、わたくしが今朝出した二通目の願い。
「後任へ読み癖を教える許しを願う、とある」
「はい」
「一言一句そのまま記す者に、読み方は要らぬ」
「――承知いたしました。重ねて、恐れ入りましてございます」
この方は問いを口になさらない。だから、わたくしの言葉は行き場をなくし、敬語の厚みだけが増していく。厚くなるほど、声は遠のく。
三度目はない。職掌の内側で打てる手を、これですべて使い切った。
◇
午後、クラーラが写しを胸に抱えて寄ってくる。
「ウェルズ様。これは、どう直せばよいのですか?」
わたくしは筆の軸から指を離した。教えれば、この子が職掌の禁に触れる。廃されるのは役のほうで、そのとき同じ縛りを負うのは、次の誰かだ。
「直しません。命が下っております」
「……はい」
「わたくしがお教えできるのは、そこまでです」
「わかりましてございます。そこまで、でございますね」
クラーラは丁寧に頭を下げ、戻っていく。廊下の角で一度だけ足を止め、それから、また歩き出す。
教えないことと、直さないことは、どこで違うのだろう。
その背中が廊下の角に消えてから、わたくしはようやく気がついた。
あの子は、この文をどう直すかと訊いたのではない。
あなたはどうなさりたいのですか、と、もう一度訊いていたのだ。
七日前、あの廊下で聞いたのと同じ言い方である。息を継ぐ場所まで同じだった。同じものを二度聞いて、二度とも取り違えている。他人の言葉を取り違えたことは、二十年で一度もない。
追いかければ、まだ間に合う。追いかけて、何と言えばよいのかが判らない。判らないので、わたくしは椅子の硬い背を感じながら、座ったままでいる。
二十年、他人の言葉の裏側だけを見てきた。裏側が見えるのは誰よりも速い。速いのに、正面から差し出されたものを一つも受け取れない。あの子は、わたくしにいちばんやさしい訊き方をしてくれたのだと思う。それでも、受け取る手は動かなかった。
◇
夕、港への文が発つ。サーレ港までは、馬車で一日である。
階段の踊り場で、隣国の書記官とすれ違った。窓の下では灯がともりはじめ、踊り場だけが薄暗い。
「失礼ながら、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「イーディト・ウェルズと申します」
「アドリアン・アンヴァルと申します。――いえ、申しました、と言うべきだろうか。名乗るのが遅くなりましたので」
「いずれでも通じます」
「では、遅れて名乗った者として申し上げます」
その人は一度、言葉を選び直すように唇を閉じる。
「……あなたの文を、読んだことがございます」
わたくしの足が、そこで止まる。止まってから、返す言葉が一つも喉まで上がってこないことに気がつく。
文を読みました、と言われたのは、二十年で初めてである。読まれるために書いてきたのに、読んだ人の顔を、わたくしは一度もこの目で見ていない。
「失礼を」その人は礼をする。「言うつもりではありませんでした」
「いえ」
「いえ、とだけ仰るのですね」
「……はい」
窓の外はもう暗い。
塔を出るとき、掲示板の前をもう一度通った。布告の紙は雨を吸い、隅から字がにじんでいる。今日は誰も、その前に足を止めていない。
あの女が書いた文で、北の関所が閉まった。そうささやく声が、塔の中にも増えている。
港への文が着くのは、明日である。




