第52話「温室の小さな芽を待ちながら、春の畑に急がないことにした」
翌朝、雪は止んでいた。
夜のあいだに冷え込んだらしく、庭の隅に積もった雪は表面だけが薄く凍り、朝日を受けてきらきらと光っている。
「よし、今日は温室でほうれん草の発芽試験をしようか」
朝ご飯のあと、俺は祖父の納屋から持ってきた小さな種袋を食卓の上にそっと置いた。
袋の表には、かすれた字で『寒締めほうれん草』と書いてある。祖父がいつ買ったものなのかは分からない。何年も前の種だとしたら、芽が出なくても不思議じゃない。
「これが、昨日お話しされていた種ですね」
エルリアさんが、袋を傷つけないよう慎重に持ち上げた。
「そう。まずは少しだけ蒔いてみる。芽が出たら、畑に植える分も考えよう」
「すぐにいっぱい育てないの?」
ヤクちゃんが、両手で湯呑みを抱えたまま首を傾げる。
「うん。種にも土にも得意な時期があるからね。急いでたくさん蒔いて、全部だめになったら悲しいでしょ?」
「……そっか。じゃあ、ゆっくり待つ」
素直に頷いたヤクちゃんの隣で、ポチがワフッと短く鳴いた。
温室へ入ると、外の冷気が嘘みたいにやわらいだ。
ガラス越しの陽射しを受けて、冬の野菜たちが静かに葉を広げている。奥の区画では、ゼロさんが発芽用のポットを、まるで儀式の祭壇みたいに並べていた。
「マスター・ユウト。土は、昨日のうちにふるいにかけました。石と古い根は除去済みです」
「ありがとう。でも、夜までやってないよね?」
「当番表に従い、日没前に終えております」
ゼロさんは、少しだけ誇らしそうに答えた。
「それなら完璧だ」
俺はポットの土を指先でならした。ぎゅうぎゅうに押し固めず、種が落ち着く程度に整える。袋を開けると、黒くて小さな種が掌にこぼれた。
「こんなに小さいんだね」
ヤクちゃんが、目を丸くして俺の手を覗き込む。
「これがあの大きな葉っぱになるの?」
「なるよ。土と水と日当たりがうまく合えばね」
「不思議だなあ」
俺も、何度見ても不思議だと思う。どれだけ立派な設備があっても、どれだけ強い仲間がいても、種が芽を出す瞬間だけは、人間の都合で早送りできない。水をやりすぎてもだめだし、毎分のぞき込んでも、明日いきなり森になるわけじゃない。
もっともこの農園では、そうなりそうなこともあるんだけど……。
「あの……、ユウト様ー」
ヤクちゃんが急に小声になった。
「わたし、種に少しだけ女神の力をあげたら、早く芽が出るかな?」
その顔は、いたずらを思いついた子供の顔ではなかった。早く役に立ちたい、と言っている顔だった。
俺はしゃがんで、ヤクちゃんと同じ目の高さになった。
「気持ちはすごく嬉しいよ。でも、今回は何もしないで待ってみよう」
「何もしないのも、お手伝い?」
「うん。水をあげる日を守ること。冷えすぎてないか見ること。芽が出なくても土を責めないこと。そういうのもちゃんとしたお手伝いだよ」
ヤクちゃんはしばらく考えてから、こくんと頷いた。
「じゃあわたし、毎朝おはようって言うだけにする」
エルリアさんがフッと笑った。
「創造神様の農園では、待つことにも役目があるのですね」
「昔の会社じゃ、待ってる時間は全部ムダって言われてたけどね」
口にしてから少しだけ苦く笑う。進捗表の空白を見つけるたび、何か新しい仕事を詰め込まれた。考える時間も、休む時間も、次に失敗しないための時間も、全部削られていった。
でも、畑ではそうはいかない。土が水を吸う時間がいる。根が伸びる時間がいる。人間が焦っているからといって、季節が前倒しになるわけじゃない。
「急がない方が、うまくいくこともあるんだよな」
俺は種の上に薄く土をかぶせた。
ヤクちゃんが小さなジョウロを持ち、そっと水を落とす。ゼロさんは、ポットの横に日付を書いた札を立てた。エルリアさんは、温室の温度計を確かめて朝と夕方の記録欄を作ってくれた。
誰も魔法を使わない。ただ、小さな種が芽を出せるように、できることを少しずつ整えていく。その作業が終わったころ、温室の入り口からブルーが長い首だけをそっと覗かせた。
「キュイ?」
「ブルーも見に来たのか。踏まないようにだけ気をつけてね」
ブルーは、まるで分かっているみたいに前足を引っ込め、入口の外に伏せた。ポチもその隣に座り、二匹でポットを見守り始める。
「見張りが二人もいるなら、芽が出るのも安心ですね」
エルリアさんが冗談めかして言うと、ゼロさんは真剣な顔で二匹を見た。
「鳥害や獣害への備えとしては、これ以上ない布陣です」
「ポチはたぶん、芽が出ても食べないと思うよ」
「ワフ」
ポチは、自信ありげに胸を張った。その時、温室の奥で乾いた葉がかさりと鳴った。
全員がそちらを見る。
ただ、風で揺れた古い支柱の影だった。
「びっくりしたぁ。もう芽が出たのかと思った」
ヤクちゃんが胸をなで下ろす。
「さすがにまだ早いよ」
「早く会いたいなあ」
「会えるよ。ただ、芽が出るまでに必要なのは、楽しみにすることより忘れない程度に気にかけることかな」
「忘れない程度?」
「毎時間土を掘って、出た?って聞いたら、種が困るだろ?」
ヤクちゃんは想像したらしい。小さな種のまわりを大勢で掘り返している光景を思い浮かべたのか、困った顔になった。
「それはかわいそう。じゃあ朝と夕方だけにする」
「うん。それで十分」
ゼロさんが札に『朝・夕に確認』と書き足す。文字は真っ直ぐで、余白まで同じ幅だった。
「マスター・ユウト。発芽した後の担当も、今のうちに決めますか?」
「まだいいよ。芽が出てから考えよう」
「承知しました」
未来の予定まで今すぐ全部埋めなくていい。そのことが、昔の俺にはなかなか分からなかった。先の先まで埋めておかないと、何か大事なことを忘れる気がしていた。でも予定を詰め込みすぎると、急に晴れた日も、誰かが疲れた日も、うまく受け止められなくなる。
種が芽を出す日だって、今はまだ空白のままでいいのだ。
「なんだか、みんなでお昼寝を見守ってるみたいだね」
ヤクちゃんの言葉に俺は笑った。
「そうだね。土のお昼寝の次は、種のお昼寝だ」
昼過ぎ、温室の作業を終えると、俺たちは母屋へ戻った。
今日の午後は雪かきも出荷もない。予定表には珍しく大きな空白が残っている。
「ユウト様ー、次は何をしますか?」
ヤクちゃんが尋ねた。
以前なら俺は何か仕事を探したかもしれない。納屋を片付けるとか、畑の端を見回るとか、やらなくてもいい作業を作っていたかもしれない。
でも、当番表の『休憩』の文字が、居間の壁からこちらを見ている。
「今日は甘酒でも作ろうか。あとはコタツでのんびりしよう」
「やったあ!」
ヤクちゃんが両手を上げ、ポチが勢いよく尻尾を振る。
窓の外では、雪雲の切れ間から淡い陽射しが畑に落ちていた。
まだ土の下は眠っている。温室の種も、今日明日で芽を出すわけじゃない。
それでいい。春は、ちゃんと待っていれば来るのだから。




