4. 来季
最後の日は、窓の光だけが移り、驚くほど何も起こらなかった。
この一月で、北の関所は閉まったままとなり、南のサーレ港は荷役を止めたという。三日で片付けろと命じられた組合は、三日で終える義務を負い、人手を残らずそちらへ回したからだ。港が止まれば、干し魚の値が上がる。王都の裏通りでは、もう値が二割上がっている。
わたくしは、乾いた布で机を拭いた。二十年、同じ場所に肘を置いてきたため、天板の一角だけ色が抜けている。何度拭いても戻らない。
最後の年ぶんの控えを三部そろえ、二十年ぶんを引くための索引を添え、机に置く。文書塔の長へ一部、大書庫の司へ一部、そして王の私室へ納める一部は、クヌート様の手へ。
「これは、なんの綴じでございますか」と長。
「二十年ぶんの控えでございます。生の語と、直した語と、届く先が並べてございます」
「ご苦労であった」
長は綴じの背を指先で一度だけ撫で、それきり手を離す。
「索引は、生の語から引けるようにしてございます」
「うむ」
「届く先からも引けます。ハウル砦、サーレ港、大神殿、メルデ、キルナ。五つで引けば、たいていのものは出てまいります」
「うむ」
大書庫の司は、綴じを脇の書類の山へ載せる。
「お目通しは、いつごろになりましょうか?」
「追って」
三人とも受け取ると、そのまま脇へ置く。長の机には決裁待ちの束が二つ積まれており、綴じはその三つ目になる。
誰も、表紙を開かなかった。
わたくしは、誰かが開くまで待つつもりで立っている。廊下の鐘が二度鳴るまで待ち、それから礼をして部屋を出た。索引の紐を結び直したのは昨夜である。結び目の硬さまで、まだ指が覚えている。
◇
綴じ横丁は、王都の裏通りにある。製本屋と紙屋と膠屋が並び、路地にはいつも少し甘い匂いがこもる。石畳には日が差さず、昼でも黒く湿っている。
「一階でいいんだね。日当たりは悪いよ」
オルガさんは宿の女将で、齢は五十二という。早口で、話の終わりには必ず金の話がつく。
「日は要りません。机が置ければ」
「文机なら物置にあるよ。脚が一本短いけど」
「紙を挟みます」
「あんた、そういうとこは早いね」
オルガさんは框に腰を下ろし、前掛けで両手を拭く。
「家賃は月の頭。言い直しはきかないよ」
「……心得ました」
看板は自分で書いた。〈代書 一語 銅貨一枚〉。
二十年、王の言葉ばかり整えてきた手で、自分の商いの札を書く。気を抜くと字が大きくなりすぎて、三度書き直した。名は入れない。入れる欄が無いのではなく、入れないことにしている。
戸を開けてしばらくすると、何人かが来る。
「一語で恋文が書けるってのは、本当かい?」
「書けません。直すだけでございます」
「じゃあ、あんたが書いたやつを、あんたが直しゃいい」
「わたくしは書きませんので、直すものがございません」
看板を〈一語ずつ銅貨一枚〉と読んで金貨を出そうとする人もいる。隣の膠屋を探して、戸を半分開けたまま詫びて帰る人もいる。
本物の客は、そのあとに来る。
◇
「ハルバルといいます。隊商の荷主で」
北の男の、日に焼けて節くれた手。差し出されたのは自分で書いた嘆願書で、字は大きく、力が入りすぎて紙まで波打っている。
「砦に出しましたら、受け取ってもらえませんで」
紙の端を指で押さえ、読む。最後の一行に、こうある。
――速やかに返答されたし。
「ハルバルさん。ハウル砦は、命令形を期限の宣告と読みます」
「はあ」
「期限が書いていなければ、即日と読む。即日に返答できない書付は、守れない期限を掲げたものとして、受け取らずに差し戻すのです」
三代前、期限の無い王命で開門が遅れ、砦が落ちている。守れない期限を受け取れば、守れなかったという記録が残る。だから、最初から受け取らない。そういう町だ。
「……こっちは頼んでるだけですよ」
「向こうには、頼みと命令の区別がありません。文の形しか見ないのです」
「じゃあ、砦の連中は読めねえってことですか?」
「よく読んでおいでです。読み方が、こちらと違うだけでございます」
「じゃあ、なんて書きゃよかったんです」
男の指が、紙の縁を細く折っている。荷は今も門の外に積んだままだという。外套から、革の匂いと雪の残る道の匂いがする。
「一語、足りません」
「一語?」
「一語だけ、直します」
ハルバルさんは、その場にしゃがみこんだ。それから膝に手をつき、また立ち上がる。
「あんた、書けるんでしょう。書いてくださいよ」
「文は書きません。一語だけ、直します。あとは、あなたの言葉です」
わたくしは紙には触れず、どこに何を足すかだけを告げた。
――来季までに、速やかに返答されたし。
「〈来季〉と、そこへ。ご自分の手で書き入れてください」
「あんたが書いたほうが、きれいでしょう?」
「きれいでない方がよいのです。あなたの願いですから」
十一年前にも、この語を使ったことがある。先の陛下の「返事はいらん」を、〈来季までに返答を求めぬ〉と書き改めた。あのときの相手も、ハウル砦である。同じ語が、二十年のうちに二度わたくしを助けている。
ハルバルさんは、ひどく丁寧に、その一語を書き入れる。筆を持つ手は荷縄を握るときと同じ形で、書き終えるまでに二度、紙から離れた。
◇
銅貨が一枚。それが、一語の値だ。
「これじゃ足りねえでしょう?」
「これで足ります」
「じゃあこれも」
男は籠から鶏を取り出した。生きているほうの鶏である。わたくしが断ると、鶏は羽を鳴らして路地の奥へ走り、膠屋の親父に怒鳴られた。
「持ってお帰りください」
「面目ねえ」
「お荷が通りましたら、それで結構でございます」
ハルバルさんは嘆願書を上着の胸へしまい、その上から二度、手のひらで押さえる。
「明日の朝いちばんで、砦へ出し直してきます」
「今度は、受け取っていただけます」
戸を閉めようと手をかけ、看板の前に人が立っているのに気づく。
「アンヴァル様」
「通りがかりました。――いえ、通りがかったことにしていただきたい、と言うべきでした」
「いずれでも」
「よい字です」その人は看板を見たまま言う。「では、また通りがかります」
その人の足音が、湿った路地の角で消えるまで、わたくしは戸口に立っていた。よい字です、と言われたことも、二十年で初めてである。
裏通りで代書屋を始めたらしい、という笑い話は、その晩のうちに宮廷まで届いたそうだ。
文机の短い脚の下に、紙を三枚たたんで挟む。それで、ようやく水平になる。油皿を一つ灯すと、床石の細い継ぎ目まで見えた。二十年、窓のある部屋にいたのだと、いまさら気がつく。
膠を煮る甘い匂いが、戸の隙間からかすかに入ってくる。三階の高さで働いていたころは、路地の匂いなど一度も嗅いだことがない。
わたくしは、この両手に何を持って出てきたのだろう。
二日後の朝、戸を開けると、湿った石畳にまた人が並んでいる。




