第42話「肝試しで本物の死神が出たんだが、疲労困憊の夜勤スタッフだと思ったからエナジードリンクと社畜オーラで労ってやった」
賑やかだったユウト農園の夏祭りも、夜半を過ぎると徐々に静けさを取り戻し始めていた。
広場を明るく照らしていた提灯の灯りが少しずつ落とされ、夜空には無数の星々が瞬き始めている。鉄板で焦げたソースの香ばしい匂いや、甘い綿飴の香りは、涼やかな夜風に乗ってどこか遠くへと運ばれていった。
「ふぅ……本当に、良いお祭りだったなぁ」
俺は、片付けが一段落した広場の隅にある丸太のベンチに腰掛け、冷たい麦茶の入ったグラスを傾けた。グラスの表面についた水滴がひんやりと指先を冷やしてくれる。耳を澄ませば、遠くの草むらから秋の気配を先取りしたような虫の音が、心地よいリズムで響いていた。
ブラック企業で働いていたあの頃の俺にとって、夏の夜というものは、決して気が休まる時間ではなかった。
「おいユウト! 明日の朝イチの会議までに、この百ページの資料のフォーマット全部直しとけよ! 終わるまで帰るな!」という上司の怒号。空調の切れた深夜のオフィスで、カタカタという虚しいキーボードの音だけが響く中、泥水のような味がする缶コーヒーを胃に流し込み、ただただ迫り来る朝の光に絶望する毎日。終電を逃し、誰もいない薄暗い夜道を歩きながら、「このまま暗闇の中に溶けて消えてしまえたら、どんなに楽だろうか」と本気で考えていた。
だが今は違う。見上げれば吸い込まれそうなほど美しい星空があり、隣には笑い合える仲間たちがいる。俺は今、確かな温もりの中で生きているのだ。
「ユウトさまぁ、お茶のおかわりいるー?」
弾むような声とともに、ヤクちゃんが急須を持って駆け寄ってきた。色鮮やかな浴衣に身を包んだ彼女は、お祭りの余韻でまだ少し頬を紅潮させている。
「ありがとう、ヤクちゃん。ヤクちゃんも屋台の手伝い、すごく頑張ってくれたね」
俺が優しく微笑みかけると、ヤクちゃんは「えへへ」と嬉しそうに笑って隣にちょこんと座った。
その時だった。
「社長ォォォッ!! まだですぞ! 夏の夜はまだ終わっておりませぬぞォォォッ!!」
突如として広場の静寂を切り裂くような大声が響き渡った。
見ると、地下帝国長のテラノスが、なぜか頭に白い三角の布(天冠)を巻き、首から懐中電灯をぶら下げた異様なテンションで駆け寄ってくる。その後ろには、元悪のCEOマッドシードや、最高神ゼウス、魔王ルシフェードといった面々が、ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべてゾロゾロと続いていた。
「どうしたの、テラノスさん? そんなお化けみたいな格好をして」
俺が首を傾げると、テラノスは「フハハハ!」と豪快に笑い、ビシッと裏山の暗闇を指差した。
「夏祭りの締めくくりといえば、これしかありませぬ! 恐怖とスリルが交差する真夜中のエンターテインメント『肝試し』でありますぞ!」
「我がGBG社の最新ホログラム技術と、ルシフェード殿の暗黒魔術を融合させ、裏山の森に極上の恐怖空間を構築いたしました」
マッドシードが、冷たい光を反射するメガネを指で押し上げながら不敵に笑う。
「ユウト社長には、この森の最深部にある古い祠にお札を貼ってきていただきたい。フフフ、無事に帰ってこられる保証はいたしませんぞ?」
「お主ら、社長を驚かそうと随分と張り切っておったからのう。ワシも少しばかり、雷鳴のイリュージョンを仕掛けておいたぞい」
ゼウスも楽しそうに白い髭を撫でている。
どうやら従業員のみんなで、俺を楽しませる(驚かせる)ためのアトラクションを準備してくれていたらしい。その心遣いがなんだかとても嬉しかった。
「ありがとう、みんな。せっかく準備してくれたんだし、喜んで挑戦させてもらうよ。ヤクちゃん一緒に行く?」
俺が手を差し出すと、ヤクちゃんは少しだけビクッと肩を揺らしたが、すぐに「う、うん! ユウト様と一緒なら怖くないもん!」と力強く頷き、俺の手をぎゅっと握り返してきた。
こうして俺とヤクちゃんは、提灯の小さな灯りだけを頼りに、漆黒の闇に包まれた裏山の森へと足を踏み入れた。
ザクッ、ザクッ……。
落ち葉を踏む足音だけが、不気味なほど大きく響き渡る。先ほどまで聞こえていた秋の虫の音は、森に入った途端にピタリと止み、代わりに冷たい風が木々の間をヒューッとすり抜けていく。月明かりすら届かない鬱蒼とした森の中では、枝葉の影がまるで巨大な怪物の腕のように見え、ヤクちゃんが俺の腕にギュッと抱きついて震えていた。
「大丈夫だよ、ヤクちゃん。全部みんなが作ってくれたお化け屋敷のセットだからね」
俺が優しく頭を撫でて歩みを進めていると、突如、前方の空間がグニャリと歪んだ。
「グルルルルル……! 闇ノ深淵ヨリ来タリシ者ヨ……我ガ領域ニ踏ミ入ル愚カ者メ……!」
空間の亀裂から、漆黒の炎を纏った巨大な魔獣の幻影が飛び出してきた。
圧倒的な絶望感を伴う暗黒の瘴気が周囲に立ち込め、地面の草花が一瞬で枯れ果てる。間違いなく、魔王ルシフェードが本気で構築した『超次元暗黒幻影魔術』の産物である。
「ひゃああっ! で、出たぁぁっ!」
ヤクちゃんが悲鳴を上げてしゃがみ込む。
だが俺の目には、それが全く異なって映っていた。
(うわぁ、すごい立体的なプロジェクションマッピングだなあ。スピーカーの音響も腹の底に響くし、スモークの演出まで完璧だ。マッドシードさんの会社の技術と、ルシフェードの魔法の合わせ技か。お祭りの出し物にしては、随分と予算がかかってるなあ)
俺は感心しながら、「すごいねー、よく出来てるよー」と呑気に手を振り、魔獣の幻影をあっさりと通り抜けた。
幻影は「エッ? 無視?」というような戸惑いの表情を浮かべ、シュンと消え去ってしまった。
「ほらね、ただの立体映像だよ。どんどん進もう」
俺たちがさらに森の奥深くへと進んでいったその時だった。
スゥゥゥゥッ……。
唐突に森全体の空気が完全に凍りついた。ルシフェードの魔術やマッドシードのホログラムが放っていた、作られた恐怖ではない。魂そのものを根こそぎ凍結させるような絶対的な死の気配が、森の最深部からどろりと溢れ出してきたのだ。
吐く息が白く染まり、周囲の木々の表面にビキビキと霜が張り付いていく。そして、闇の中からズズッ……ズズッ……と、重い足音を引きずりながら「それ」は姿を現した。
ボロボロに引き裂かれた漆黒のローブ。フードの奥から覗く、青白く発光する落ち窪んだ眼窩。そしてその骨張った手には、全宇宙の生命概念を刈り取れるほどの、身の丈をゆうに超える巨大な大鎌が握られていた。
「……魂……我ハ……魂ヲ刈ル者……」
現れたのは、冥界の最下層に君臨し、神々すらも寿命が尽きれば無慈悲に刈り取るとされる、真なる絶対の終末存在『死神タナトス』であった。
農園の活気と、夏祭りに集まった膨大な生命エネルギーに引き寄せられ、次元の壁を越えて冥界から顕現してしまったのだ。
「……アァ……終ワラナイ……。我ニ課セラレタ魂ノ回収ノルマハ一億……。休ミナド……三千年モ、貰ッテイナイ……」
死神はカタカタと骨を鳴らしながら、怨嗟の声を漏らしている。
その圧倒的な死のオーラに、モニター越しに監視していたルシフェードやゼウスたちは、拠点テントの中でパニックに陥っていた。
「な、なんじゃあれはァァッ!? ワシらの仕掛けたお化けではないぞ! 本物の、絶対なる死の概念そのものじゃ!」
ゼウスが白目を剥いて腰を抜かす。
「マ、マズイぞ! あの大鎌に触れれば、人間であろうと神であろうと、魂を永遠の虚無へと消滅させられてしまう! 早く社長を助け出さねば!!」
だが、恐怖で誰もその場から動くことができない。
一方、その真の死神と対峙した俺はというと──
(うわぁ……めちゃくちゃ本格的な役者さんを雇ったんだな。でも……)
俺は、目の前に立つ死神の姿を信じられない思いで見つめていた。
ボロボロの衣服。目の周りにくっきりと刻まれた真っ黒なクマ(骨だけど)。そして何より、「ノルマが終わらない」「休みが三千年も無い」と虚ろな声で呟きながら、重い足取りでフラフラと歩くその姿。
それは、ブラック企業時代に俺が何度も鏡の中で見た、そして同僚たちと重ね合わせた、『極限まで疲労困憊した深夜勤の社畜』の姿そのものではないか!
(そうか……この人は、みんながこの肝試しのために、派遣会社か何かから呼んだ夜勤のアルバイトスタッフなんだ。こんな深夜の暗い森の中で、重たい鎌の小道具を持たされて、ずっと一人で脅かすタイミングを待っていたんだな。しかも「ノルマ」とか「休みがない」とかブツブツ言ってる……。きっと、元請けのイベント会社から無茶なシフトを組まされて、ギリギリの精神状態で働かされているんだ……)
俺の心の中に、恐怖ではなく、底知れぬ共感と同情が嵐のように巻き起こった。
「……死ネ……。貴様ノ魂ヲ……ノルマノヒトツトシテ……提出シテ、我ハ……帰ル……。日報ヲ……書カネバ……」
死神がゆっくりと巨大な大鎌を振り上げた。その刃には、触れたあらゆる生命を塵に帰す、不可避の即死魔法が込められている。
「ユウト様ッ! 逃げてぇぇぇッ!!」
ヤクちゃんが絶叫する。
シュガァァァァァァッ!!!
空間を真っ二つに切り裂きながら、死の刃が俺の首筋めがけて振り下ろされた。
だが、俺は一歩も引くことなく、静かに右手をすっと前に出した。
ガキンッッ!!!
鈍い金属音が森に響き渡る。死神が全霊を込めて振り下ろした絶対死の大鎌の刃を、俺は人差し指と中指の二本で、飛んできたティッシュペーパーでも摘むかのように、いともたやすく受け止めていた。
「……ナッ……!?」
死神の青白い眼窩が驚愕に見開かれる。
「バ、馬鹿ナ……!? 我ガ絶対ノ死ノ刃ガ……生身ノ人間ノ指ニ……止メラレタ……!? キ、貴様……何者ダ……!?」
「……お疲れ様です」
俺は指で大鎌を摘んだまま、労いの声を夜勤スタッフ(死神)に投げかけた。
俺の体内からは、かつてブラック企業で培われた「どんなに疲弊した同僚であろうと絶対に見捨てない」という究極の社畜精神、『限界突破オーラ』が黄金の光となって滝のように溢れ出していた。
ドォォォォォォォンッ!!!
森を包んでいた暗黒のオーラが、俺の放つ黄金の光によって、まるで朝日に照らされた朝露のように一瞬で浄化され、消え去っていった。
「こんな深夜に、暗くて寒い森の中でずっと立ちっぱなしの業務……本当に、本当にお疲れ様です。ノルマがキツくて休む暇もないんですよね。日報の提出まで求められているなんて、どれだけ過酷な労働環境なのか……僕には痛いほど分かります」
俺の言葉に死神は動揺し、カタカタと骨を震わせた。
「ナ、何ヲ言ッテイル……!? 貴様ノ放ツソノ光ハ何ダ……!? 我ガ死ノ概念ガ……溶ケテイク……!?」
「無理して怖い声を出さなくても大丈夫ですよ。そんなにフラフラになるまで働いちゃダメだ。いくら会社からの指示でも、自分の心と体を壊してまで達成しなきゃいけないノルマなんて、この世には絶対に存在しないんですから」
俺は左手でポケットから一本の小瓶を取り出した。それは農園で採れた世界樹の樹液と、黄金トマトの果汁をブレンドし、俺の限界突破オーラを極限まで濃縮して封じ込めた、特製の『ユウト農園エナジードリンク・限界突破ブレンド』だった。
ポンッと蓋を開けると、中から眩いばかりの生命の光が溢れ出す。
「さあ、業務の途中ですが、これを飲んで少し休憩してください。栄養満点だから、きっと少しは体が楽になりますよ」
俺は、唖然として固まっている死神の骨張った手に、エナジードリンクの小瓶を優しく握らせた。
「コ、コレハ……? 生命ノ雫……? 冥界ノ住人デアル我ニ、コンナモノヲ飲メト……?」
死神は戸惑いながらも、俺の放つ圧倒的な慈愛のオーラに抗うことができず、小瓶を口元(骨だけど)に運び、ゴクリと飲み込んだ。
その瞬間だった。
ピカーーーーンッ!!!!!
死神の全身を凄まじい黄金の光が包み込んだ。何千年も冥界の底で過労に耐え、どす黒く染まっていた彼の魂に、限界突破オーラに満ちた究極の栄養が染み渡っていく。
ボロボロだった漆黒のローブは、純白の清潔なスーツへと瞬時に変化し、禍々《まがまが》しかった大鎌は、ピカピカに磨き上げられたスタイリッシュなモップへと姿を変えた。そして、恐ろしい骸骨だった顔には豊かな肉と血色が戻り、その下から現れたのは、見違えるほど爽やかで健康的な美しい青年の顔だった。
「あ……ああ……!」
青年(元・死神)は、自分の両手を見つめ、大粒の涙をポロポロとこぼし始めた。
「体が……軽い……! 魂の奥底までこびりついていた果てしない疲労感と絶望が、嘘のように消え去っていく……な、なんだこの温かい力は……!」
「顔色が良くなって良かったです。いいですか、もし今の派遣元の待遇がどうしても改善されないのなら、思い切って辞めるのも一つの手ですよ。もし行く当てがないなら、ウチの農園に来てください。うちは完全週休二日制、残業代全額支給、そして美味しい野菜が毎日食べ放題ですから」
俺がニッコリと微笑んで肩を叩くと、青年(元・死神)は、その場に膝から崩れ落ち、俺の足元に深く深く平伏した。
「あぁぁぁっ……貴方様は……貴方様こそは、冥界のブラック労働から私を救い出してくれた真の救世主! ぜひ、ぜひ私をこの農園で雇ってくださいませ! 夜間の見回りでも、トイレ掃除でも、何でも完璧にこなしてみせます!」
「あはは、そんなに泣かないで。これからよろしくね。名前はなんていうの?」
「タナトスと申します! ユウト社長の御恩、永遠に忘れません!」
こうして、絶対的な死の概念は、一杯のエナジードリンクとブラック企業を生き抜いた俺の社畜オーラによって、仕事熱心な「農園の夜間警備員」へと見事に転職を果たしたのだった。
拠点テントのモニターでその一部始終を見ていたゼウスたちは、もはやツッコミを入れる気力すら失い、ただ白目を剥いて泡を吹いていたという。
「さて、ヤクちゃん。夜勤のスタッフさんも休憩に入ったみたいだし、そろそろ帰ろっか」
「うん! ユウト様、すっごくかっこよかったよ!」
俺たちは、手を繋いで来た道をゆっくりと戻り始めた。森はすっかり浄化され、秋の虫たちの心地よい音色が響き始めている。
木々の隙間から見上げた夜空には、満天の星が輝いていた。明日の朝は、新入社員のタナトス君の歓迎会も兼ねて、採れたての野菜でとびきり美味しい朝食を作ろう。そんなことを考えながら、俺は冷たい夜風を胸いっぱいに吸い込み、どこまでも穏やかで幸せな夏の夜の終わりを、心ゆくまで噛み締めていた。




