第53話「温室の芽を狙う白い害獣(※冬を終わらせたくない氷霜侯爵)がやって来た」
それから五日後の朝。
温室の隅に並べた発芽用ポットから、小さな緑が顔を出していた。
「出た!」
最初に見つけたのはヤクちゃんだった。
しゃがみ込んで土を覗き込み、まるで宝物を発見したみたいに、両手を口元に当てている。
「ユウト様、見て! ちっちゃい葉っぱ! ほうれん草さんが、おはようって言ってる!」
「ほんとだ。ちゃんと芽が出たね」
双葉は爪の先ほどの大きさだった。たったそれだけなのに、俺はしばらく見入ってしまった。
古い種袋だったから、正直あまり期待しすぎないようにしていた。でも祖父が残してくれた種が、こうして土を押し上げて出てきてくれたのは、なんだか妙に嬉しい。
「発芽率は十二分ですね」
後ろで、アルカがタブレットを見ながら頷いた。
「温度、湿度ともに良好。土壌の状態も安定しています。何よりここ数日、誰も過剰な魔力を注いでいませんから」
「そこ、褒めるところなのかな……」
「ええ。ユウト農園では非常に重要な進歩です」
ゼロさんは、ポットの前に立てた札を少しだけ見やすい位置に直している。エルリアさんは、霧吹きの水量を確かめていた。みんな、芽を囲んで騒ぐことなく、でも少し浮き立った顔をしていた。
こういう朝が、ずっと続けばいいと思った。
その時だった。
パキィン、と……温室のガラスの外側で、氷が走るような音がした。
「……ん?」
窓へ目を向けると、ガラスの端から白い霜が広がっていた。
夜の冷え込みでついた霜にしてはおかしい。朝日が差しているのに、氷の模様は溶けるどころか、まるで生き物みたいに中央へ這ってくる。
「温度が急降下しています!」
アルカの声が鋭くなった。
「温室内、十五度……十度……八度! 外気温はマイナス二十度以下です!」
「急に?」
俺は急いでポットに触れた。土の表面が、さっきまでの柔らかさを失いかけている。
「ユウト様!」
ヤクちゃんが小さく息を呑んだ。温室の外が真っ白になっていた。
雪が降っているわけじゃない。空気そのものが白い。畑も、用水路も、遠くの山も、朝の光ごと凍りつかせるような冷気に包まれている。
その白い世界の向こうから、ゆっくりと何かが歩いてきた。
人の形をしているが、背丈は温室の屋根よりも高い。全身を青白い氷の鎧で覆い、肩からは凍った獣の毛皮のようなものを垂らしている。手にした長い槍の穂先からは、地面を踏むたびに霜柱が広がっていた。
「ようやく見つけたぞ」
声がガラスを震わせた。
「冬の底で眠るべき土を目覚めさせ、春を呼び込もうとする愚か者よ」
エルリアさんの顔から、すっと血の気が引いた。
「あれは……氷霜侯爵グラキエス。北の凍土を支配し、芽吹く土地を凍らせて、自らの領土に変える冬の魔族です」
「魔族にもそんなことする人がいるんだな」
「ルシフェード殿の軍とは別の、旧い一族です。かつては、春を迎える村をいくつも……」
エルリアさんは、そこで言葉を切った。
外の氷霜侯爵は、温室の中のポットを見下ろしている。
「その小さな芽が放つ生命の熱が、我が眠りを妨げた。ならば、芽が土を割る前に凍らせればよい」
槍の先がゆっくりと温室へ向いた。
次の瞬間、地面から氷の柱が突き上がった。
「下がって!」
ゼロさんがヤクちゃんを抱えて、棚の陰へ飛び込む。俺はポットを両腕で抱え、作業台の下へ滑り込ませた。
ガラス一枚隔てた氷柱は、温室の壁にぶつかる寸前で止まった。けれど衝撃で棚が揺れ、霧吹きが床に落ちて転がる。
「芽を傷めるわけにはいかない」
口から出たのは、それだけだった。
草刈り機を持ち出せば、たぶんすぐに終わる。限界突破オーラを使えば、温室の外ごと全部片付くかもしれない。
でも、今ここで大きな力を使えば、棚も、土も、ようやく出たばかりの双葉も無事では済まない。
「ユウト様、どうしよう……」
ヤクちゃんの声が震えている。
俺はポットを床に戻し、深く息を吸った。
「まず、芽を守ろう。ゼロさん、内側の保温カーテンを全部閉めて。エルリアさんは、ポットを母屋の廊下へ運べるよう箱を用意してくれる?」
「承知しました!」
「はい!」
「アルカは、温室の温度を見てて。五度を下回るようならすぐ教えて」
「任せてください」
「わたしも、外で一緒に……」
ヤクちゃんが言いかけたけれど、俺は首を横に振った。
「ヤクちゃんには、芽のそばにいてほしい。寒くて怖くなったら、ちゃんと声をかけてあげて」
「でも、ユウト様が……」
「俺は大丈夫。ゼロさんもポチもいるし、温室の中を守ってくれる人がいる方が安心なんだ」
ヤクちゃんは唇をきゅっと結んだあと、ポットの横に座った。
「分かった。みんな、あったかいところにいるからね。びっくりしないでね」
小さな双葉へ向けたその声は、温室の震える空気の中でも不思議なくらいまっすぐ届いた。俺は、胸の奥にあった焦りが少しだけほどけるのを感じた。
守らなきゃいけないものがあると、以前の俺は一人で全部抱え込もうとした。でも今は違う。芽を移す人がいて、温度を見る人がいて、そばにいてくれる人がいる。
だから俺は、外の問題だけを見ればいい。誰も、無茶に外へ飛び出そうとはしなかった。
ゼロさんが布のカーテンを下ろす。エルリアさんは収納棚から木箱を取り出し、ヤクちゃんはポットの札を一本ずつ抜かないよう、両手で支えている。ポチは唸り声を上げながら、入口の前に立った。
「ポチ、中を頼む」
「ワフッ!」
俺は温室の扉を少し開けた。冷気が顔を殴るように吹き込んでくる。首に巻いたタオルが、一瞬でパリパリになりそうだった。
「逃がすつもりか、人間よ」
「違うよ。寒いから、芽を暖かい場所に移すだけだ」
「芽など、春など、なぜ守る? 冬は万物を静かに眠らせる。眠りを拒む者は、すべて凍てつけばよい」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ腹が立った。
休むことは大事だ。土を休ませることも、無理をしないことも、俺はこの数日で改めて考えた。でも、眠るか、起きるかまで、他人に勝手に決められるのは違う。
「休むのと、凍らされるのは別だろ」
氷霜侯爵の赤い目が、わずかに見開かれた。
「春になりたいやつは春になればいい。眠りたいやつは寝てればいい。でも、芽を出したい種まで止めるのは、ただの嫌がらせだ」
「……矮小な人間が」
地面が低く唸った。侯爵の足元から広がった霜が、畑へ、用水路へ、そして母屋の方へと伸びていく。
温室の中から、アルカの声が飛んだ。
「ユウト社長! ポットの避難が完了しました! 温室内の温度、六度で持ちこたえています!」
よし。俺は凍った地面を見たあと、納屋の方を振り返った。草刈り機を使うかどうかはまだ決めていない。ただ、温室の芽を守る場所さえ作れたなら、外で話をする余地はある。
「グラキエスさん」
俺は、白い息を吐きながら呼びかけた。
「ここは俺の畑だ。勝手に凍らせるのは困る。だから、少し離れた場所で話そうか」
「話すだと? 我に勝てぬと知り、命乞いをするつもりか」
「違う。温室の近くで暴れると、芽が傷むから」
氷霜侯爵の眉がぴくりと動いた。
俺は納屋へ向かって歩き出した。背後でポチが、一度だけ大きく吠える。
雪に覆われた畑の向こうで、冬を終わらせたくない魔族が、ゆっくりと槍を構え直した。
芽が出たばかりの朝は、どうやらのんびり待ってばかりでは終われないらしい。




