1. 勝手にしろ
陛下は、朝いちばんの口述で八つの言葉をお出しになる。そのうち七つは、そのまま書いてよい。
わたくし〈イーディト・ウェルズ〉は謁見の間の隅で、それを耳で受け取る。書き取るのはクラーラの役目で、わたくしの手には何もない。手を動かせば、声のほうが遠くなる。
八つ目で、陛下はこう仰った。
「勝手にしろ」
もう興味の残っていない声である。
◇
文書塔の三階へ戻る。
「ウェルズ様。八つ目は、いかがなさいますか? (御咳払い)が一つ、前に入っておりました。一言一句、と承っておりますので」
クラーラが速記帳の端を押さえたまま、顔を上げる。先月から付いている書記官である。
この子は、本当に一言一句をそのまま書く。
「クラーラさん。今の一句は、どなたへ届くと思いますか?」
「メルデの使節団でございます。国境の水利の申し入れに対する、お答えでございましょう」
「では、メルデが主語の無い文をどう読むかはご存じですか?」
「……存じません」
わたくしは筆を静かに置く。
「王国全体の意思、と読みます」
「では『勝手にしろ』は?」
「ヴェルデンは国として、メルデが何をしようと関知しない。――申し入れの打ち切りです」
クラーラの筆先が、紙の上で止まる。
言葉は、言った人のものではない。受け取った人のものだ。
「十八年前にも、先の陛下が同じ一句をお出しになりました。わたくしはあれを〈王は、貴殿の裁量に委ねる〉と書き改めております。主語を立てれば、王お一人の言葉に落ちる。国の意思ではなくなるのです」
「そんなに変えてよろしいのですか?」
「変えてはおりません。陛下が仰りたかったことを、あちらに届く形へ直しているだけです」
「難しゅうございます」
「二十年かかりました」
筆を取り、八つ目に手を入れる。書き改め終えたところで、扉が開く。
「ウェルズ殿」
戸口に立ったのは、クヌート・ベルガー様である。陛下の側近で、この方は問いを口になさらない。
「恐れながら、申し上げます」わたくしは頭を下げる。「この一文は、そのままではメルデに打ち切りと読まれます。書き改めましたので、お許しを賜りたく存じます」
「小職は、規則を申し上げているのである」
「規則の前に、届く形というものが――」
「陛下の御言葉に手を入れるとは、不敬である。今日より一言一句、そのまま記せ」
墨の乾く匂いが、鼻の奥で急に濃くなる。
「――承知いたしました。一言一句、そのまま記します」
「それでよい」
「二十年ぶんの控えは、いかがいたしましょう?」
「引き継げ。それが規則である」
「重ねて、恐れ入りましてございます」
声は、思ったより静かに出る。腹の底が冷え、指先だけがかすかに熱い。熱が強くなるほど、わたくしの言葉は丁寧になる。二十年、そうやって直してきた。
高窓から落ちる四月の光が、床の石を白く切っている。謁見の間もこの部屋も年じゅう冷えていて、朝はことに湿った石の匂いが立つ。今日はその匂いさえ、やけに遠い。
扉のところで、クヌート様が一度だけ足を止める。
「……名の無い文書が、人を殺すのだ」
それだけ仰って、硬い靴音を残して出ていかれる。
◇
書き改めた紙を手に取る。まだ乾いていない。〈王は、貴殿の裁量に委ねる〉の十二文字が、指の下でまだ湿っている。
この十二文字を置くのに、十八年前のわたくしは半日をかけた。主語を一つ立てるだけのことに、なぜそんなにかかったのか、いまでは思い出せない。ただ、書き上げたとき、筆を握る指が震えていたことだけは覚えている。
先の陛下のあの声を、いまでも覚えている。低く、疲れのにじんだ声。息の継ぎ方まで。責を負う人が一人、名指しで立っているかどうか。二国の条約は、そこだけを物差しにしている。
紙の端をつまむ。湿った紙は、思ったよりも裂けにくい。繊維が一本ずつ引っかかり、途中で音が途切れる。もう一度力を込めると、墨が指の腹へ冷たく移る。
二十年で初めて、自分の文を自分の手で裂く。それから、言葉を生のまま清書し、封をする。
蝋が冷えていくあいだ、指の腹の黒い染みを見る。洗っても、当分は落ちないだろう。
「ウェルズ様、お顔の色が」
「寒いのです」
「今日は暖こうございますが」
「では、そういうことにしてくださいませ」
クラーラは速記帳を開きかけ、指を止めてから閉じる。今のやりとりを記すべきか、迷ったのだろう。
「破ってしまわれた紙は、いかがいたしましょう?」
「灰にしてくださいませ」
「控えには、なんと」
「残りません。直しておりませんので」
「直していないものは、残らないのでございますね」
昼、使節団へ文書を渡す場に、若い書記官が一人控えている。黒に近い焦茶の髪を短く刈った、隣国の人。窓のない部屋で、卓の上には燭台が二つ。封蝋の赤だけが、濡れたように光っている。
封を検める指先が、途中で止まる。
「これは、あの方の手ではない」
声にするつもりはなかったのだろう。わたくしはその脇を通り過ぎる。通り過ぎながら、その息の置き方まで覚えてしまう。忘れられないので、覚えてしまうのだ。
覚えたところで、何にもなりはしない。二十年ぶんの声が、頭の中の棚に積んである。棚は増える一方で、減らしようがない。
◇
午後、わたくしは規定どおり、一月前の辞職を予告する。後任にはクラーラさんを推す、と書き添える。
書式は決まっている。予告の日付、退く日付、引き継ぐ物の数。三行で足りる。二十年勤めた役を降りるのに、三行で足りるのだ。
誰も止めない。
止めるための言葉を、誰も持っていないのだ。命は下り、規則は正しく、わたくしは従っている。
「ウェルズ様」廊下でクラーラが追いついてくる。「あの、どうして……」
「命に従っただけです」
「そうではなくて。……ウェルズ様は、どうなさりたいのですか?」
わたくしは口を開く。細い息だけが漏れ、また閉じる。
喉の奥に、乾いた何かが引っかかっている。それが言葉なのかどうかも判らない。判らないまま、二十年が過ぎている。
「……お答えは、ございませんか?」
「ございません。二十年、一度も」
わたくしは廊下の窓へ目を向ける。石の桟には、朝の水が細く残っている。
「二十年、自分へ向けて考えたことがございませんので。今日も出てまいりません」
「わたくしめは、伺ってはいけないことを伺いました」
「いいえ。伺われて、困るだけでございます」
「参りましょう。まだ七つ、清書が残っております」
「はい。まだ七つ、残っております」
二十年、他人の言葉ばかり直してきた。他人の言葉なら、息の置き方まで覚えている。自分のことだけは判らない。
塔の下で、書記の一人が連れに言う声が聞こえる。陛下の御言葉を勝手に書き換えていた女が、やっと辞めるらしい、と。
聞こえるように言ったのだろう。首筋が少し冷えるだけで、足は止まらない。腹の立て方も、二十年のどこかへ置いてきた。
掲示板では、下役が二人、貼り出したばかりの布告を指してもめている。片方が読み違え、片方が笑う。あの調子で、王都は回っているのだ。
外へ出ると、風はまだ冷たい。石畳には薄く水が残り、その上へ塔の影が長く落ちている。
二十年、この国は戦をしなかった。
三日後に、メルデの使節が発つ。




