2. 黙らせろ
メルデの使節団は、今朝発つ。
馬車は六台。荷は来たときの半分にも届かない。見送りに立っているのは文書塔の下役三人だけで、宮廷からは誰も出ていない。
朝の霜がまだ石畳に白く残り、車輪がそこを踏むたび、かすかな乾いた音が鳴る。馬の鼻から白い息が立っては消える。
「早うございますね」クラーラが白い息を吐く。「まだ、水利のお返事も届いておりませんのに」
「届いております。三日前に」
「……あの一句が、でございますか?」
「あれが答えです。あちらはそう受け取りました」
クラーラが速記帳をいっそう強く胸に抱え直す。
「追って、こちらからお出しになることは」
「出せるものがございません。あれで、答えは出ております」
「……はい」
三日前の昼、わたくしはあの封を渡す場に立っていた。止められたものは一つもない。止められないと判っていて、それでも見送るというのは、こうして指先の冷えだけが残る心持ちのことをいうのだろう。
使節団の書記官が一人だけ残る。信任状の書き換えを待っているのだ。あれは王の名で出すものだから、陛下の裁可がいる。裁可はまだ下りていない。宮廷の紙は、この一月でずいぶん高く積み上がった。
「アンヴァル様と申されるそうです」クラーラが速記帳の隅を見ながら言う。「団長の代理として、当面は王都にお留まりになると」
「そのようですね」
「あの、ウェルズ様。あちらの方が妙なことを仰いまして」
「妙なこと?」
「『この国は、ずいぶん急いで縁を切るのですね』と。……いえ、『縁を切ってさしあげるのですね』でしたでしょうか?」
どちらだったのだろう。
どちらでも、落ちる先は同じところである。同じところへ落ちるのに、わたくしはその二つの違いを、まだ紙の上で量っている。二十年、そればかりを考えて生きている。
◇
その日の口述には、四つ目があった。謁見の間で、陛下の口からじかに落ちた一句である。
「あの男を黙らせろ」
若い声である。まだ、言葉の目方を量る癖がついておられない。
「北の関所の通行料について、隊商の頭が騒いでおるそうでございます」
脇で、クラーラが註を入れる。
塔へ戻る。窓の下では、荷馬車が一台、きしみながら北へ向かって出ていく。
「二十年前にも、同じ一句を承ったことがあります」
「なんとお書きになりましたか?」
「〈北の関所の通行料を、来季まで据え置く〉」
「……ぜんぜん違うものになっておりますが」
紙を一枚、指先で机の端へ寄せる。
「ハウル砦は命令形を期限の宣告と読みます。期限が書いていなければ即日と読む。三代前に、期限の無い王命で開門が遅れて砦が落ちましたので」
「では、即日で黙らせろ、と?」
「そうなります」
「あの、それは、どういう……」
「隊商の頭を、その日のうちに黙らせる。関所にできることは、そう多くございません」
クラーラの喉が、小さく動く。
「……黙らせる、というのは」
「そこは書いてございません。書いていないことは、砦が決めます」
わたくしは生のまま書いた。〈あの男を黙らせろ〉。八文字が、紙の上でひどく短く見える。
筆はいつもの筆で、墨もいつもの墨である。同じ手が、同じ速さで動いている。紙に残るものだけが違う。
直せるのに直さないことは、直せないことと同じだろうか。
二十年前のあの日は、半刻かけてこの一句を直している。〈来季まで据え置く〉と置くのに、下書きを三度捨てた。今日は下書きが要らない。生のまま書くのに、下書きは要らないのだ。
「ウェルズ様。お手が震えておいでです」
「寒いのです」
「昨日もそう仰いました」
「昨日も寒うございました」
◇
昼、わたくしは第三書記室へ願いを出す。本文には一字も触れず、余白に読み癖だけを書き添えてよいか、という願いである。
願いは半刻で戻ってきた。
「余白も御言葉の一部である」
見慣れたクヌート様の筆。正しい。まったく正しい。正しいものが人を殺すことがあると、この方はご自分で仰ったのに。
願いは二枚に分けて書いている。一枚は砦のこと、一枚は東のこと。返ってきたのは一行である。一行で足りる話に、わたくしは半日かけた。
大書庫へ降りると、書架の陰から子供の足が二本、生えている。
地下は年じゅう同じ温さで、膠と革と埃の匂いがこもる。高窓から落ちる淡い光の帯に、埃の粒がずっと浮いている。
「ばあや」
「ティモさん。そこは通り道です」
「知ってる。だから座ってるんだよ」
十二になる書庫の拾われ子である。膝に載せているのは〈言い直しの控〉のうち、十六年前の一冊。ここには毎年三部のうちの一部が納められていて、書庫の者なら手に取れる。
「読めるのですか?」
「読んだよ。全部」
「では、十六年前の秋のぶんを言ってごらんなさい」
「やらない。……もう覚えてるけど」
そう言いながら、この子はもう、よどみなく暗唱を始めている。生の語と、直した語と、届く先と。三十ばかり続いたところで、飴を一つ渡して黙らせた。
字は読める。書けはしない。書けないので、みんな頭の中へ入れてしまう。入れたものは減らない。そこだけは、わたくしと同じである。
「ばあや、辞めるんだって」
「どこでお聞きになりました」
「みんな言ってる。手を入れてた女だって」
「そのとおりです」
「ふうん」
ティモさんは飴を頬の内側へ寄せる。
「じゃあ、この本、いらなくなるね」
「なりません。読む人がいるうちは」
「読む人、いる?」
「……いまのところ、あなただけです」
ティモさんは頁の端を指先で弾く。
「じゃあ、おれが読むのをやめたら終わりだね」
「そうなりますね」
「やらない」
「何をでございますか?」
「やめるのを、やらない」
◇
午後、北への文が塔を発つ。ハウル砦までは馬で二日かかる。
わたくしは追わなかった。追う手立てが無いのではない。在職の文書官は、職務で知った文書の中身を、役目の外へ漏らせないのだ。その決まりを破れば〈言い直し〉の役そのものが廃される。先々代のときに一度、そうやって廃されている。役が消えれば、次の誰かが同じ縛りを負う。
窓から見ていると、封の赤が馬の背で一度だけ淡く光り、道の角で消えた。二日後の昼には砦に着く。着けば、その日のうちに読まれる。
夕方、クラーラが後任に正式に決まる。推したのはわたくしである。
「ありがとうございます。わたくしめ、ありがとうございます」
「二度は要りません」
「嬉しいときは、二度申し上げてしまいます」
「では、二度どうぞ」
クラーラは深く礼をし、それから顔を上げる。
「ウェルズ様。わたくしめは、うまくやれますでしょうか?」
「一言一句そのまま記すのに、しくじりはございません」
「……それは、ようございますね」
「ええ。ようございます」
クラーラは、そこで初めて速記帳を胸から膝へ下ろす。
「わたくしめには、そのようには聞こえませんでした」
「聞こえたとおりに、お書きなさいませ」
「書いてよろしいのですか?」
「あなたのお役目でございます」
この子はほんとうに嬉しそうに目元をゆるめる。わたくしはその顔を見ながら、いま自分が何を渡したのかを考えている。
それきり、何も言わなかった。誰にこの縛りを負わせるかを、わたくし自身が選んだのだ。
その夜から、二十年ぶんの控えを引くための索引を作り始める。生の語から引けて、届く先からも引ける形にしておきたい。一人でやれば、退官の日までにぎりぎり間に合う。
窓の外で、鐘が二つ鳴った。指の関節が固まり、うまく開かない。二十年ぶんを一人で束ねるというのは、そういう作業である。生の語だけを拾って並べていくと、この国が何を言いかけ、何を言わずにきたかが、頁の順に見えてくる。読む人がいれば、の話ではあるけれど。
油皿の焦げた芯を切って、また書く。手首から先がしびれてきたら、いったん筆を置き、指を一本ずつ伸ばす。十九年前の一枚を書き起こしているとき、あの日に聞いた先の陛下の咳の音まで戻ってきた。戻ってくるものを、わたくしは選べない。
王都では、噂の向きが少し変わったらしい。あの女は二十年、陛下の御言葉に手を入れ続けていたそうだ、と。
塔を出るとき、掲示板の前で下役が二人、また同じ布告の読み方でもめていた。今日は、読み違えたほうが勝っている。
二日後、砦に文が着く。




