第54話「氷霜侯爵と雪原の草刈り(※春を眠らせる凍土を耕し直す)」
温室から少し離れた西側の畑は、すっかり別の場所みたいになっていた。
さっきまで薄く雪が残っていただけの土が、青白い氷に覆われている。畝の形も、土の匂いも見えない。冷えきった空気の中では、吐いた息が落ちる前に白い粒になって消えていった。
「ここなら、温室からも母屋からも離れてる。話をするならこっちで」
俺は畑の端で立ち止まり、氷霜侯爵グラキエスを振り返った。
侯爵は、雪原の中央にそびえる氷像みたいに動かない。肩から垂れた凍った毛皮だけが、吹きつける風に低く鳴っていた。
「矮小な人間よ。我をここへ誘い出して、何をするつもりだ」
「まずは、芽を傷めずに済む場所で話したかっただけだよ」
「話すことなどない。春を招く者は、冬の敵だ」
侯爵が槍の石突きを地面に打ちつけた。
ズン、と雪の下から鈍い音が響く。
次の瞬間、氷の地面が盛り上がり、四つの獣が姿を現した。狼に似ているが、毛並みの代わりに鋭い氷柱をまとい、口からは白い冷気を吐いている。
「我が霜牙の猟犬どもよ。芽吹きを守る愚者を、冬の底へ沈めよ」
「ポチ、無理はするなよ!」
「ワオォォン!」
俺の横にいたポチ(元S級フェンリル)が、一歩前へ出た。
霜牙の猟犬が飛びかかる。ポチは雪を蹴り、真正面からぶつかった。空気が弾け、氷の破片が四方へ飛ぶ。
以前の俺なら、そこで草刈り機を全開にしていたと思う。でも今、手にしているのは祖父の納屋から持ってきた古いクワだった。先端には、使い込まれた金属の鈍い光が残っている。
草刈り機は納屋に置いてきた。温室のすぐそばで、何が起きるか分からない状況で、あの爆音と風圧を使う気にはなれなかった。
「創造神様、私も参ります!」
背後からエルリアさんの声が飛ぶ。
振り返ると、温室の入口にゼロさん、エルリアさん、アルカが立っていた。ヤクちゃんは、約束通り温室の中でポットのそばにいる。
「だめだ。温室のそばにいて」
「しかしっ!」
「もしこっちで何かあっても、芽を守る人がいなくなったら困るだろ?」
エルリアさんは悔しそうに唇を結んだ。けれど、すぐに背筋を伸ばして頷く。
「……承知しました。温室は必ず守ります」
その返事を聞いて、俺はもう一度、氷霜侯爵へ向き直った。
ポチは二匹の猟犬を雪の上へ押し戻し、残りの二匹を牽制している。戦える。でも、ただ倒して終わりにしたくはなかった。
「グラキエスさん。あんたは、どうして春をそんなに嫌うんだ?」
「……何だと」
「春が来ても、あんたの住んでる場所で、誰かが困るわけじゃないだろ」
「知らぬなら、知る必要もない」
侯爵の槍から冷気の渦が放たれた。
地面を削りながら進む白い風が、俺の足元へ迫る。俺はクワを横に構え、柄を地面へ突き立てた。
ガキン! と硬い音が鳴る。
振り下ろしたわけでもない。ただ土に道具を立てただけだが、俺の前で冷気の渦が二つに割れ、畑の左右を通り過ぎていった。
氷霜侯爵の目が、わずかに細くなる。
「その農具……ただの鉄ではないな」
「じいちゃんのクワだよ。畑を耕すのによく使ってた」
俺は凍った地面に膝をつき、クワの先をそっと当てた。
表面の氷は、石みたいに固い。力任せに叩けば、その下の土まで傷めるだろう。だから、氷の割れ目を探して、少しずつ刃を入れた。
ザクッ──
一度、二度。凍土が細く割れる。その隙間から、黒い土が顔を出した。まだ冷たいが、死んだ土じゃない。指先でつまむと、奥にはわずかな湿り気が残っている。
「見てみろよ。土はちゃんと生きてる」
「冬に閉じ込められた土が、生きているだと?」
「冬は土を休ませる季節だ。ずっと凍らせて壊すための季節じゃない」
俺が言うと、侯爵の表情が初めて揺れた。
猟犬たちの動きもピタりと止まる。
「休む……だと」
「ああ。うちの畑にも、何も植えない畝を作る予定なんだ。土が疲れないように休ませる場所を」
「我が領土は休まぬ! 休めば、春の熱が雪を奪う」
低い声には、怒りよりも、ずっと長く抱えてきた疲れが混じっていた。
「北の凍土は、かつて一年の半分が冬だった。だが、天界の火と人の魔力が流れ込み、雪解けは早まり、我が民の住処は泥となった。氷に生きる者は、眠る場所さえ失った……」
俺はクワを握ったまま黙った。
春が来るのは当たり前だと思っていた。でも誰かにとっては、その当たり前が住む場所を奪うこともあるのかもしれない。
「それで、春そのものを止めようとしてるのか」
「止める。すべてを凍らせれば、誰も奪えぬ」
「それじゃ、あんたの民もずっと起きられないだろ」
侯爵の指が槍の柄を強く握った。
「眠る場所がほしいなら、眠れる場所を作ればいい。畑を全部凍らせるんじゃなくてさ」
「人間が、我に土地を与えるとでも言うのか」
「与えるっていうか……相談する。うちの北側の斜面、今は何も植えてない。日当たりも悪いし、土を休ませるつもりだった場所だ」
あそこなら、温室や家からも少し離れている。雪が多く残るし、春野菜を植える予定もない。
「ただし、畑と用水路は凍らせない。温室の芽にも手を出さない。そこは守ってくれるなら、あんたたちが休めるように、土の様子を一緒に考える」
グラキエスは長い時間答えず、その沈黙のあいだに風が少し弱まった。
ポチが警戒を解かずにこちらを見ている。俺は片手を上げて、まだその場にいろと合図した。
「我を、敵として退けぬのか」
「勝手に人の畑を凍らせるのは困る。でも、困ってる理由まで聞かずに追い出すのも、なんか違うだろ?」
侯爵の赤い目が、俺の手元のクワ、それから氷の割れ目に覗く黒い土へと向いた。
「……人間よ。名を聞こう」
「ユウトだ」
「ユウト。今日、我は退く。だが、貴様の言う斜面を見せてもらう。欺きであれば、この地を永遠の氷にする」
「うん。その時はちゃんと話し合おう」
「話し合いで済まぬ場合はどうする」
「その時に考えればいいさ」
俺が答えると、氷霜侯爵は、ほんの少しだけ呆れたような顔をした。
「……愚かだが、逃げぬ目だ」
槍が持ち上がる。
霜牙の猟犬たちは、氷の粉になって雪原へ溶けた。侯爵が一歩後ろへ下がると、畑を覆っていた青白い氷も、ゆっくりと薄くなっていった。
すべてが元通りになったわけじゃない。西側の畑にはまだ硬い氷が残っている。けれど、温室へ伸びていた霜は止まり、朝の陽射しがもう一度、ガラスを温め始めていた。
「こっちは、すぐ植えられる状態じゃないな」
俺はクワの先で、残った氷の縁を軽く叩いた。表面だけが割れ、その下に眠る土が少し見える。
「無理に溶かさない方がよさそうですね」
アルカが、温室から持ってきた温度計を畑へかざす。
「急激な温度変化は、土の中の小さな生き物にも負担をかけます。数日かけて、ゆっくり戻した方がよいでしょう」
「そうしよう。ここの畝はしばらく休ませる」
エルリアさんが当番表を思い出したように、小さく頷いた。
「土にも、急がせてはならない時間があるのですね」
「うん。今日は、壊れたところを見て、必要なら雪をどける。それだけでいい」
ゼロさんはすぐにスコップを取りに行こうとしたが、俺が手を上げると、ちゃんと足を止めた。
「昼までに終わらなければ、続きは明日。今日はこれ以上、頑張りすぎない」
「承知しました」
少し前なら、こんな被害を見たら全員で一日中、畑を元に戻そうとしていたかもしれない。けれど、凍った土を焦って掘り返しても、春は早くならない。
俺たちは、雪原の端に残った氷を眺めながら、まず明日の作業を一つだけ当番表に書き足した。
──西の畑で土の様子を見る。
「ワフ!」
ポチが駆け寄ってきて、俺の手についた土を鼻先で確かめる。
「大丈夫、怪我はないよ」
温室へ戻ると、ヤクちゃんがポットの前で待っていた。
「ユウト様! 芽、みんな元気だよ!」
俺はしゃがみ込んで双葉を見た。さっきまで冷気に震えていた小さな葉は、保温カーテンの内側で、ちゃんと空へ向いている。
「よかった」
その一言が、今日一番素直に出た。
窓の外では、遠ざかる氷霜侯爵の背中が、雪の向こうに消えていく。
敵がいなくなったわけではない。でも次に会う時は、槍より先に、北側の斜面と土の話をすることになるのかもしれなかった。




